興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

利他的行動(Altruistic Behavior)についての考察

2006-09-06 | プチ社会心理学

「良い牧者は羊のために命を捨てます」
          ~ヨハネの福音書10:11



先日「愛」について書いたけれど、そこで問題に
なってきたのは「自己犠牲の愛」についてでしたね。
これは、「利他主義」「他愛主義」といった、
一般的に、「利己主義」とは対極に位置するものと
考えられる概念であり、古くから利他的行動については
いろいろな議論が展開されてきました。

自己愛を超えて、無条件の愛によって
他者のために行動することは、人の人たる所以であるように
思います。実際、自己犠牲の愛は、映画や文学など、
様々な形で、人間の最も美しい姿として描かれています。

キリスト教徒が生涯を通して追求する、キリスト教的愛は、
先にも述べましたように、人間である限り到底不可能な、
真の自己犠牲の愛です。

自己犠牲の愛の源でもある、「利他的行動(Altuistic
Behavior)」は、実際、「他者の利益のために、外部から
の報酬などを期待しないで、自発的に取られる行為」と
定義されます。

利他的行動は、つまり、自分の都合よりも、他者の
幸福や状況を大切にするという価値観が、こころの
なかに内在化(internalized)されたことによって
起こる、一種の「向社会的行動」といえます。

さて、ここで問題になってくるのは、
「果たして全く自己愛の入っていない、100%
 無条件な、愛他性(利他性)は存在し得るのか」と
いうことになってきます。

個人的に、僕は、そうであって欲しいと思っています。
その可能性があることを信じたい人間の一人です。

ただ、残念ながら、現代の心理学においては、
そのような、完全な愛他性は、存在し得ないという
見解が主流です。あくまで一つの見解ですけど。

第一に、たとえ誰か「他者を助ける」という
行動をとったとしても、その行動をとった人間の動機が
利己的だったら、それは、「向社会的行為」では
あっても、「利他的行動」ではないわけです。

たとえば、そうですね、ある女性が歌舞伎町で
暴力団数名に絡まれているところを、ある男性が、
自らの危険を犯して救出するとします。でも、
もしこの男性に、実は「この女性と関係を持ちたい」という
動機が背景にあったら、これは、「向社会的行動」
ではあったとしても、「愛他的行動」ではないですね。

これは、ちょっと極端な例ですね、問題は、
もっと微妙なケースです。世の中には、実際多くのひとが、
赤の他人の命を救うために、自らの命を失っています。

線路に転落した酔っ払いを助けるために、自らも
線路に降り、その酔っ払いの身代わりになって、
ホームに入ってきた電車にはねられて亡くなった方もいます。

僕は、個人的に、この領域の自己犠牲の愛は、
本物だと思っています。こういう領域を分析する
必要もないんじゃないかと思います。

でも、心理学とはみもふたもない学問で、分析は
続きます。このように、自らの命を捨てて、誰かを
助ける人間も、その人は、自尊心や、誇りや、
自己満足といった報酬をこころのうちに受けるわけで、
そういう意味で、つまるところで「利他主義は利己主義に
起因する」ということになります。

さらに、「他愛性」という心の中に内在化された
価値観と一致した行動を取らないと、僕たちは、
罪の意識や、無能感などで、とても嫌な気分に
なったりします。これは一種の罰(Punishment)で
あり、結局のところ、「利他的行為」にしても、こうした
心の中に起こる罰を避けて、こころの報酬を受けるわけで、
そういう意味で、「利己的な行動」ともされます。

それとか、困っている人を見ると、自分もその人の痛みを
自分のことのように感じ、そんな自分の中に起こる
嫌な気分をなくしたいから、困っている人を助ける
ということもありますね。

以前、クラスでこの「他愛主義」についてディスカッション
があったとき、最近出産したあるクラスメイトが言いました。

「子供を生んで気付いたのは、子供を持つということ自体、
親の利己的なことなのよね」

これも、本当にみもふたもない話だけれど、子供を
生むという行為は、自分の遺伝子を次世代に残すという
本能が関係しているし、愛する人との子供が欲しいという
のは、確かに大人の都合ではあります。

そんなディスカッションが続く中で、ある生徒は
「真の利他主義」を主張していましたが、そのクラスの
教授がいいました。

「真の利他主義が有り得ないということの、何が問題なの?」

僕はこのとき、とても両義的な気持ちだったけれど、
その教授の発言に、あるところで救われた気がしました。

結局のところ、人間は、遺伝子や進化論の呪縛から
逃れることはできず、これは、キリスト教では、
「原罪」と呼ばれるものだけれども、それならば、
「人間は本質的に利己主義な存在」でいいじゃないか、
と思うようになりました。

利己主義な要素が、生まれたときから脳みそに
プログラムされて、その後の人生で、それは
強化されていくわけだけれど、だからこそ、そんな、
ある意味「自然の力に逆らった」他愛主義を追求していく
ところに、人間の素晴らしさがあるんじゃないかと
思うのです。それこそが人間性だと、最近よく思うんです。

昨日の夜、妻から電話があり、彼女は久しぶりに
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだのだと教えて
くれました。読んだことある?と聞くので、
小学5年のときにその読書感想文書いて選ばれたと
答えると、「ね~なんて書いたの?」と聞いてきました。

少し考えて、思い出しました。カンパネルラはその夜、
友達の命を救うことと引き換えに、天に召されたけれど、
彼は幸せだったのか、小5の自分には答えが出なかった
のです。

「だけど、死んでも人は幸せなのでしょうか」

と、疑問を残して作文を締めくくったことだけ覚えています。

妻とそんな話をしていて、なんとなくだけど、
はっきりと解りました。カンパネルラは幸せだったんですね。

自分は妻のために命を捨てられたら、本当に幸せだと
思います。それができるかどうかは、そんな極限の状況に
なってみないとわからないけれど、自分のような偽善の
塊のような者に、そんなふうに思わせてくれる妻という人間が
いてくれることに、自分は本当に嬉しくなりました。



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2 コメント

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Unknown (Yodaka)
2011-03-31 16:00:27
コメントありがとうございます。5年近く前に書いたこの文章は、この存在すら忘れていました。そして今の自分が5年前の自分とはまったく異なったところにいて、おおよそかけ離れた視点や考え方をしていることに、読み返してみて驚きました。Jimmyさんからのコメントがなかったら思い出すこともなかったと思います。感謝なことです。それで、自分で書いた文章でありながら今の自分はあまり賛同できないという不思議なことが起こっているわけですが、この文章を読んでコメントをくださったJimmyさんには、やはりこの文章を踏まえて今の自分の考えを書こうと思います。

福島50と呼ばれる人たちについて、海外でもいろいろなことが言われていますね。よく聞くものに、「Kamikaze」というものがあります。「祖国のために、祖国の他者のために、自らの命を犠牲にする、その命を顧みずに自分以外のものを守ろうとする」、という立場を彼らはKamikazeと呼んでいるように思います。

人間が50人いれば、そこには50人のそれぞれまったく異なった人生と、これまでの、また、これからの道のりがあり、生き方、価値観、考え方、性格も50人それぞれだから、それを一括りにして何かを言うことはできないけれど、それにしても彼らの行動は、究極に崇高な人間性だと感じています。彼らを通して、祖国日本を誇りに思う日本人は、海外にも日本にも本当にたくさんいるように思います。彼らに強く心を打たれた外国人も無数にいることでしょう。その影響力というのは計り知れず、本当に素晴らしい人たちだと思います。
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他愛行動の確信 (Jimmy)
2011-03-30 09:45:04
福島原発の事故処理対応に志願した福島50と言われる人たち、もうすぐ定年を迎える人たちが多く黙って見過ごせば自分に危険は及ばなく無事に人生を終える可能性が高い人たちが何故、危険を承知で志願したのかそれは究極の他愛行動の証ではないでしょうか。
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