ひとつ前の記事に対する補足。
レポートを採点しているとき、もっとも評価が低くなるもののひとつは、「根拠のない断定」をしている文章である。「何故、そう言い切れるのか」がまったく説明されていない。そういうレポートが結構多い。(さらに評価の低いのは、明白な事実誤認や文章中の自己矛盾に気がついていないものであり、これらも結構多いのだが、ここではそのことには触れない。)
たとえば、「事柄Aは正しい。何故なら、私はそれが正しいと信じているから」と論文に書かれても、(書き手が神であるならそれも成り立つだろうが)読む方は普通それを信じることはできない。さすがにこういうベタな書き方をしている例は少ないだろうが、たいていの場合、言おうとしていることはこれと大差ないことが多い。
このような「根拠のない断定」が連発されているレポートは、何とかいいところを見つけようとしてもどこにも見つからないことが多い。「救いようがない」のである。
そういえば、この春以来、文化政策の専門家であるKさんと話す機会が何度かあったが、彼女の話の中でよく出てきたのは、一般的には正しいとされていることであっても、自分はそれについての例外をいくつも知っているために、それを無批判に正しいと言い切ってしまうことへの躊躇がはたらいてしまうことがしばしばある、ということである。
これは、言わば、「根拠のあるためらい」である。
理論化のためには多少の論理の乱暴さには目をつぶってわかりやすい図式化をしたい誘惑にかられることが多くある。だが、「必ずしもそうは言い切れない」というところにこだわることも大事なことである。
一般には、「根拠のない断定」ではなく、「根拠のあるためらい(判断保留)」を選ぶべきである。レポートには、「なぜ、あることについての断定を保留するのか」を問いかけ、それに対する考察を順を追って論理的に書けばよいのだ。
しかし、ときには、逆に、一刀両断しにくいところを敢えてスパッと斬って捨てることが必要な場合もあるに違いない。
学問(研究)とは奥が深いものである。
レポートを採点しているとき、もっとも評価が低くなるもののひとつは、「根拠のない断定」をしている文章である。「何故、そう言い切れるのか」がまったく説明されていない。そういうレポートが結構多い。(さらに評価の低いのは、明白な事実誤認や文章中の自己矛盾に気がついていないものであり、これらも結構多いのだが、ここではそのことには触れない。)
たとえば、「事柄Aは正しい。何故なら、私はそれが正しいと信じているから」と論文に書かれても、(書き手が神であるならそれも成り立つだろうが)読む方は普通それを信じることはできない。さすがにこういうベタな書き方をしている例は少ないだろうが、たいていの場合、言おうとしていることはこれと大差ないことが多い。
このような「根拠のない断定」が連発されているレポートは、何とかいいところを見つけようとしてもどこにも見つからないことが多い。「救いようがない」のである。
そういえば、この春以来、文化政策の専門家であるKさんと話す機会が何度かあったが、彼女の話の中でよく出てきたのは、一般的には正しいとされていることであっても、自分はそれについての例外をいくつも知っているために、それを無批判に正しいと言い切ってしまうことへの躊躇がはたらいてしまうことがしばしばある、ということである。
これは、言わば、「根拠のあるためらい」である。
理論化のためには多少の論理の乱暴さには目をつぶってわかりやすい図式化をしたい誘惑にかられることが多くある。だが、「必ずしもそうは言い切れない」というところにこだわることも大事なことである。
一般には、「根拠のない断定」ではなく、「根拠のあるためらい(判断保留)」を選ぶべきである。レポートには、「なぜ、あることについての断定を保留するのか」を問いかけ、それに対する考察を順を追って論理的に書けばよいのだ。
しかし、ときには、逆に、一刀両断しにくいところを敢えてスパッと斬って捨てることが必要な場合もあるに違いない。
学問(研究)とは奥が深いものである。
それはアートの専売特許かと思ってました。また、さらに、学問(研究)でも一刀両断するようなやり方をしたほうがいいと常々思ってました。たぶんプロセスの内にはそういう場面もあると思いますが、方法論として確立してないのではと感じます。
実体についてはわからないまま引き合いに出してしまいますが、「理論物理学」ってそういうものですよね。「実験物理学」による実証との両輪で成り立つわけです。
私も結構、「理論アート・マネジメント学」や「理論文化政策学」をやっているほうだと思います。