市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

橋下維新の会共同代表の「それぞれの思い」を思う

2013-05-20 | 生き方
 個人には、それぞれに思いはあるのだと、慰安婦発言の弁明で共同代表は言っている。そのことは、ぼくの注意を引いたのだが、その後のテレビやメディアで、かれの口から出てこない。これは実に大事なキーワードだとおもえるのだが、消えてしまった。

 ぼくはそれぞれ草と、ブログの主題を名づけている。これもまた個人それぞれの思いを書くということで、サブタイトルにしている。しかし、橋下代表とぼくとでは、そのコンセプトは正反対である。ぼくの思いは、100パーセント弱者への思いである。代表の思いは、強者への思いである。つぎにぼくは大衆から距離を置く思いである。橋下氏は大衆と離れず、意思でコントロールする。どうやら、大衆とかれは表裏をなす、一枚のコインである。ぼくは太平洋ひとりぼっちの航海で思い続ける。橋下大阪市長兼維新の会共同代表は、艦隊の一戦闘艦・駆逐艦のデッキで幕僚に囲まれ、戦闘を思いつづける。こういう風に違う。ついでに言えば「草」とは雑草であるとも言い添えよう。魚雷をぶっ放すのはかれであり、戦場、戦争を放棄して逃げ惑うのはぼくである。こういうやつは、生きていても仕方がないかもと、かれはいうかもしれないな。だが、そう長くは生きていられない。その事実はわりと気楽である。

 毎年、5月になると、ぼくは連休の毎日をどう過ごしてきたかを綴ってきたが、今年はその日々を語るには、日が経ち、トウが立った。ただひとつ連休での温泉入湯の日々については、今回も述べておきたい。温泉、その快楽は、ぼくにとっては至福の空間である。湯煙が浴室に漂い、その中であちらに一人、こちらに一人と湯治客がひっそりと浸かっている。からんと木の洗い桶が響いたり、天井から落ちる雫がお湯の中に落ちたり、そんなことも浴室の静寂をさらに深め、窓外の樹木の生命を身体にかんじさせもするのである。心身は、かくして、くつろぎ、時間は流れ、ストレスは温泉の湯に溶けていく。

 これは典型的温泉風景であろうが、ぼくの通ってきた温泉には、こういう情景は、ほとんど消失してしまった。浴室は入湯客で沸きかえり、大声で語りあうもの、子供の甲高い声が飛び交い、体にお湯を浴びせる気ぜわしい動作、その騒音、湯温は42度余りに保たれ長湯は出来ない。鏡を前にはめこみ、蛇口があり、プラスチックの洗面桶と腰掛をそなえた洗い場は、順番待ちになりがちである。この光景はまさに昔の街角にある銭湯風景である。いつ行ってもほとんど銭湯風景であり、今日こそは、ウィークデイの朝や夜でも、銭湯であり、たまたま偶然に温泉に還るときもあるが、いつもそこは銭湯になった。

 この市民であり、60歳以上であれば入湯料は200円、山間の温泉は大人400円である。たいがいどこも500円以下である。ゴールデンウィークの毎日、ぼくは家内と、どちらかの温泉に通ったが、毎日混み会う銭湯風景であった。しかし、慣れてしまえば、それはそれで楽しめるのである。どう慣れるのか、これは後で語りたい。問題は、この光景の出現である。500円以下で、ゴールデン連休を一日楽しめる人々の群れである。いっぺん湯につかり、そこの休憩室で過ごすなら一日はだいたいそこで終わることになる。

 このつつましい遊び、遊興の値ごろ感、これで十分という休日の遊びに、これほどの人々が集まってくるという日常をみると、景気が回復したとか、そんなことは、とても現実に起きているいるとは思えない。いや、この金を使わぬ消費行動は、ちょっとやそっとで変化するとは思えない。もっともっと金を消費する日常、休日行動が大衆に可能になる日本の景気回復、デフレ脱却は、ちょっとやそっとや、三本の矢でどなるなど、ありえないのではなかろうかと思うのである。これが、今年のゴールデン・ウィークの感想である。

 
 

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