宮崎駅前商店街が、古いアーケードを撤去しリニューアルにスタートしたのは
2006年の10月、アーケードが撤去されて、やがて2年になる。
ここもまた、ムードいっぱいのきれいごとの並べられた再開發のイメージが語られていた。ここは太陽さんさんと降り注ぐ、人に優しい曲線の歩道がつづき自動車は、やっと一台が通れる人間優先の街路になると、語られていた。またしても、ここにも現実味を欠いたきれいごとが、並んでいた。それでも夢は夢、2年もの間、この夢を待っていたはずだが、つい最近、突然奇怪な鉄製の巨大な箱が狭い通りにどかどかと出現した。
この不細工極まる鉄の箱は、よくみると、九電のマークがあり、大箱に「SW」小箱に「TR」と記号が記されている。変圧器や制御装置が収納されているのだろう。同じものが、橘通り、高千穂通り、老松通りにもある。この大通りの設置数は
100メートル、50メートルに一個くらいだが、この狭い商店街には両サイドに十数個が並んで設置されている。
しかも、その場所は、店のまん前であろうが、角であろうが、路地の入り口だろうがお構いなしである。車一台の通りにするというのに、ダンプでも防御できそうな巨大な車避けの柵までついている。通りは、この占有物のまえに卑屈にも頭を下げねばならぬがごとしの傍若無人の設置である。街づくりへのコンセプトがあったなら、このような闖入者を防ぐことが出来たはずである。あったのはムードだけであったということを、この鉄の箱が語っている。
コンサートはムードでも成り立つ、訂正と発展の可能性もありうる。しかし、街づくりを、コンセプトなしにやると、取り返しのつかぬ失敗となる。この事実はなんど強調してもしすぎるということはないであろう。T-ステージを見てほしい。
アートも街も、人の意識に芽生えうみだされてくるものだ。それが、アートと街が呼応してコンセプトを欠いている。メディアは、このようなことに批判が向けられない。回覧板の機能しか、果たしてない。これがいまの宮崎市の深刻な文化状況である。駅前商店街の、ほったらかされたこの2年間の空白は、なんだったのだろうか。
2006年の10月、アーケードが撤去されて、やがて2年になる。
ここもまた、ムードいっぱいのきれいごとの並べられた再開發のイメージが語られていた。ここは太陽さんさんと降り注ぐ、人に優しい曲線の歩道がつづき自動車は、やっと一台が通れる人間優先の街路になると、語られていた。またしても、ここにも現実味を欠いたきれいごとが、並んでいた。それでも夢は夢、2年もの間、この夢を待っていたはずだが、つい最近、突然奇怪な鉄製の巨大な箱が狭い通りにどかどかと出現した。
この不細工極まる鉄の箱は、よくみると、九電のマークがあり、大箱に「SW」小箱に「TR」と記号が記されている。変圧器や制御装置が収納されているのだろう。同じものが、橘通り、高千穂通り、老松通りにもある。この大通りの設置数は
100メートル、50メートルに一個くらいだが、この狭い商店街には両サイドに十数個が並んで設置されている。
しかも、その場所は、店のまん前であろうが、角であろうが、路地の入り口だろうがお構いなしである。車一台の通りにするというのに、ダンプでも防御できそうな巨大な車避けの柵までついている。通りは、この占有物のまえに卑屈にも頭を下げねばならぬがごとしの傍若無人の設置である。街づくりへのコンセプトがあったなら、このような闖入者を防ぐことが出来たはずである。あったのはムードだけであったということを、この鉄の箱が語っている。
コンサートはムードでも成り立つ、訂正と発展の可能性もありうる。しかし、街づくりを、コンセプトなしにやると、取り返しのつかぬ失敗となる。この事実はなんど強調してもしすぎるということはないであろう。T-ステージを見てほしい。
アートも街も、人の意識に芽生えうみだされてくるものだ。それが、アートと街が呼応してコンセプトを欠いている。メディアは、このようなことに批判が向けられない。回覧板の機能しか、果たしてない。これがいまの宮崎市の深刻な文化状況である。駅前商店街の、ほったらかされたこの2年間の空白は、なんだったのだろうか。
どんどんやってるというのに。ただ、東京も一部エリア的な開発のため、都市として見るとモザイク的な計画・開発で、パリやロンドンのような全体的な美的景観は無いですが。・・・日本人ってこういったところは個人主義が強く、全体的な計画、まとまり感、美的感覚ってないですね。これも人種・宗教・文化の違いですかね。
あなたのおっしゃるとおりです、宮崎市の責任はきわめて重大です。そして、その行政に巣食っている都市工学者というもの同罪です。かれらもまた洞察力をかいているばかりか、都市とはなにかを文化的に把握できてないのです。工学的に可能だという錯覚で。
そして、新聞も回覧板、知識人は不在、これですよ、問題は。
こんごともよろしく。
このじゃまな箱は何だろうと思っていたら、変圧器だったのですね。
電柱がなくなったらバリアフリーになるだろうと思ったら、
電柱の直径よりもっと巨大な箱が邪魔をしてますねー。
高千穂通りは、駅から続く街の顔なので電線地中化も分かりますが、
こんな路地まで金を掛けてする必要はないのではないでしょうか。
そのうち、ここもカラータイル舗装にするのではないかと思いますが、
タイルやブロック舗装は次第に凹凸が出来て、自転車で通るとガタガタするので嫌いです。
通りを美化しても、それで賑わうようにはならないと思います。
人を呼ぶのは、あくまで商店そのものの魅力ですから。
橘通り公園化、アートセンター、宮崎市総合体育館立体駐車場、市役所前噴水広場整備、
石崎浜荘・プールのリニューアルetc・・・
投資が続きますが、市の財政は大丈夫かと不安になります。
駅前商店街は、あなたの洞察されたように、まちがいなくなるでしょう。だって、100人集まって街をかんがえるという委員は、その方法しか知らないからです。
どこもかしこも、一定の価値基準、つまりきれいな
街という、現実味なない基準で、統一化するしかアイデアが沸かないようですから。それに反対する市民は委員には加えられないはずです。ぼくの知人たちも一人も委員に加えられてないです。
街を一つの基準で統一するということは、市民個人個人のくらしの多様性を無視して、行政サイドで効率よく管理するということでしょう。
今は建設業が行き詰っていますね。それを救うのが
本音で、街を食いながら、建設業を生かそうとするのです。蛸が、自分の足を食ってさしあたり生き延びるとうように。しかし、この話、蛸が、飢えて自分の足を食べるとは、そんな場かなことはしないでしょう。 宮崎市行政は蛸よりも劣っているといえます。
この蛸に劣る行政の長を次回は絶対に拒否しなきゃと思うこのごろです。また、たち寄ってください。