興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

置き換え (Displacement)

2014-06-04 | プチ精神分析学/精神力動学

 私たちは普段から、こころの平安を保つために、無意識に、いろいろな防衛機制を用いているというについてはここで何度か触れていますが、今回はまた、その防衛機制のひとつ、置き換え(Displacement)について考えてみたいと思います。

 置き換えとは、もともとフロイトによって提唱された基本的な自我の防衛機制のひとつです(ここでいう自我とは、一般に使われている意味とは異なる、精神力動学、精神分析学の専門用語で、認知、思考、感情、行動などの私たちのこころのいろいろな機能を統制したり、統合したりする部分のことです。自我についてはまた別の機会に詳しく説明します)。

 さて、置き換えとは、もともとある対象に向けられていた精神的エネルギー、興味などが、何らかの理由で、直接その対象に精神的エネルギーを向け続けることがそのこころにとって脅威だったり不都合であったりするため、自我にとってそれよりも受け入れやすい他の対象に向けられる、つまり、「置き換えられる」現象です。

 この一番わかりやすい例が、八つ当たりの心理です。

 ある男性が、会社で上司に酷く責められたとします。そのとき彼は上司に対して怒りを経験していたのですが、その怒りを直接上司に表現することができずに、悶々としていました。怒りは収まらないけれど、その怒りの対象の上司に直接怒りを向けることができません。そこで、彼はイライラしながら一日を過ごすのですが、帰宅すると、たまたま急用で夕飯の支度ができていなかった妻に怒りをぶつけてしまった、というようなものです。

 この人は、上司という対象に向けられなかった負の精神的エネルギーのはけ口を、怒っても安全である妻に向けてしまったわけです。もしこの男性に洞察力があれば、彼の怒りがその状況から度を越えていたとすぐに気づくのですが、洞察力のない人は、会社であった不快なことはすっかり忘れていて、自分はただ単に目の前の妻に怒りを感じているのだ、と思っています。

 ところで、この負の置き換えによる行動化は、連鎖することがあります。上のように、夫に当たられた妻が、今度は宿題をやらない子供に怒りをぶつけるかもしれませんし、そのようにして不条理な怒りを受けた子供は、翌日学校にいって、自分よりもおとなしいクラスメイトをいじめるかもしれません。

 このようにして、負のエネルギーは連鎖していく可能性があります。これはとても悲しい話だと思います。犠牲者が加害者となり、さらなる犠牲者を生み出していきます。これは実際、世の中にはびこる暴力の理由にもなっているものです。

 こうした負の連鎖を減らすには、どうしたらいいのでしょうか。

 まずは、あなたから始められます。もしあなたが誰かに八つ当たりしたことに気づいたら、良く反省して、その人に謝りましょう。そして、当たってしまった理由である、直接の対象との間に起きたことについて、よく内省しましょう。

 もしあなたが誰かに八つ当たりされて嫌な気持ちになったら、その嫌な気持ちをきちんと認識しましょう。それは怒りかもしれませんし、悲しみかもしれません。いずれにしても、それはあなたが感じて当然の、とても自然な感情です。その感情を抑制したり、そこから目を背けるところから、問題がはじまります。

 ですから、まず、自分の感情を、それが何であれ、きちんと認識する習慣をつけていきます。そのようにしてあなたの気持ちがきちんと認識できたら、今度は、その気持ちを上手にもともとの対象に表現する工夫をします。もし話せばわかる人でしたら、以前紹介した、I-statement(「あなた」ではなく、「私」を主語にした発言です。たとえば、「あなたに八つ当たりされたからすごく気分悪い」ではなくて、「わたしはすごく悲しいの、あなたが私にそのように当たることが」、という感じです)を使って表現します。

 もしそれがどうしてもできないような相手でしたら、そのあなたに八つ当たりしたひとは、とても哀れなひとです。自分の気持ちと向き合うこともできなければ、相手と向き合うこともできない、弱い者いじめしかできない、臆病でかわいそうな人です。あなたは天災にあったようなものなので、その人の言動を、個人的に取らないように心掛けましょう。また、親しい人にあなたの本当の気持ちを話して聞いてもらいましょう。このようにして、あなたは誰かに当たることなく、他者からの置き換えの行動化を処理できます。あなたの賢明な選択により、あるいは連鎖していたかもしれない負のエネルギーは、あなたによって処理されました。

 ただ、もしその相手が置き換えを常套的な防衛機制として使っているようなひとであれば、その人との関係について考え始めるのも必要かもしれません。誰も他人に当たってはいけないし、誰も他人にそのような扱いを受けてはならないからです。それは人間の尊厳の問題でもあると思います。