コメンテーターが今朝も、橋下発言を裁断していく。テレビ番組が流れている。文句をいうこともできず、我慢してみていくうちに、だんだん流れが真実らしく思えだしてくる。司会もコメンテーターも、真実などよりも、多種多様のブラウン管の向こう、かれらにとってはブラックボックスの暗黒に神経をとがらせながら、かれらの言葉選びが、妙に神経に障る。それは上下・左右に気をくばりながらの発言にならざるを得ないのかもしれない。四方が丸くなり、だれも怪我をしない、甘い団子が、こしらえられていく。こんなシーンの続く、テレビを見る。外は今日は曇りだ。出勤時刻がぎりぎりに迫ってきた。
ふと、思いついて、ブログのプロフィールを削除することにした。どうも、市街・野のプロフィールにぼくの過去をまとめてみたが、すると、僕が僕自身でなくなってしまうのだ。今の意識と主題をこいつが邪魔をする。参考になるかもと思って年齢とか、昔の職業とか、今もしている活動とか記してみたが、僕の生存の一本の指か、爪か眼球か、背中か、髪の毛かを述べてみたに過ぎず、まして脳内の構造や、心の存在などはあらわさないばかりか、これらを歪曲し、異様な像を形成するばかりである。消しえしまえと思う。書かれたもののイメージこそ、あるいは、それだけが存在を表しいる。つまり団子だ。それは食えるか、食えないか、美味いか不味いか、が問題であろう。名前がなくて責任がないという見方もあるが、書かれたものに色がつかないように、という思いがするばかりである。そのことに負けた。
作家の辺見庸氏が、なにかのエッセイで「花は咲く」を批判したら、その部分を削除するようにと編集者に要請されたということを別の人の投稿文で知った。辺見氏は、発言の自由もなくなってきている今の日本を、戦時下の時代と変わらない状況だといい、もっと一人一人がそれぞれの自由な発言をしないで自己規制しつづけるなら、もはや全体主義国家は目前だと警告しているというのだ。
たしかにその実感はまちがいないと、ぼくも思う。僕に言わせると、この曇り空のうっとうしさは、今に始まったことでもない。ずーっとである。日本社会であるかぎり、この圧力は感じざるを得ないであろう。だから、かれが警告するように、今が絶望の時代とはぼくは思わない。当たり前の危険であるということである。だから、近未来に全体主義国家の暗がりに転落するのでなく。転落はすでに済んでいるというのが、ぼくのかんがえである。だから、後は這い上がるだけである。絶望でなくて、希望がある。毎日、毎日、今は希望に満ちた状況の変化をあちこちで見、体験することが出来る。これが現実だ。じつに楽しい日本社会である。ここが、辺見氏とは違う。いや、かれの著作とは違うわけだ。
ふと、思いついて、ブログのプロフィールを削除することにした。どうも、市街・野のプロフィールにぼくの過去をまとめてみたが、すると、僕が僕自身でなくなってしまうのだ。今の意識と主題をこいつが邪魔をする。参考になるかもと思って年齢とか、昔の職業とか、今もしている活動とか記してみたが、僕の生存の一本の指か、爪か眼球か、背中か、髪の毛かを述べてみたに過ぎず、まして脳内の構造や、心の存在などはあらわさないばかりか、これらを歪曲し、異様な像を形成するばかりである。消しえしまえと思う。書かれたもののイメージこそ、あるいは、それだけが存在を表しいる。つまり団子だ。それは食えるか、食えないか、美味いか不味いか、が問題であろう。名前がなくて責任がないという見方もあるが、書かれたものに色がつかないように、という思いがするばかりである。そのことに負けた。
作家の辺見庸氏が、なにかのエッセイで「花は咲く」を批判したら、その部分を削除するようにと編集者に要請されたということを別の人の投稿文で知った。辺見氏は、発言の自由もなくなってきている今の日本を、戦時下の時代と変わらない状況だといい、もっと一人一人がそれぞれの自由な発言をしないで自己規制しつづけるなら、もはや全体主義国家は目前だと警告しているというのだ。
たしかにその実感はまちがいないと、ぼくも思う。僕に言わせると、この曇り空のうっとうしさは、今に始まったことでもない。ずーっとである。日本社会であるかぎり、この圧力は感じざるを得ないであろう。だから、かれが警告するように、今が絶望の時代とはぼくは思わない。当たり前の危険であるということである。だから、近未来に全体主義国家の暗がりに転落するのでなく。転落はすでに済んでいるというのが、ぼくのかんがえである。だから、後は這い上がるだけである。絶望でなくて、希望がある。毎日、毎日、今は希望に満ちた状況の変化をあちこちで見、体験することが出来る。これが現実だ。じつに楽しい日本社会である。ここが、辺見氏とは違う。いや、かれの著作とは違うわけだ。
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