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曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

解は2つ(以上)ある

2009-05-21 23:18:50 | 大学
世間には、「学校というところは、何かの問いに対して、ただひとつの正解を教えてくれるところだ」、と思っている方がいるのだろうか。ひょっとして、いないわけではないかも知れない。

ところが、特に社会科学の領域では、正解はひとつではないどころか、ほとんどの場合、正解は2つ以上ある。

ある目標とする状態(単に目的と言ってもよい)に至るまでには、複数の経路が存在していることが多い。例えば、ある山の頂上に到達するために、通常複数の登山経路が存在していることを思い浮かべればよい。

このとき、正しい経路がひとつしかない、という考えを持ち、強硬に主張する人がいるとすれば、その人は、無意識のうちに、何か自分だけの特別な基準をそこに適用させようとしていることになる。例えば、他の人間に先駆けて一番早く着けるルートとか、夕日が一番きれいに見えるルートなど、何であれ、ある特定の条件づけをするのなら、もっとも望ましいルートはひとつに決まることになる。

だが、中途で多少の差異はあったとしても最終的に頂上に無事にたどり着ければよいということなら、複数の経路について、無理に優劣をつける意味はなくなる。
(念のために言うが、仮に他のルートに比して危険度がひときわ高いルートがあって、そのルートを進むと頂上にたどり着ける可能性が低くなるようなことがあるのであれば、目標のあり方から考えてそのルートは除外すべきである。)

このように、ゴールに至る道が複数あることと示す概念が、「等至性(エクイファイナリティ)」と呼ばれるもので、そのような特徴を備えたシステムのことをオープンシステムという。(この「等至性」という用語は、システム論者ベルタランフィによるものだという。)

代替選択肢を考慮に入れて判断を下すことは、当事者にとっての多様な選択の幅を保証することであり、そのままリスクマネジメントにも通じる。
ということは、現にオープンシステムで機能しているものを、敢えてクローズドシステムに変更しなければいけない理由はない。

実は、以上の考察は、以前、朝日新聞の「心体観測」というコラムに、立命館大学教授のサトウタツヤ氏が、「複線経路等至性モデル」というものをもちいてこの考え方を説明していた記事(2008年9月28日)を参考にして書いたものである。

同記事において、氏が説明に用いていたのは、学生(大学院生)の将来設計の事例である。
例えば、法科大学院生にとってのリスクとなる負の出来事とは、「法曹職につけないこと」であるが、現状ではその生起確率を考えれば、当事者にとってリスクは決して小さくない。そういうときに、教育機関であれば、他の選択肢を示すことこそがリスクマネジメントであり社会的責務である、と述べている。
氏いわく、「選択肢を示すことは、落伍者の烙印を押すことではなく、応援だ。」

私は、氏の意見に全面的に同意する。氏は、以下のようにも言う。

個人はカプセルのような単体ではなく、周りの人たちとのかかわりあいや、過去や未来の自己像によって成り立つオープンシステムである。
人生は決して一本道ではない。人生にはさまざまな関係性に支えられた複数の経路があり、複数の選択肢があることで、一度あきらめたことでも再挑戦できる。

大学(大学院)というところは、学生に複数の選択肢を示して、彼(女)らの人生を応援してあげるところである、と私は思う。

ところで、このことは、本来、社会科学におけるオープンシステムに限定していうべき事柄でもない。
「大学とは、ただひとつしかない正解を教えるところではない」というのは、多くの大学の入学式で学長が行う講話の定番の内容のはずである。これは、学問あるいは研究というものの基本的な心構えを示すものでもあるわけだ。


(補足)そう言えば、以前のブログに似たような(?)、あるいは、少なくとも関連のある話題を書いたことがあったのを思い出した。

→ 部分最適と全体最適 (2007/03/19)

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