市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

吹け吹けど踊らず

2013-12-07 | 政治
 学生がまったく踊らなくなった。秘密保護法案という大笛が鳴り響いてきたのに学生は踊らず、笛は吹き終えた。シーンとした静かな朝が、また開けた。国家の明暗、そんなものは意識にないというのか、しかし、思えば、これは凄い自律心かもしれない。政治もここまでくると、学生は何らかの反応を起こすと思えたが、やはり踊らない。今思えば、非日常性であるテント劇団の公演とか、実験的な野外のアート展とか、外山恒一のトーク・ライブとか、路地でのイベントか、映画祭とか、演劇祭とか、街での実験的試みなどにも踊るどころか、無関心であるのを、もう15年くらい経験してきている。かれらを新しい、批判的な、挑戦的な企てに参加の声をかけても踊らなかった。笛吹けど踊らずである。情報過剰で、情報に踊らないのである。しかし、就職活動には、踊りまくっている。
 
 生きるためにはやむをえないといえば、それまでであるが、学生の大半が就職活動などは、放り投げて、社会の理想を実現しようと人生を賭けて活動するとなると、企業もかえってやる気のある学生を見つけやすくなるのではないだろうか。何万枚という休職申し込みを上場企業は、受けて、その選別をまずはアウトソーシング会社に任せている上場企業まあるという。また学生は一人平均60社に面接して回るという。こんな学生の応募を受けて、お手上げの企業もでてくるわけだ。膨大な社会的エネルギーが、学生・企業ともに消尽されているのだ。こういうことじゃ、未来の成長戦略などは夢想か、スローガンで、新年度は消えるのではないかと予想できそうだ。今朝のテレビは、女性と中高年だけが、何万人か集まっての、秘密保護法案反対のデモの実況をしていた。また作家、評論家、メダイア記者、もろもろの芸術家、大学教授などが集会を開いた。会議場の光景と、そしてかれらの反対声明(まったくどこからどこまで凡庸な宣言文であることか!!)を読む一人の記録文学者の表情を映し出した。かれの体力の無さそうな姿を見ただけで、そこに集まった知識人・芸術家の職業集団には、反対運動を持続し、かつ戦える体力と意思をかんじられず、まただれもが、暇もない暮らしだろうと、もろもろの疲れている表情から見てとれるのであった。これだからこそ学生の自由と暇と体力を集合した巨大な反体制エネルギーがいるのだが、かれらは、そういう人種、大人たちのために就職活動を犠牲にするほど、ばかじゃないと思っているようにも想像できる。かくして学生はさわがず、受けて立つ側は、女こども、中年、高齢者のデモ参加者や、声明をだした知識人も芸術家の声も、せせら笑える犬たちの遠吠えでしかなく、まもなく静かになると、安心しているのではないだろうか。まもなく新年だ、いい年が明けるとかれらは正月準備に帰郷していくのであろう。

 だがそうだろうか。表面に出たものは、大危機、大災害の兆候ではないのだ。大地震も巨大台風も兆候なく、表面に出さず、突然、躍り出てくるのだ。笛吹きにあわせて踊るのでなく自ら暴発して荒れ狂う踊りをしだすのである。11月23日彼岸の昼間、ぼくと家内は半年ぶりで、日帰り温泉に行くことにした。ここ3年余りは、温泉、温泉で日曜、祭日も元旦、正月も出かけていた。ややこしい本は、その温泉で読み上げていた。7月家内は腰椎の手術、ぼくはひざ関節強打で、温泉に行けなくなった。行かなくなると、これまた、ぜんぜん苦ではなくなるのだ。かって温泉のプールで歩行運動をしていた家内は、我が屋の台所から仏間、廊下、書斎、寝室、客間とぐるりとまわる歩行運動を始めた、着替えなくてもいいし、自動車や転倒の心配もないし、この運動は手軽でいいわと悦びだした。試しにぼくもやってみると、部屋をぐるぐる、いろんな品物を避けながら歩くというのは、以外に退屈しないでできるのを発見した。こんなことをしつつ、すごしてきた温泉なしの日々だったが、半年ぶりの温泉は、さすがに気分を沸かせるものではあったのだ。

 ところが、青井岳温泉に着いてみると、運動場ほどある駐車上が満車であった。あわてて普通は行くこともなかった隣接した第3駐車場にまわると、ここもやっと一番奥に一台分だけ見つかった。先に下ろしていた家内は、玄関に戸惑ったような顔で立っていて、どうしようもないわ、帰ろうと言ったのだ。これまで、多少の混みようでは、こちらが帰りたくても帰るといったことがなかった温泉好きの家内の反応にも驚かされたのだ。さて、問題は、この温泉大盛況である。ここ数年、青井岳温泉の客はしだいに増えつつあった。とくに正月はもちろん、連休、祭日は、ほぼ満席になってきた。以前は1月1日元旦といえば、のんびりとした温泉を楽しめたのだが、今では休日となると、押しかけてくる家族連れ、とくに若い夫婦づれの客、年寄りや中年サラリーマンなどであふれるようになってきた。この有様は、宮崎市の国民健康村の市の温泉にも当てはまる。半年ぶりに行った青井岳温泉では、もはや余裕もないほどの入湯客でごったかえすほどになっていたのだ。なぜ、こうなってきているのか。

 温泉の開設が数多く、市町村でみられるようになってきて、温泉は、かっての銭湯のように日常のものになってきたということが大きな要因であると思える。温泉の入場料は、ここは400円、市の施設は市民なら60歳以上は200円である。このおどろくほどの温泉の低廉さが、大衆をよびこんでいるのであろう。それが、国民の祝日、まして連休となると、温泉がごったがえす。これがぼくの心を引くのだ。連休といえば、もっと金を使って快楽できる場所はあちこちにあるだろう。にもかかわらず、400円を払って一日を過ごすという消費のあり方は、興味深いではないか。近場で低額で、連休を享受するというライフスタイルを取られては、高速道路通行料金を半額にしたために、国家は赤字となる。目論見は破られている。これは愉快ではないか。消費の復活に自分たちの生死を賭けてしまったアベノミクスは、景気がもどってきたというが、大衆は近場・低額の楽しみをつづけている。この大衆は、踊らないのだ。この現実を法によって金を消費させることは現況ではまだ不可能なのである。見方によれば抵抗勢力であり、内需拡大の負のエネルギーでもある。やがて、地下のマグマとして溜まりつづけていく。こうした大衆現象は、あちこちで見られるのではないか。学生たちの沈黙も、社会を変革する地下エネルギーとして増加しつつあるようにも思える。これらに注意をはらわずに表面だけを見て天下を取ったように思っているのが、自民党・公明党の今ではないのかと、人はなにをかんがえているのか、どのように自分を護る行動をとるのか、ここをしっかり見ないで、政策を押し通していけば、それはマグマとなって地下に溜まり続ける。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自転車 散歩(サイクリング... | トップ | 蓄音機と真空管アンプで音楽... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事