市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

映画とは何 宮崎映画祭最終日

2008-07-13 | 映画
 どうも宮崎映画祭、魅力が薄くなってきた。映画の本質とは、離れてきているようなきがしてならない。

 映画は魔術、呪縛、秘密、悪場所、個人の密かなみだらな楽しみでもあるといえないか。それゆえに慰められ、快楽を与えられ、生きる喜びを得られる。そのための暗がりが、保障されている。明るい場所に、映画は耐えられない。

 しかし、宮崎映画祭は、映画を明るい場所に置いて、社会問題と関連づけようとしている。憲法9条、平和、環境問題、障害者支援、癌などなどと、そして明るみで今、見た映画とぼくが、関連づけられる。つまり社会教育をほどこされる。今回は癌に生きるということだった。「私はいかされています。1日、1日が今はなんど大切な時間でありましょうか・・・」何十回耳にした、言葉をまた聞かされる。
映画がそういう自覚に落ち着くとは、ぼくには信じられないことなのである。

 映画はかぎりなく、秘境性をもち、その環境につつまれることで、私はいまを
再確認する。その深さは、かんたんに言葉で強制される性質のものではない。

 映画はオタクの関心が要求される。そののめりこみ、その探求の限りなさで、
映画は価値を発見されてくるのだ。映画祭は、こういう探りから選ばれてくる映画で、ひとびとを楽しませなければならない。社会教育でありうるはずは無いのだ。
プログラムの冒頭に津村宮崎市長の写真とあいさつ文が掲載されるようになったのは、いつからだったろうか。なぜ、彼の挨拶と写真が必要なのだろうか。

 どうも、宮崎映画祭は、もう宮崎総踊りの宮崎市行事や、フラワーショーの県行事の祭りと本質的に変わらぬものになってきてしまった。

 映画はくらがりで見るもの、このことをもう一度かんがえてみる必要がありはしないだろうか。


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2 コメント

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Unknown (しぇこぱ)
2008-07-14 11:12:37
2005年7月から毎年の映画祭に言及してあるブログを拝見いたしました。
4年間、いい続けていることに一貫性があることに驚いています。
「My Mother is a Belly Dancer」が観れなかったことが残念でした。
来年もご一緒できればと思います。
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Unknown (k.ono)
2008-07-14 15:26:24
そうですか、読み返すことはないので、おんなじ批判をしていたとは!
映画というのは、テレビと同じでファッシズムのメディアでもありますよね。ナチ、軍国主義、シベリア物語、いろいろ、人を扇動する効果的武器ですよね。
いうなれば麻薬、その取り扱い方に関心が引かれるのです。
映画祭は、麻薬を扱っているのに、無知であってはなならないと警告してきたつもりですけど・・・
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