市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車ぶらり アメリカ村

2010-08-30 | 自転車
 昨日、日曜日は、いつもよりちょっと早めに出ることにした。エスケイプを部屋より運び出して、タイヤが鉄のように硬くなるまで空気を注入、ギヤの調子も整えた。そうこのギヤが問題となってきている。切り替えた後に、前後にギヤを回転させて、噛み合いを調整しないと、ギーギーとチェーンを歯車がこすれて音がでるようになった。先週に出会った若い二人のサイクリストも、一人がシマノで、もう一人はそうでなかった。シマノは良いです。自転車の機能のいいのには、適わないですと言っていた。丁度、ぼくも、そのことを考え出していた。後、体力をカバーするには、今のエスケイプよりももう一段上のサイクリング車に乗り換えることにすべきだろうと思う。それには、ギアが軽いこと、一発で決まること、車重量は10キロ代が必須である。この条件を満たすものとなると、10万円代で入手できればラッキーだろう。いや値段よりもそうしたサイクリング車が見つかれば幸運かと思っている。何十万円かかろうと、購入したい。体力のカバーはマシンにたよるしかないからである。ぼくには「がんばる」という精神も根性もないからである。

 今回は、走行先がはっきりしていた。田野の近くの「アメリカ村」という集落に25年ぶりに行くことだった。行くというより探しだすことだった。前回は、清武町から田野町にとおる国道沿いから西へそれる低地をさがしてみたが、見つけ出せなかった。今回は、もう一つのルート、黒北発電所を通り、鹿村野小学校(ここは2005年から休校となり2008年廃校)を通って田野町に至る道路そいの西側を探してみることにした。なにしろ、このルートしかもうないからである。あの当時、集落をアメリカ村と呼んでいたのは、宮崎市民が知っていたかどうかもはっきりしない。知っているのは、ぼくの同僚の一人と、いのしし猟をしていた近所の知人だけだった。が勝手に名づけていたのか、今となってはよくわからない。さらに聞いても、かれらも正確な場所をおもいだせなかった。だが、ぼくはいのしし猟の友人と、田野町の廃校となるであろう小学校を買い取ってキャンプ場にしようとう計画をやりたいと見学に行った途中にアメリカ村に立ち寄ってのであった。

 そこは、村というより団地風に、道路が整備されて、集会所には新聞や、平和の主張や政治的スローガンなどののチラシやポスターが貼ってあった。通りもチリ一つなく綺麗で、民家の前で小学生が何人が遊んでいたが、ぼくたちを見ると、ほとんど直立して、こんにちわと挨拶するのだった。村というよりコミューンという感じであったが、規律と政治的な意思をもった家、家が集落をつくっていた。当時、市内の一つ葉海岸、今の宮崎港の砂地にもヒッピーコミューンがあったが、そこはアートや音楽やら、ヨットの建造といった享楽の場でもあった。アメリカ村は、規律と目的の生活団体であった。その後、この村はどうなったのか、なぜ25年も再訪を思いつかなかったのか、今となっては残念である。あの時、見事な挨拶をした小学生たちは、今や30代の若者たちだ、どうなったのかと知りたいことばかりであった。
 
 今回は村を発見できそうだと、楽しみに溢れて午前9時22分、赤江大橋を南に走り、橋の上から西にみえるホテルのビル群を圧するばかりの積乱雲の撮影をした。今朝は、気温は30度くらいかもしれない。ほとんど暑気は感じず、むしろ涼しいくらいであった。綿のズボンに黒の長袖、首に濡れたタオルをまくスタイルにした。20分ほどして上流の天満橋に至り、そこのビータスビルの屋上電光温度計は、29℃でしかなかった。この分なら昼間温度が上昇してもせいぜい2度前後だろう。これなら暑気は問題ない。今日はアメリカ村を探すのだから、体力の温存になると、天満橋からの接続道路を南へ走り、突き当たりの交差点を右折して、そのまま古城小学校のある山合いへと走っていった。ここから旧焼却炉の赤白の煙突を右上に見ながら進む。やがて「時雨」という峠にいたり、ここを越えると清武川の岸辺に出ることができる。ここから黒北発電所のある田野への道路に出て周辺の村を探すのだという計画であった。ところが「時雨」という峠のイメージは25年前のものであったのだ。

 現在は、峠という感じはどこにもなかった。前昔は、杉の木立が狭い道路わきに立ち並んでいたのだが、ただひろびろとした2車線の中央分離帯のある道路が、ゆるいカーブをなしながら坂道となっているいるばかりだ。じつに平凡な道路でしかなかった。その坂にかかると、見た目はなんでもない坂であったが、ギヤ比をどんどん落とさなくては登れ無いようなきつい勾配なのだった。漕げども漕げども頂上につけない。この坂は何なのだと叫びたくなるほど執拗につづき、途中でたまりかねて、自転車を降りた。休憩をとり、なんとか登りきって、やれやれこれから一気に清武川へ下ると思ったところ、なんと下る道路などなく、だだっ広い区画整理された畑地がひろがっていた。ここは先日登ったあの田野町へつうじる区画整理台地の端のほうらしかった。どちらの方角へ行けばいいのかと迷っていたら、折りよく老夫婦の乗った自家用車が近づいてきたので、道を尋ねると、黒北発電所なら、この先の十字路を右にまがって、そのまま降っていきますと、黒北の村になると教えてもらえた。

 一キロ位、広い道路をほぼまっすぐ降りていったが、川岸などなくて数戸の家が道路を挟んで建っており、自動販売機があった。そこで、ジュース缶を選んで、飲んでいると、年取った女の人が一人で通りかかった。そこで、早速、以前ここらにアメリカ村といわれた集落はなかったかどうかと尋ねてみた。そんな村は聞いたことはないけど、教会のある村はあるという。そこかもしれないと言われた。教会、たしかにエキゾチックな感じではある、その後、様子も変わったのかもしれないと、場所を聞くと、ここをまっすぐに行くと橋があるので、橋を越えて坂をのぼっていくと、神の里ガある、神の里ですか、そう、農産物を売るところで、そこをすぎると教会がみえるからと教えられた。教会といい、神の里といい、なんとなく気配が感じられた。よろこんで進むと、橋があり、右手の坂の上に黄色に塗られた住宅か、なにかの2階家が見えた。ますます雰囲気が感じられ、橋を越えて右の坂を上ると綺麗な生垣と芝の庭風な屋敷が見えてきた。しかし、そこは、黒北発電所の門であった。そこから先はただ山があるばかりに感じられたのだ。ひょっとすると、橋の手前の坂道をのぼるのではなかったのか。橋を越えてとはそのことかと、ひっかえしていると中年のスポーツ着のマラソンでもしているような男の人がやってきた。ふたたび尋ねると、いやあ、そんな村の名前はしりませんが、平和という看板が道に立っている村はありますねという。この坂をのばっていきますという。平和か、そんなたて看板を出す村というなら、あのアメリカ村でみた政治スローガンの張り紙などとぴったしではないか、どうもそこかもしれませんなというと、かれも沿うかもと言う。ではと自転車をそのほうにむけると、遠いですから、この坂もかなりありますからと気遣いをしてもらえた。

 黄色い家の前をすぎ、坂を上り始める。だが、時雨の坂と比べると、楽なのでかなりのスピードでのぼりつづける。こんどは全体がピンクに塗られた2階家が現れた。なにをする家なのか、住宅ともアパートとも見える人気の無い家の前をすぎ、なおも坂道はつづいた。およそ一キロ位登ってようやく頂上に着いたとおもったら、なんと、さっき降ってきた区画整理農地の台地に到達したのであった。とにかく平和という看板は立っているというのだから田野町への方角を見当つけて進んでいくが、看板は見当たらず、廃屋同然の家屋に巻き上げしきのテントまかれたばことの字が見えた。こんな野原にたばこの店があったのかと、いささか消えた店にノスタルジーを感じて、なおも進むと、とつぜんどうろの上に赤いペンキで平和と大書された一メートル四方の立て看板がついにあった。まさに60年代の安保闘争時の建て看板を連想させるものだった。そこから小道があり、100メートル先で降り坂のなっていた。

 とうとう着いたか、ぼくは喜び勇んで、この小道を下りはじめると、うっそうとした木立の間からせせらぎの音が聞こえ、狭い、セメントざらざらの粗末な自動車一台がやっとはしれる道路が、続き始めた。セメント舗装の癖に地面の匂いがするのであった。かなり水平に進んでいくと、急に道が降りとなり、ブレーキをかけながらゆっくりとすすんでいくと、道路はますます狭く、しかも急カーブとなり、川の音、匂いがしてきた。さらに勾配は急になってきた。ちょっと帰りはどうなるのかと不安になってきた。どこまでつづくんだろうか、しかし、いまさら引返すなど出来そうも無い。こうなったら、アメリカ村に到着するまで、平地に出たら、ここを通って田野町に出てそこから帰ればいいと思いつき、進んでいくことにした。しかし、この勾配の深さ、崖の下は川と緊張がつづく。今頃、こんな道路など、昔の廃村となった寒川(さぶかわ)か、新しき村に降りる旧道の峠道くらいしかおもいつかない。あそこも、もう改良されている。この奥に集落があり、平和というスローガンを看板にして、道路に立てる意味とはなんなのだと、おどろきながら、すすむと、なんと目の前には、ふたたび登り坂があらわれた。やれやれもう体力も残りが無いぞと、登りにかかる。しかし幸いなことに150メートルほどして3軒の住宅があった。

 広場もあり、道路は住宅を結んでいるようであった。しかし、狭く、家は三軒しかみえない。と、赤い郵便局のバンがやって来て目の前の家の庭に入っていった。ここは違うな、どうもアメリカ村とはぜんぜん違う、とはじめて気付くのであった。しばらくして郵便配達の若い局員が玄関から出てきたので、ここはアメリカ村といいませんでしたかと聞くと、そんな村は聞いたこともありませんというのだった。そこで、では、この家の前の道はどこにつづいているのかと聞くと、行ったことがないのでしりませんというのだ。さすがにあわてて、では田野に行くにはやってきた坂道を登って上の台地にでるしかないのかと聞くと、それしかないというのだった。自分は、まだここらは初めてですからあまりしらないのですと、にこにこしながら言って郵便車に乗り込んでいった。あたりに人影はなく、こんどは、ぼくが、この家の玄関の呼び鈴を押した。若い女性が顔をだしたので、早速聞いてみた。この前の道はどこにつうじていますか、畑です。畑、その先は、どうなってるのでしょうか。さあと言うのだ。田野につづいていませんか。田野は上の道路しかありませんというのであった。

 がっかりして、前の畑地をみると、底に標識があり、これは鉄版に掘られた道路標識に似たもので平和地区と記されていた。地区名だったのか、この平和というのは!しかし、なんで平和という思わせぶりな集落名をつけたのだろうか。地名の由来とは、ほんとにわからない。いや、ひょっとするとヘイワというのは別の漢字であったのかもしれない。だったら60年代風の赤いペンキでの看板を道路に立てているのは、どういう意味なのかあと思う。そんなことより、速いとこ、この勾配を登って上にでないと、雨でも降られたら万事休すだと、腹を決めた立ち向かうとことにした。予感どおり、小雨が降り注ぎ始めた。

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