興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

『セッション』 (”Whiplash,” 2014)

2016-05-09 | プチ・映画レビュー

これはやばいです。稀に見る名作です。マイルズ・テラー、そして何より、J.K.シモンズ の鬼気迫る演技は目が覚めるようですし、音楽的にも、ジャズ好きには堪りません。これだけでもう言うことないのですが、それでもやはり心理学者として僕が一番面白く思うのは、この完璧な音楽と演技で展開されていくストーリーと2人の男の精神力動でした。

直接のネタバレは最小限にしますが、僕なりに解釈するその骨格というか根本のところのお話をするので、これを読まれる方で、まだこの作品を見ていない方は、読む前にまずはこの作品を見ることをお勧めします。ただこの作品は、これからお話するように、ある意味非常に病的であり、シモンズ扮する天才指揮者の主人公たちに対する凄まじいモラハラ・パワハラ・暴力を含むものであり、たとえば『海街Diary』や『インサイド・ヘッド』のように、すべての方にお勧めできる映画ではありません。こうしたテーマに敏感な方は、鑑賞は控えた方が良いかもしれません。

さて、本題に入りますが、この作品を面白くしているのは、やはりシモンズの鬼気迫る名演によって表現されている天才指揮者の著しく病的な人格であり、この病的教師のターゲットとなり、狂気じみてくる主人公とその名演です。名演についてはもう良いですね。

とにかく演技がすごいのですが、この2人の何が起きているのかといえば、S&Mです。エスエムです。この病的教師の音楽的才能や、指導に対する熱意も凄まじいのですが、彼は熱心なだけではありません。熱心すぎて生徒を駄目にしてしまう、という種類のものでもありません。彼の問題は、極めて病的なサディズムと自己愛であり、破壊性です。極限状態に生徒を追い込んで、その生徒の潜在能力を最大限に引き出す、という彼のロジックは合理化であり、結局のところ、彼の指導の下で本当に大成した生徒はほとんどいません。なぜなら、「熱心すぎて生徒が駄目になってしまう」のではなく、「生徒が駄目になるような指導をしている」からです。具体的には、彼は重度の自己愛性人格障害をもっていて、そこに反社会性が加わっている感じです。

さて、サディスティックな自己愛性パーソナリティ障害者は、その病的な心的ニーズを満たしてくれる相手を見つけるのが非常に上手です。被害者と加害者は、まるでカギと鍵穴、磁石のS極とN極(M極ではありません)のように引き合います。これは以前お話した、「投影」と「取り込み」のお話にも通じるものですが、サディスティックな人は、自分のサディズムにうまく反応してくれるマゾキズムを持った人をほとんど直感的、無意識的に探しています。投影する者は、その投影を取り組んでくれる、受け入れてくれる相手が必要です。「お前本当に能無しだよなあ」と言った時に、相手が「は、馬鹿じゃね。能無しなのはお前だろ」とか、「そんな発言できちゃうあんたの頭がおかしいでしょ」という反応では、投影する方は、自分のパワーを感じることもできず、面白くありません。相手が投影を取り込まないからです。逆に、相手が落ち込んだり縮こまったりして、「能無しでなくなるように頑張ります」、「もっと仕事できるように努力します」「ご指導よろしくお願いします」という風に反応すると、投影者はパワーを感じます。自分の投影が相手に影響を与えているのを感じますから。

このようにして、主人公は教師にどんどん追い込まれていくのですが、その彼にも激しい攻撃性があり、教師に対して激しい憎悪と尊敬を抱きながら才能を開花させていきます。このように、生徒のほうにも、傷め付けられること、追い込まれることに対する心的ニーズがあります。互いの心的ニーズがかっつりマッチして、主人公はどんどん自虐的、自己破壊的になり、教師は万能感を感じ続けるのですが、やがてその関係も主人公の大怪我で破たんします。

SMの心理で非常に重要なのは、サディストが、マゾキストを生かし続けることです。マゾキストに致命的な怪我をさせたり、本当にほとほとその関係性にうんざりさせてしまわぬような、絶妙なさじ加減が必要です。激しいむち打ち(この映画の原題whiplash。彼らが演奏しているジャズの曲名もwhiplashです)には、程よいアメも必要です。教師はこのアメとムチを絶妙にこなしていたのですが、加減を間違えて、破局が訪れました。マゾキストも、本当に無力なわけではありません。無力で従順な「役割」のなかにいます。そしてその役割を演じる中で、相手の心的ニーズを満たすことで、実際のところ、相手をコントロールし、相手から何らかの心的ニーズを受け続けます。しかし教師が「一線」を超えたことにより、本来の破壊性が自虐性に勝ってしまいました。

しかしこの二人の結びつきはそう簡単に切れるものではありません。切っても切れないものです。二人はしばらくして再会しますが、このときにふたりは再びS&Mの関係で結びついてしまいます。この時の教師は毎度のことですが、いつになく非常に巧みに操作的(manipulative。人間関係で自分のニーズを満たすために相手の心や行動を巧みに操作するのも自己愛性や反社会性パーソナリティの特徴です)で、主人公の折れてしまっていたドラムへの情熱を再燃焼されます。

ここからがクライマックスで、教師に陥れられ、ドラマー生命を破壊される間際まで追い込まれた主人公の非常にパワフルな生命力がでてきて、その圧倒的なドラム演奏で、今度はなんとそのサディスティックな教師を支配し始めます。セッションを完全に乗っ取ります。このラストセッションはまさに息をのむような白熱の演技で圧巻なのですが、その有無を言わせない完璧でパワフルなドラムに、教師はその憎悪を超えて、歓喜を経験し始めます。ふたりの既存のS&Mの関係が打破されます。加虐性と自虐性の病理の彼岸の、ジャズを愛し、その演奏の卓越を至上とする二人が共演を通して真に結びつくその瞬間は、本当に爽快で、すがすがしい気分になりました。


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