興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

怒りへの上手な対処法について

2017-08-21 | プチ臨床心理学

 今回は、999さんからのリクエストにより、怒りのコントロールについて書いてみたいと思います。999さん、お待たせ致しました。以下が999さんからの質問になります。

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怒りのコントロールの事について聞きたいです。
昔の記憶からの怒り、あるいは精神的な未熟さ(我慢弱さなど)で、怒りのコントロールに最も根本的に有効的な方法、あるいは、対処的にでも有効的な方法を教えてください。


すいませんが、個人的な事はこちらは書かず黒川先生の意見が聞きたいです。
明確なアドバイスでなくても、黒川先生から広範囲な見方での考えを聞きたいです。
ブログの更新を楽しみにしてます。

 

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一口に怒りといっても、それには実に様々な種類の怒りがあり、その怒りには、様々な理由があります。

たとえば、とにかく短気で怒りっぽいことに困っているけれど、怒りをあまり引きずらないという方もいれば、とくに短気でも怒りっぽくもないけれど、ある特定の状況や人物に対して、怒りがどうしても収まらなくて苦しい、という方もいます。また怒りには、適切で、正当性のある怒りもあれば、経済的に不利な立場にいる配偶者や子供、部下や後輩など、自分よりも弱い立場にいる人を支配したり、八つ当たりしたりと、非常に不適切で間違った種類の怒りもあります。いずれにしても、怒りという我々人間の基本感情は、喜び、悲しみ、恐怖、嫌悪などと同様に重要なもので、適切な怒りというものは、人間という社会的な存在が、その社会のなかでうまくサバイブするために、なくてはならない感情でもあります。怒りには怒り特有の重要な役割と機能があるのです。

しかし我が国日本では、社会的、文化的に、怒りという感情に対してマイナスのイメージがあります。親や教師から、とにかく怒るな、怒ってはいけないと、怒ることがとてもいけないことのように言われて育った方も多いと思います。2017年現在でも、本屋に行けば、いかに怒らないでいられるか、どのように怒りを抑制するかについて書かれている自己啓発本がたくさんあります。私はこの傾向を悩ましく思います。なぜなら、適切で正当性のある怒りをあまりに多くの人がうまく表現できずに、鬱や不安、摂食障害、アルコール使用障害、ギャンブル、薬物、買い物、セックスなどのあらゆる依存症、身体表現性障害などに陥って苦しんでいることが本当に多いからです。怒りを表現できないことが常に直接的にこうした精神疾患と結びついている、とまでは言いませんが、怒りの問題は、こうしたメンタルヘルス不全に大いに関係しています。ここで大切なのは、怒りという自然な感情を押し殺すのではなくて、きちんと経験して、適切な形で言語化して自分の思いを相手に伝えることです。怒りを爆発させずに経験して相手に伝えるためには、怒りという感情を上手く扱う必要があります。今回の記事が999さんと読者の皆さんにとってその一助となれば幸いです。

怒りというテーマは、日々の臨床の中で、非常に普遍的なテーマであり、不適切で破壊的な怒りの表出で人間関係を壊してしまうことが多くて苦しんでいる方から、怒りを感じることが全くできずに鬱や体調不良、慢性的な空虚感などに苦しんでいる方まで、日々多くのクライアントさんにお会いしているので、怒りについて感じること、考えることは多く、このポストも例によって内容が拡散して収集つかなくなりそうなので、なんとかまとまりのある記事にしたいと思います。

怒りについてまず考えるべきことは、先述した怒りの機能と役割です。なぜ、怒りという、多くの文化圏でネガティブなものであるとされている感情が、人類誕生から今に至るまで我々の基本感情として残っているのか。それは人間が社会的存在としてのサバイバルに必要だから、と言いました。それはつまりどういうことかといえば、たとえば、以下は例によってでっち上げのフィクションですが、悟さんの悪徳上司和也さんが、悟さんが営業で取ってきた契約を自分の手柄にしようとしているのを発見した時。ここで悟さんの精神が健全であれば、怒りを感じるはずです。正当な怒りです。怒りを感じて、自分の感情や考えを言語化して、和也さんの不正を阻止することでしょう。それで和也さんも、悟さんはそういうことができない相手だと学びます。一方、悟さんに過去の様々な理由で怒りを表現することができずに、この瞬間に怒りを無意識的に抑圧したり、否認したりして、自分の怒りの感情を認識できないとどうなるでしょう。和也さんは、悟さんは搾取できる相手だと認識して、以後も同じようなことをして悟さんを利用することになるかもしれません。結果として、悟さんはすごいストレスに苦しむことになりますし、それで鬱に陥るかもしれません。

さて、ここで悟さんが経験した怒りは、悟さんをどのように助けてくれたでしょうか。

和也さんという他者が、自分の手柄を横取りしようとしている、つまり、自分の所有物が、他者によって略奪されそうになっている危機に瀕していることを、気づかせてくれていますね。他にも例はいくらでもあります。悟さんの妻の恵梨香さんに、独身でイケメンで経済力もある和也さんがちょっかいを出し始めたとき、悟さんは健全な精神状態であれば、怒りを経験するはずです。怒りは悟さんに適切なアクションを促し、和也さんを恵梨香さんから遠ざけます。それで悟さんは無事に恵梨香さんと子供を作り、子孫を残すことができました。しかしもし悟さんがこの瞬間に怒りを経験できないと、恵梨香さんはことによると和也さんとできてしまうかもしれないし、恵梨香さんを奪されて子孫を残す機会を喪失してしまうかもしれません。進化心理学的に書いてみました。手に汗握る恐ろしい話ですね。でもこういう悲劇は実際にいろいろなところで起きています。ところで、この時の悟さんの怒りを見た恵梨香さんは、悟さんが自分のことを大切に思っているのだと感じるでしょうし、もし怒りが観察されなかったら、自分のことなんてどうでもいいと思われていると誤解するかもしれません。怒りにはこうした二次的なコミュニケーション機能もあります。子供が危ないことをしているときに、親がある程度強く叱ることで、子供にはそれがどれだけ危険だかわかるものです。

やはり話がまとまらなくなってきたので、この辺で仕切り直しをします。ここまでをまとめますと、怒りには、1)自分の大切な人、ものが、何者かによって奪われそうになっていることをその個人に教えてくれて、適切なアクションを促す、という機能があります。他にも、2)自分の大切な人、ものが、何者かによって危害を受けそうになっているのを認識したとき、適切なアクションを促して、大切な人、ものを守ることを可能にしてくれます。また、3)自分自身が身の危険に立たされた時、その状況を克服するための適切なアクションを促してくれます。他にもいろいろありますが、こうしたことが、怒りの進化心理学的な機能です。

問題は、その個人の成育歴や性格、過去の非常にネガティブな経験やトラウマなどにとって、この怒りという感情を感じすぎる場合や、逆に、感じることができない、という場合です。たとえば、幼少期の家庭環境の問題で、非常に嫉妬深い人がいたとします。嫉妬とは、自分の大切な人の愛情や注意、関心が、自分ではない他の誰かに注がれてしまっているのを察した時にでてくる感情ですが、この嫉妬心の強さは、その人の不安感や世界に対する基本的信頼の問題などとも関係しています。強い嫉妬心は、誤反応を及ぼします。たとえば、先ほど登場した悟さんですが、もし悟さんが極端に強い嫉妬心に苛まれていたら、全く潔白の恵梨香さんのあらゆる社会的行動や付き合いが気になるでしょうし、人間関係に潔癖で既婚で子持ちの和也さんと街でたまたま会ったときの他愛のない小話に怒りを感じるかもしれません。お分かりのように、この時の悟さんの怒りは不適切で場にそぐわない怒りであり、この怒りは悟さんの人間関係や人生において、不利に働きます。このような不適切な怒りと不安感に苛まれている方は、ご自身で問題意識がある場合が多く、セラピーにもお越しになるので、その怒りについて取り組むことになります。

ここで何について取り組むかと言えば、それは本当に多岐に渡るのですが、しごく大雑把にいうと、まずはその人の半生についてじっくりとお話を聞かせていただきます。その人の幼少期の親子関係、ご両親や近かった祖父母、叔父叔母の性格、家庭環境、特筆すべき出来事、小中高校時代、大学時代、職歴、トラウマなどについて、聞かせていただきます。多くの場合、こうした方は、過去の未解決な問題やトラウマがあるので、その解消、克服をします。冒頭で、特に短気でもないのに何か特定の人、もの、状況に対して怒ることが多かったり、怒りが収まらなくて困っている、という方は、たいていその怒りは過去のトラウマと繋がっています。いわば、トラウマ反応としての怒りなので、トラウマを克服することで、それに関連する現在の人、もの、状況に対して強い感情を抱くことがなくなっていきます。

トラウマというと、何か大掛かりなことを想像する方もいらっしゃるかと思います。もちろん、何か大きなトラウマである場合もありますが、自分ではそれほど意識していなかったけれど、実はトラウマになっていた、という種類のものもあります。いずれにしても、人間生きていれば何かしらのトラウマを経験するものです。それが現在の生活を常に脅かす深刻なものもあれば、普段はほとんど問題になっていないけれど、何かしらの引き金(Trigger)で、活性化する種類のトラウマもあります。まったくトラウマのない心が無傷の人間などいなく、人は何かしらのソフトスポット、弱点を持っています。

そこで、今回紹介したいのは、多くの人にとって多かれ少なかれ役立つであろう、認知行動療法のテクニックを紹介します。

認知行動療法についてはここでも過去に何度か紹介していますが、今回は少し具体的なテクニックについてお話します。

まず、我々のあらゆる基本感情(喜び、悲しみ、怒り、恐怖、嫌悪)は、誰かの言動や出来事そのものによって起こるわけではありません。たとえば、上司から叱責を受けたときに、ひどく落ち込む人もいれば、それほど落ち込まない人もいます。たとえば、上司の美咲さんに怒られた部下の健司さんと崇さんですが、健司さんはすごく落ち込んだのに対して、崇さんはあまり落ち込みませんでした。ふたり同じことで、ほとんど同じように叱責を受けたのに、どうしてでしょう?健司さんの落ち込み、悲しみ(感情)は、美咲さんからの叱責(出来事、他者の言動)そのものによって起きたわけでないのがここからわかります。

では何が健司さんの悲しみを引き起こしたのかといえば、健司さんが、美咲さんからの叱責を、「どのように解釈したか」です。

この「解釈」つまり、認知の仕方に着目したのが認知(行動)療法です。しかしこの解釈は通常ほとんど無意識的に行われていて、瞬時に起こるものなので、本人もなかなか自覚できません。実際、この解釈的思考は、自動思考(Automatic thoughts)と呼ばれるぐらい、自動的、無意識的です。

しかし、注意を向けることで、この自動思考の特定や抽出は可能です。

やり方としては、あなたが何か強い感情を感じたときに、「今頭の中を何が過った?」("What's going through your mind?")です。

例えばこういうことです。

健司さんは美咲さんに、「大した仕事量でもないのに何でそんなに仕事遅いの?やる気あるの?もっとしっかりしてよ!」と言われて、とても悲しい気持ちになり、落ち込みました。例えば私がカウンセリングのセッションでこの話を健司さんから聞いて、「その時の状況をよく思い浮かべてください。何が頭の中を過りました?何か考えとか?」と聞いてみると、「ああ、なんか、『やっぱり俺は無能なんだ。この会社にいちゃいけないんだ』って思いました」と答えます。なるほど、自分は無能だ、この会社にいちゃいけないんだ、って思ったら、すごく悲しくなりますね。はい。すごく悲しかったです。今思い出しても悲しいなります。ですよね。悲しいですよね。それにしても、健司さんは本当に無能なのですか? え? ああ、そんなことを言われるのはやっぱり私が無能だからだと。そうですか。健司さんには確か三人の上司がおられましたよね。他の二名の方もそのように言うんですか? いや、他の二人の方はそんなことは言いません。頭の中では思ってるかもしれませんけど。褒められることはないんですか? あ、いや、お二人ともよく褒めてくれます。先日もプレゼンがあったのですが、とても分かりやすかったと言ってくださいました。良いですね。それで、仕事は遅いって言われますか? いや、そういうことを言うのは彼女だけです。自分でも、仕事が人より遅いとは思っていなかったので、ショックだったんです。今までのお話を聞いていると、相当な仕事量ですよね。確か、3人の方から引き継ぎを受けたって言ってましたよね。そうなんです。すごく忙しくて。なるほど。そういえば、同期の崇さんも遅いって怒られていましたね。あは、そういえばみんな彼女から怒られてますね。そうなのですね。それはもしかしたら、そういうことを言う美咲さんの方にも問題があるかもしれませんね。ええ、実は、彼女の下で過去に5人鬱で休職している人がいます。5人!それはすごいですね。美咲さんにきつく怒られるのは、明らかに健司さんだけではないですね。そういえば、崇さんはどうして落ち込まなかったんでしょう。ああ、不思議に思って聞いたんですよ。そうしたら、「パワハラ上司がまた始まった」って思ったって。なるほど、全然個人的に受け止めていませんね。一方で健司さんはとても個人的に受け止めていますね。仕事の絶対量は間違えなく多そうですし、美咲さんの方にも問題がありそうですが。そうですね。自分なりにやってるつもりですし、他の人からはそういう指摘は受けませんし、彼女は最近なんだかイライラしているから。いいですね。「自分なりにうまくやっているし、他の人からは遅いといわれないし、彼女は最近イライラしている」。彼女から怒られたことを思い出してみて、さっきの「俺は無能だ、この会社にいちゃいけないんだ」と置き換えてみてください。「自分なりに~」と。はい。今どんな気持ちですか? あ、ずっと気が楽ですね。

例がだいぶ長くなってしまいました(繰り返しますが、これはフィクションです)が、ここで私が健司さんとしていたのは、問題となっている自動思考を抽出して、その自動思考がどれだけ正確であり、妥当性を持っているのか、多角的に検討して、それに相反する、より現実的で建設的な、代わりになる思考を作る、という作業です。自動思考である解釈そのものが変わることにより、感情にも変化が及ぼされるわけです。

これを、あなたが何かで怒りを感じたときに、ひとり認知行動療法をやってみるわけです。

たとえば、あなたがピザのデリバリーを頼んだら、どういうわけかいつまで経っても配達されず、問い合わせたら、どういうわけかオーダーがきちんと入っていなくて、再度注文したら、1時間待たされたあげくに違うものが届いたとき、あなたは怒りを感じるかもしれません。というか、これは誰でもイライラする状況でしょう。多少のイライラでしたら、それは正当な怒りですし、怒るのも当然です。イライラしながらも、オペレーターや配達員に対して切れずに対応できたのならば、あなたは特に怒りにおいて問題のない方かもしれません。問題は、こういうときに腹が立って仕方がなく、オペレーターに怒鳴り散らし、配達員に暴言を吐き、コールセンターに電話し、さらにそこでオペレーターに暴言を吐くような場合です(コールセンターに電話して落ち着いて苦情を入れるのは問題ないでしょう)。オペレーターに切れそうになった時に、自問します。「今頭のなかで何が流れている?」と。「客を何だと思ってるんだ」、「自分は軽視されている」、「せっかくピザを頼んだの台無しだ」、「無能なバイトのせいで」、など、いろいろ出てくるでしょう。こうした時に、「落ち着こう。オーダー入れなかったのはこのオペレーターじゃないかもしれない」、「きっとオーダーが多すぎてキャパオーバーだったんだ」、「人間誰でも間違えはある」、「運が悪かった」、「クレーム入ってテンパってオーダーミスしたんだ。仕方ないなあ」、「割引してもらおう」、などと考えると、だいぶ怒りは落ち着いてくるはずです。お分かりのように、この時の凄まじい怒りは、このネガティブな状況に対して特定の解釈をした時に起こります。その特定の解釈を意識化して、より多角的、現実的な思考を考えてみることで、怒りという感情そのものに変化が生じるわけです。これは他にも、誰かが待ち合わせ時間に遅れてきたときにすごく腹が立つ人が、「自分は軽視されている」、「人の時間を大切にしてくれていない」、などという自動思考に気づいたとき、「きっと何か事情があったんだろう。とりあえずわけを聞いてみよう」、「この人はなんだか毎回遅れてくるけど、遅れてくるのは自分に対してだけじゃないみたいだし、何か個人的な問題があるのだろう」などと考える、つまり、相手の言動を個人的に受け止めることをやめると、怒りの感情も軽減するものです。

もうひとつ、怒りという感情は、第二感情と呼ばれるもので、第一感情(悲しみ、傷つき、羞恥心、罪悪感、恐怖など)を覆い隠す機能があります。悲しみや、恐怖、傷つきた気持ちは、個人にとって、感じることがあまりにも精神的に苦痛である場合があります。この場合、そうした第一感情を感じ続けるよりも、第二感情である怒りを経験する方が、まだましであるので、怒りのほうを感じる、ということもしばしばあります。たとえば、悲しみを感じたら鬱になってしまいそうで、その悲しみから自分を守るために怒りを感じる人がいます。罪悪感を感じるのがしんどいので逆ギレする人もいます。これは明らかに不適応としての怒りで人間関係にも問題が生じます。話がさらに長くなってしまうので、今回は簡潔に述べますが、こういうとき、大事なのは、怒りに覆い隠された本当の感情のほうをきちんと認識して、経験することです。その第一感情をきちんと経験できると、怒りは収まります。なぜならこの時、防御としての怒りは必要なくなるからです。

やたらと長いエントリーになってしまったので、最後に少しまとめます。

怒りは人間にとって不快な感情であるため(脚注1)経験し続けるのは精神的に苦痛ですし、さらに社会的、文化的にも怒りを感じることがいけないことであれば、怒りを感じることに対する罪悪感も生じ、その相乗効果でさらに耐え難い感情となり、その圧力が強ければ、人はその感情を無意識的に抑制したり抑圧したり、否認することを学ぶようになります。怒りという感情が存在しなかったことにしてしまうのです。このように、自分が本来抱いている自然な感情を経験できないことが、その人の心身に悪影響を及ぼします。

ですので、むしろ私は、皆さんが怒りを経験したときに、その自然な感情をむしろ擁護するように勧めます。自分の感情は、まずは自分で受け入れて、大切にしてあげます。受け入れることができ、きちんと経験できた感情は、やがて自然に消えていきます。受け入れがたい怒りを、葛藤を感じながら、だましだまし感じていては、その怒りはなかなか解消しません。私としては、怒りを感じた時、その怒りを押させつけることもなく、ただあるがままに感じ続けるようにしています。もちろん怒りは不愉快な感情ですが、その怒りにとことん向き合って、怒りの原因となっている事物について、考え続けます。それはときに本当にイライラするものですが、精神力を鍛える機会だと捉えて怒りを感じ続けていると、最初は「この怒りは一生消えないんじゃないか」と思えたことも、不思議なことに、ほとんどの場合、徐々に徐々に消えていきます。そのタイミングは、自分なりに、その事物について心の整理がついたり、答えが出たときです。その答えに基づいて、必要であれば、アクションを取り、問題の直接的な解決を図ります。問題は、解決する場合もあれば、そうでない場合もあります。しかし、怒りという感情を大切にし、怒りが何を自分に教えようとしてくれているのかそのメッセージを把握し、そのメッセージを活かして自分のために立ち上がること自体が大事なのだと思います。このようにして一度答えが出た事物については、再度同じような状況に遭遇したときも、怒りを感じることもなくなります。怒ることなく、適切に対処できるようになります。怒りとは不思議なもので、このようにあるがままに経験し考え続けているうちに、矛盾するようですが、怒ること自体、少なくなっていきます。怒りへの向き合い方は人それぞれですし、その怒りの性質にもよります。この記事で紹介した認知行動療法的なアプローチが功を奏する場合もあれば、トラウマの解決に向けて取り組む必要がある場合もあります。



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(脚注1)進化心理学的に怒りが不快な感情であるのは、人がこの感情を一刻も早く解消したいため、怒りの原因になっている問題を速やかに解決するためです。もし怒りが人間にとって快適な感情だったら、取り除きたいとも思わないので、その個体はサバイバルにとって必要なアクションを速やかにとることもなく、致命傷を負っていたかもしれません。






 



 


自尊心とプライド

2017-05-23 | プチ臨床心理学

 心理カウンセリングをしていると、しばしば受ける質問に、自尊心とプライドの違いは何ですか?というものがあります。

 確かにこれらは紛らわしい概念であり、実際、私たちの日常生活では、これらのふたつがしばしば混同されて語られています。

 今回の記事の目的は、こうした概念について念入りに考察することではなく、臨床心理学におけるこの2つの概念の違いを分かりやすく説明することであるため、意図して簡素化して書きます。

 端的に言うと、プライドの高い人というのは、本質的なところで自信がなく、自尊心の低い人です。

 自尊心の高い人は、自己評価は高いですし、自分の考えや価値観、感じ方、行動などに、本当の意味で、自信があります。

 プライドの高い人は、傲慢で、自己顕示欲が強く、口うるさいくらいに自慢話をします。それは本質的なところで自分に自信がないためで、その根底にある自信のなさに対するディフェンスとして、自己アピールをします。承認欲求が強いです。こうした人たちのなかには、本当は自分に確信が持てないことなどに気づかないくらいに表層的な部分での自信に満ちている人も少なくありません。

 一方で、健全な自尊心の持ち主の自信は静かなものです。より本質的な自信です。こうした人たちは、謙虚です。なぜなら、あえて他者から賞賛してもらわなくても、自分の言動に確信があるからです。

 自尊心の高さは、心の健全さと関連が深く、プライドの高さは、精神衛生上の危険因子と見ることができます。


Psychotherapy 〈サイコセラピー)と心理カウンセリング (Psychological Counseling)の違いについて 追記

2017-05-17 | プチ臨床心理学

以前ここで、『Psychotherapy (サイコセラピー)と心理カウンセリングの違いについて』という記事を書いたところ、とても多くの方に読んでいただいて、嬉しかったのですが、ある知人に、「それでね、あたし何度も読み返してみたんだけど、結局どう違うのか全然わからないの」、と、会心の一撃があり、なるほど、もっと短くわかりやすく説明してみようと思い、それをここに試みようと思います。

それで、いろいろと考えてみたところ思い至ったのは、日本の臨床心理士と、アメリカのClinical Psychologistの違いでした。というのも、健康保険がPsychologistのサービスに適用されるアメリカでは、クライアント(患者)が私のところに治療に来ると、まずやらなければならないのが、その人の精神疾患の診断です。

そう、この「診断」がポイントです。

というのも、診断名(Diagnosis)なくしては、保険は適用されませんし、保険会社としては、我々がそのクライアントの特定の精神疾患に対して、どのような治療をするのか、それが知りたいのです。治療方針や、諸々のテクニックは、当然ながら、その精神疾患の性質によって異なります。つまり、精神疾患名がターゲットであり、その明確なターゲットを効果的に叩いて解消するのが、我々Clinical Psychologistのひとつの大きな役目なのです(脚注1)。それから、Clinical Psychologistと精神科医の社会的立場が伯仲しているアメリカでは、多くのClinical Psychologistは、独立して仕事をしています。

一方で、我が国日本では、精神疾患の診断は、医師が行うもの、臨床心理士は、精神科医の指示の下で、精神科医の治療の補助的な仕事をする、という場合が多いです。 また、日本では、1960年代のカール・ロジャースの来談者中心療法、Client-centered therapyの影響が未だ根強く残っておることもあり、前記の事情とは別に、「クライアントを診断する」ということに強い抵抗感を抱いている心理士が少なからずいます。さらには、アメリカの大学院ではMustである、"Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder" (DSM, 「精神疾患の診断・統計マニュアル)を用いた診断スキルを身につけることが、日本の大学院では、徹底していません(脚注2)。

つまり、(該当する精神疾患名があればその)「診断」と、その特定の精神疾患や心の問題の「治療」もしくは「改善」を明確な目的として行う心理的サービスがサイコセラピーであるのに対し、どちらかというと探索的で、末広がりな心理的サービスが、心理カウンセリングである、ということが言えそうです。

こういう意味で、心理カウンセリングは、他の多くの職業の「カウンセリング」と共通点があります。たとえば、あなたが美容師のところに髪を切ってもらいに出かけた時、良い美容師さんがまずしてくれるのが、「カウンセリング」ですよね。あなたがこれからどういう髪型にしてほしいのか、そのイメージなどについて、あなたの話を引き出しながら、ゆっくりと聞いて、理解してくれます。もしあなたが自分でもどんな髪型にして欲しいのかよく分からないで出かけても、良い美容師さんは、ゆっくりあなたの話を聞き、深めていく中で、あなたの欲している髪型のイメージを見つけてくれます。

このとき、美容師さんは、自分が持っているアイディアやアジェンダをあなたに押し付けるようなことはしません。あくまで、あなたのこころの中にもともとあったものを、対話を通して引き出してくれます。

同様に、心理カウンセラーの仕事は、あなたの心の中にもともと存在している、しかし、あなたが何らかの理由でアクセスすることのできない、あなたにとって最善の答えや、自己解決能力を、うまく引き出すことを試みます。有能な心理カウンセラーはこの技術に長けていますしが、そうでないカウンセラーのカウンセリングは、下手すると「ただ話を聞くだけ」で終わってしまいます。

ところで、サイコセラピストが非常に大切にしている基本姿勢も、この心理カウンセラーのものと同じです。そのクライアントの中に存在しているけれど、葛藤が強すぎたり、それゆえに、抵抗や、無意識の防衛機制が効きすぎていて、アクセスできないその内なる答えや自己解決能力を、無理なく引き出してあげることを目指します。そのために必要なのは、心理カウンセラーと同様の、熟練した聞く技術です。

しかし、たとえば深刻な鬱病や、不安障害(全般性不安障害、パニック障害、社会不安障害、強迫性障害など)、摂食障害、解離性障害などには、これだけでは不十分であるケースが多いです。その場合、精神療法家のもっと積極的な働きかけが必要となります。それから、パーソナリティ障害など、深刻な心の問題があり、上記の「内なる答え」を内在化していない方も、少なくありません。内なる答えが存在しないのに、それをいくら引き出そうと受け身に傾聴し続けても、あまり建設的なプロセスにはなりません。こういうときに必要なのが、サイコセラピストの診断と治療技術です。

とは言っても、クライアントのなかには、とにかく共感的に話をじっくりと とことん聞いてあげること、ただしっかりと寄り添うこと、共にいることが、何よりの癒しである場合も多く、サイコセラピストである私も、こうした場合、心理カウンセリングを徹底します。

また、クライアントが初回面接でやってきたときの最初の対話のなかで、その人には心理カウンセリングで十分なのか、あるいはサイコセラピーが必要であるのか、また、心理カウンセリングで十分だけれど、サイコセラピーを使った方がより早い回復が期待できるのか、あるいは、サイコセラピーよりも心理カウンセリングが適切であるのか、見極めることも多いです。

というのも、とことん傾聴し、正確な共感を続けることで、そのクライアントのこころの自己治癒機能を回復し、促進することができれば、それに越したことはありませんから。

しかし中には、こころの自己治癒機能に深刻な問題や破損があったり、また、そうした機能そのものを持ち合わせていない方もいます。そうした場合、私たちサイコセラピストの仕事は、その人とゆっくりと時間を掛けて付き合っていく中で、その深刻な破損を修復したり、さらには、新たにその機能を一緒に作っていく作業を行ったりします。

私のところに来られたクライアントから特に多い質問のひとつに、「これはどのくらい掛かりますか」、「どのくらいで良くなりますか」、というものがありますが、その質問に私が、「それは本当に個人差があります。数回ですっかり良くなってしまう人もいますし、数年かかる方もいます」と答えるのには、こうした理由があるのです。

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(脚注1)ところでこれはClinical Psychologistに限らず、修士号レベルの心理療法家(Marriage and Family Therapist [MFT], Licensed Clinical Social Worker[LCSW] など)にも同じことが言えます。アメリカでは、臨床の心理職に従事するために、各州の法律で定められた州資格を必要とします。そして、資格をもつ心理療法家は、特定の水準を満たした大学院の教育と、特定の臨床時間を満たしており、その水準には、精神疾患の適切な診断能力も含まれます。そして、修士号レベルの心理療法家のサービスにも保険は適用されますし、そのためにも、やはり精神疾患の診断を行います。

(脚注2)精神疾患の診断力養成に力を入れている大学院も近年増えているようですが、心理士に診断する権限が与えられておらず、また、教授やスーパーバイザーにも診断に強い抵抗感を抱いている方が多い土壌では、大学院生としても、診断力を身に着ける明確な理由やモチベーションが今一つ湧きにくいようにも思います。

ところで、日本でも、精神分析学、精神力動学の教育やトレーニングを受けている心理士は、診断をすることを精神療法に含んでいる場合が多いです。日本の多くの心理士は、「治療」という言葉を避けますが、精神分析学に精通している心理士たちの間では、治療している、という感覚が自然にあるようです。

 

 

(2015年7月24日執筆)

鬱病の克服について

2017-01-04 | プチ臨床心理学

 先日SNSのバズ系の記事で、抗うつ剤の効果について取り上げられたものがあり、読んでいて気がかりになりました。

 その記事は抗うつ剤を初めて服用した人のツイッターを集めてまとめたもので、それはたとえば、抗うつ剤を服用したら、根拠のない自信が沸いてきて、「正常な人」はこんなに根拠のない自信で常に溢れているんだあ、感動。というような、抗うつ剤の効果についていくつか集めたものでした。

 私は読みながらすぐに、この記事には製薬会社が絡んでいるのではないかと思いました。記事全体が、間接的に、抗うつ剤を飲もう、抗うつ剤で自信が回復して元気になれる、というメッセージを醸し出していました。これは明らかなミスリードで、鬱病に苛まれた人を間違った方向へ導くものです。これはよろしくないなと思い、私は以下のような内容の投稿をしたところ、幸い「いいね」が次々につき始めて、少しほっとしました。

 まず、くだんの記事で取り上げられているツイッターの人は、はじめて抗鬱剤を服用して、「正常な状態」になったのではなくて、一時的に、「軽躁状態」になっているに過ぎません。抗うつ剤を服用すると、種類やその人の体質にもよりますが、一時的に、気分が高揚したり、頭が活性化されたようになります。いささかの興奮状態で却って睡眠障害が出る人もいます(一方で、どの抗鬱剤を服用しても変化を感じられない人も少なからずいます)。しかしこうした精神状態も、きちんとした精神科医の適切な処方の調整と時の経過により、少しずつ安定していきます。本当にひどい鬱状態でもなく、軽躁状態でもないコンディションです。これは重度や中度の鬱病が、投薬で一時的に軽度の鬱病にまで回復している状態です。

 軽度ではあるけれど、鬱病は続いているわけで、これはこころが正常な状態ではありません。日本には、何年もこの状態で生活をしている方が本当にたくさんいます。それもそのはず、精神医療発展途上国の日本では、5分以下の診察で、薬の処方のみをしている精神科・心療内科が驚くほどたくさんあります。明らかに不必要で有害な大量処方をするところもまだまだたくさんあります。様々な向精神薬の副作用で症状が複雑化しているケースも多いです。さらに恐ろしいと思うのは、「うつ病は完治するものではない。大事なのは、投薬を続けながら、うまくうつ病と共存してくことだ」、などという土台から誤った考えをもって診療している医師です。これは、鬱病の患者さんをきちんと治せた経験が希薄なために、うつ病が完治するのだということを実体験として知らない方たちです。治し方を知らないのでしょう。

 誤解のないように強調しておきたいのですが、私は、うつ病の方が抗鬱剤を服用すること自体には何の異存もありません。私は、軽度から中度の鬱病であれば、ほとんどのケースにおいて、サイコセラピーのみで完治までもっていけますが、とくに中度から重度の鬱病を苛まれる方は、投薬が適切だと思っています。中度から軽度の人でも、その人の体質に合った抗うつ剤があれば、飲んでいいと思います。統計を取っているわけではないので断言はできませんが、実際、中度や軽度の人でも、その人にあった投薬を続けながらサイコセラピーをした方が、サイコセラピーのみよりも、治るスピードが若干早い印象はあります。重度のうつ病の方も、サイコセラピーのみで治せますし、本人がどうしても投薬を拒否する場合や、性格的な問題がメインで慢性的な抑うつ状態で投薬の効果がでない時など、実際サイコセラピーのみの治療を行うこともあります。ただ、重度の鬱の方のセラピーは、やはり投薬があるほうが展開が早いです。重度の鬱に関しては、基本、精神科医の少量処方と、効果のあるサイコセラピーの組み合わせです。

 それから、サイコセラピーを受けなくても良くなっている人もいます。きちんとした臨床経験と専門知識とスキルのある精神科医の方が、適切な処方と、丁寧な傾聴と適切なアドバイスをもってしっかりと診察しているところでは、性格的な問題がなければ、精神科の保険診療のみで良くなっていく方も多いです。ただ、こうした患者さんのなかには、根本的な脆弱性には触れられずに、環境を大きく変えること(例えば転職)で、ストレス源を生活から排除することで良くなる方が多いです。鬱病は、ストレス源から距離を置いて(例えば休職)、投薬をしてしばらくゆっくりと過ごしていると、症状自体は回復します。このように身体的に回復しても、根本的な問題をきちんと治さない限り、ストレス源である元の職場に戻ると時間の問題で再発することが多いのです。しかし、そのストレス源を排除することで、一応は回復します。環境が一変して、フレッシュな気持ちで気分も回復します。ただ、こうした人は往々にして、数年後に、うつ病を発症したときと同じような状況や、同じような人間関係の問題によって、その手つかずの脆弱性のため、うつ病を再発します。

 それではうつ病の治療にはどうするのが一番効果的なのか。完治を目指すには、何が得策なのか。

 これは、様々な臨床研究でも科学的に明らかにされていますが、投薬療法とサイコセラピーの併用です。先ほども触れましたが、中度から重度の鬱病に苦しむ方は、自殺念慮が酷かったり、ベットから起き上がれなかったり、家から出られなかったり、食欲がまったくなかったり、睡眠障害が深刻だったりして、なかなか心療内科やサイコセラピーを受診することもままなりません。こうした状態の方が、適切な投薬をすることで、少しだけ生きやすくなります。なんとか家から出られるようになり、なんとか食べられるようになったり、ときどき前向きに考えられるようになったり。つまり、なんとかサイコセラピーに通えるような状態です。抗鬱剤が、サイコセラピーができる状態、または、サイコセラピーの効力が最適な状態を作ってくれるわけです。抗うつ剤が、鬱状態を投薬中に一時的に軽減させることに対して、サイコセラピーは、うつ病の根本的な問題を解決します。それはその人の性格の改善であったり、無意識的に行われているまずい対人関係のパターンの意識化と改善であったり、不健康なライフスタイルの改善であったり、自分自身とのネガティブな関係や、自己批判、低い自尊心、低い自己評価、ネガティブな自己イメージなどの改善です。毎週のセッションを重ねながら(性格があまり関与していない鬱病であれば、通常2~3か月ぐらい。性格や複雑な状況が関与している場合は半年から1年ぐらい)、対話を通してこうしたことを克服していくことで、自我が鍛えられ、鬱病を根本から完全に克服できるばかりでなく、再発の可能性も低くなります。


しつけか虐待か

2016-06-07 | プチ臨床心理学

(注意: この記事の目的は、件の父親の批判ではありません。この事件をきっかけに、皆さんと一緒に子育てについて考えてみたいと思い、書きました)

最近起きた北海道の男児置き去り事件以来、父親によるあの山中の置き去りはしつけか虐待かという議論が盛んになっていますが、私としては、まずこの極端な二分法に無理があると思います。こうした0か100か、黒か白かの分類が前提になっていることが、生産的な議論に対する障壁となっているように感じます。そのように単純に割り切れる種類の話ではありません。

いずれにしても、私としての意見は、結論から言うと、明らかに間違ったことだと思います。それが虐待かしつけかということではなく。件の男性の行為は、彼なりのしつけですし、これが虐待だとは思いませんが、紛れもなく不適切な行為だったと思います(脚注1)。

まず、置き去りという罰ですが、これは発達心理学的、精神分析学的見地から、非常に良くないことです。

今回の男児の例においては、親の意図が失敗に終わっていますが、基本的に置き去りは、子供の問題行動を抑制するということに限って言えば、効果的です。

これは体罰にも言えることです。体罰は、子供を自分の思い通りに動かしたり、子供の問題行動を抑制する、ということに限定していえば、効果的です。しかし、体罰には深刻な問題があります。それは、体罰を受けて育った子が、自尊心の低い子に育つことが、臨床的に分かっているからです。体罰は、その子の将来の自己評価の低さや、精神疾患などと相関関係があることは、様々な臨床研究で明らかにされています。さらに体罰は、その子の攻撃性にも繋がっているといわれています。つまり、長い目で見ると、その子の人生にとって良くない、ということです。しかし、先ほども言ったように、体罰は、子供の行動をコントロールするのにある意味一番手っ取り早く、効果的なので、依然として多くの家庭で残っています。

いつものように、話がやや脱線しましたが、体罰と同様、この置き去りは、子供の問題行動を抑制する効果はありますが、問題は、長い目でみたときに、その子の人生に悪影響があります。というのも、小さな子供にとって、親は世界であり、全てです。親の存在が、その子の生存、サバイバルに、直結しています。その親から置き去りにされる、ということは、その子の本質的なところの見捨てられ不安(fear of abandanment 、分離不安(separation anxiety)を刺激するもので、こうしたことを常套手段としていると、その子は情緒不安定に育ちます。

体罰も置き去りも、子供に対する情緒的脅迫です。子供を情緒的に脅迫することで子供の行動をコントロールするやり方は、基本的に問題です。

見捨てられ不安や分離不安を刺激されて育った子は、不安定な大人になります。

先に、常套手段といいました。それでは、たまになら、一度なら、良いのか?

絶対にNoとは言いません。しかし決してお勧めできません。するのであれば、まず、その子の安全が保障できる場所で、その子をいざとなったらいつでも救出できる態勢を取る(その子には見えないけれど、近くで隠れてきちんと観察する)ことが、最低限必要でしょう。このいずれにしても、今回の父親の行動は、良くありませんでした。彼は男児を「本当に」置き去りにすべきではありませんでした。彼は木陰に隠れて男児を見守っているべきでした。男児は明らかに危険な目に遭いました。

ところで、これは個人的な臨床経験によるものですが、非常に興味深いことがあります。今回の事件のように、幼少期に、罰として親に置き去りにされた経験のある大人の方たちに、私はしばしば臨床現場で出会うのですが、その多くの方は、この男児と同様に、置き去りにされたその時から、親の意図とは裏腹に、サバイバルを目指して動き始めたといいます。そんなことは想像もしなかった親たちは、現場に戻ってきて子供がいなくて大慌て、やがて彼らを発見すると、抱きしめるのでもなく、「心配掛けて!」と激怒する、というパターンです。

置き去りにされて、サバイブしたら、怒られた、という記憶です。

今回の件も、もし警察沙汰になる前に父親が男児をどこか遠くで発見していたら、怒っていたような気がします。今回のことで、この父親の行動が明るみに出たのは、良かったと思っています。(なんとかママのように、この父親を責める気には到底なれませんが。彼の苦しみはすごく感じますし。彼が世間から強い批判に遭うべきだとも思いません。)いずれにしても、こうした置き去り経験のある彼らの多くは、大人になって、いろいろな問題に苦しんで生きています。それから、今回の事件も含めて私が一番問題だと思うのは、こうした親たちが、いかに自分の子供のことを見れていないか、分かっていないか、ということです。自分の子供の性格や、世界観について、よくわかっていないように思います。そして、そのわからなさゆえの誤算が、今回のようなことに繋がるように思います。

もうひとつ今回のことで不思議に思うのは、どうしてその男児がそのような深刻な攻撃性を他者に向けていたのかについてはあまり議論されていないことです。「そんなひどいことを自分の子が人様にしたら、私だって」、というロジックですが、私としては、どうして彼がそのような問題行動をするのか、そちらのほうがまず気がかりです。小学校2年生の7歳男児が他人や車に石を投げる、ということはあまりありません。世の中の大多数の小学校2年生の7歳男児はそのようなことはしません。こうした行動化をするのは、彼の置かれている環境やこころのなかで何か深刻な問題が起きているサインであると考えられ、本来一番重大視されるところだと思います。これについては、私はこれ以上話すことを控えます。

ただ、いずれにしても、今回のことが、多くの人達にとって、子供のしつけや体罰、虐待について考える機会になったのは、不幸中の幸いだったようにも思います。

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(脚注1)これがアメリカのカリフォルニア州で起きていたら、即刻Child Protective Service (CPS、児童保護サービス)という機関が警察と連携で動き出し、児童を父親から隔離して保護していたでしょう。発達心理学や臨床心理学を含めた心理学世界最先進国アメリカでは、これはabuseと見なされます。しかしだからといって、それが直接日本にも適応できるかといえば、そうとは言えません。文化も社会背景も異なります。なんとかママも、その辺りの想像力は必要だったと思います。

それから、常々思いますが、昨今よく耳にする「児童虐待」という言葉がしばしば不適切だと思います。児童虐待は、英語の"Child abuse"から来ていると思いますが、このabuseには様々な種類とレベルがあり、すべてのabuseが即「虐待」とも言えません。「虐待」というから、人々はぎょっとして、拒絶反応を示したり、過剰反応したりするように思います。abuseは、様々な種類とレベルの「間違った扱い」を指す語であり、すべての間違った扱いが、虐待とはいえません。こうしたあらゆる種類の「間違った扱い」は、当然正されなければなりませんが。親本人は往々にしてその扱いの深刻さについての自覚がありません。件の父親の行動は、こういう意味で、「間違った扱い」ではあるけれど、「虐待」とも言えないと思います。ひどい判断力の結果として、児童は危険に晒されたわけですが、父親はまさか息子がそのような目に遭うとは思っていなかったでしょうし、はじめから子供に危害を与える意図のある虐待とは似ていて異なるものだと思います。


 


前に進むことを急ぎ過ぎないことの大切さについて

2016-05-17 | プチ臨床心理学

何かに躓(つまず)いた時に、「早く立ち上がって前に進みたい」と願うことは、とても健全であり、大切なことだと思う。それは回復したい、克服したい、成長したいという願いだ。

しかし人はときに、前進することを急ぎ過ぎる。

それはたとえば、会社の人間関係の問題で鬱になり、休職を余儀なくされた人たちに見られる傾向だ。

こうした人たちの多くは、とてもまじめで、倫理的で、責任感の強い人たちだ。

「自分が休んでいることで部署の人達に迷惑を掛けてしまっている。早く戻らないと」。

それは胸が痛むような、切実な思いだ。

彼らは「休職」ということで、会社を休んでいるけれど、精神的にはまるで休めていない。四六時中、罪悪感と焦燥感に苛まれている。休むことになってしまったことで、「もう少し頑張れたのではないか」と、現在働き続けている人たちと自分を比較して恥じたり、劣等感に苛まれたりしている。

こうしたときに、「早く良くならないと」、「もう1ヶ月も休んでいる」、「自分は駄目な人間だ」と、心身の調子が戻らないことに焦り、いつ戻れるのか、また、戻ったところでいつ再び同じようなことで躓くのかと、将来にものすごい不安を感じ、八方塞がりのように感じてしまう。

こういうときに、周りの人が、「今はとにかく休もう」と言ってもそれはなかなか伝わらないし、自分が感じている苦しみを周りがわかってくれないことで、どうしようもない孤独感を感じることもある。

こうした思いを抱えて藁をもつかむ思いで私のところにやってこられる方に寄り添って、共感して話を聞いていると、「何とかしてあげないと!」とこちらも焦る気持ちが強くなり、思いつきのアドバイスや認知行動療法などのテクニックを使ってでも速やかに助けてあげたい、という感情に扇動されそうになることがある。

これを逆転移(Counter-transference)というが、ここで実際にいきなり認知行動療法などを始めるのは、その強烈な逆転移の行動化であり、セラピストがクライアントと一緒になって焦ってしまっては良い変化は望めない。

逆転移の強い感情に耐えられない時にセラピストは行動化するが、ここで本当に大切なのは、セラピストがその感情と心の痛みに耐えて、向き合って、落ち着いてクライアントの話を聞き続けることだ。

ただ、この思わず動かさせそうな胸の痛む感情は、目の前のクライアントが感じている感情そのものであり、これをうまく伝えることで、クライアントは、理解されている、分かってもらえている、という気持ちがでてきて、孤独感が軽減し、焦燥感や罪悪感とも冷静に対峙できるようになる。

セラピストは、クライアントの心の痛みを経験し、受け止めて、クライアントと一緒に悩み考えなければならない。サイコセラピーは、セラピストが自分のこころを使ってクライアントのこころを治していくプロセスだ。

こうしているうちにクライアントは、「どんなに会社を休んでも、こころが休まっていなかったら、いくら休んでも休めていない。こころから休めるようになったときに、復職の可能性が現実的になる」、という私の話を信じてくれるようになる。信じて、心から休む勇気がでてきて、個人差はあるけれど、そのしばしの「休み」を楽しめるようになる。

立ち止まる勇気がでてくる。

きちんと一時停止しないといけないところで徐行運転をして済まそうとすると、事故を起こしたり、捕まってしまう。

立ち止まって、休職の原因となった人間関係について振り返り、さらには、その奥にある、自分自身との関係性、過去の未解決の問題についても洞察を深め、無意識を意識化し、根本的な問題が改善、解決されていく。

こうしたプロセスなしに、焦る気持ちに流されるままに付け焼刃的なリワークや社交スキルトレーニングのようなことをしても、それは傷口に貼り付ける絆創膏のようなもので、根本的な問題の解決には至らないから、復職しても、将来同じようなことで躓きやすい脆弱性は残したままになる。

このように、人は何かに躓いたときに、焦らずに、きちんと立ち止まって躓いた理由について理解することが大切だ。

躓いたことを認め、そんな自分自身を受け入れてあげるところから、真の前進は始まる。


適応障害 (Adjustment Disorder)

2016-01-02 | プチ臨床心理学

 私たちは、人生において、様々な変化を経験します。何しろ人生は生涯をかけて日々変化し続けているのですが、それでも人生には、一見すると何の変化もないように感じるくらいに安定していて穏やかな時期と、誰が見てもわかるような大きな変化のある時期とがあります。大体はその中間ぐらいに収まりますが。人は、そうした変化に対して、日々、順応して生きています。その変化が小さければ小さいほど、私たちは、自分たちがその変化に適応していることにも気づかないくらいに適応しています。逆に比較的大きな変化に対しては、それ相当の調整が必要となります。

 人生におけるあらゆる変化はストレス因(Stressor)であり、それはたとえその人にとってポジティブなできごとにおいても言えることです。たとえば人は、仕事の昇格でも、結婚でも、また、海外旅行でも、ストレスを経験します。しかし、ストレスのレベルには、非常に大きな幅があり、たとえば海外旅行へ行くというストレスは、そのなかで、比較的低いものです(脚注1)。逆に、人生における非常に強いストレスとして知られるのは、配偶者の死、離婚、家族の死などの喪失体験です。このように、ストレスにはいろいろなレベルがあります。そして、大事なのは、そのストレス因をその人がどのように捉えるか、そのストレス因によって、その人がどれ程な困難を経験しているかという問題です。

 今回のテーマの「適応障害」(Adjustment Disorder)というこころの問題は、実のところ、非常にありふれたものなのですが、これは前述のように、私たちの人生は変化の連続で、常にストレスは存在している、という事実を考えれば、不思議なことではないと思います。実際、私のところにも、適応障害の診断を受けた方がたくさん来られます。特に多いのは、仕事関係のストレス因です。それは職場の異動であったり、新しい上司との関係であったり、昇格による新しい任務と責任である場合もあれば、新規で採用された方が、学生から社会人という大きな変化に反応している場合もあり、本当に様々です。

 日本の精神科、心療内科でも広く使われている、国際的精神疾患診断基準のDSM最新版、DSM-5によりますと、適応障害とは、「はっきりと確認できるストレス因に反応して、情動面または行動面の症状が出現すること」(p.285)、とあります。この「はっきりと確認できるストレス因」(identifiable stressor)という言葉もポイントで、適応障害の診断には、特定可能なストレッサーの存在が条件となります。ストレス因としては、失恋など、ひとつの出来事である場合もあれば、引っ越しと仕事の問題と実家の問題など、複数の出来事である場合もあります。また、ストレス因は、反復する場合(たとえば一定の周期で苦手な任務に従事しなければいけない場合、特定の季節に特定の苦手な地域で暮らさなければならない場合など)もあれば、新しい嫌な上司との関係性など、続く場合もあります。また、人生における特定の発達上のできごと、たとえば、入学、就職活動、入社、ひとり暮らし、結婚、親になる、退職、親の介護、などである場合もあります。

 さて、具体的な診断基準は、A~Eの5項目に分かれています。実際の診断には、精神医学や臨床心理学の知識と経験が必要であり、自己診断には注意が必要ですが、もし以下の項目を読んでみて、思い当たるふしがあったり、もしかしたら、と思ったら、なるべく早いうちに、心療内科、もしくは精神科を受診されることを強くお勧めします。さて、以下がその具体的な5つの項目になります。

A.特定可能なストレス因に対する反応で、そのストレス因の始まりから3カ月以内に情動面や行動面の症状が出る。

B.こうした症状は臨床的に重要で、それは以下のうち1つまたは両方。

 (1)そのできごとの背景や文化的要因を考慮しても、そのストレス因に「不釣り合い」な程度や強度の苦痛。

 (2)社会的、職業的、あるいは本人の人生におけるそれ以外の重要な領域における機能の著しい障害。

C.この症状は、他の精神疾患を満たしておらず、既存の精神疾患の単純な悪化ではない。

D.この症状は、正常の死別反応に見られるものではない。

E.この障害のストレス因またはその結果が終結すると、症状がそれからさらに6カ月以上続くことはない。

そしてこの診断には、以下の6つの症状のうちのいずれかが特定されます:

「抑うつ気分を伴う」、「不安を伴う」、「不安と抑うつ気分の混合を伴う」、「素行の障害を伴う」、「情動と素行の障害の混同を伴う」、「特定不能」。

 具体的な診断名としては、たとえば、「適応障害、不安を伴う」、「適応障害、抑うつ気分を伴う」、というようになります。ただ、これはテクニカルなことなので、適応障害の診断をもらった方でも、医師から単に「適応障害」と言われただけで、具体的なものは聞いていない、という方もいると思います。その場合、診断をされた医師に質問してみるとよいでしょう。

 さて、比較的シンプルな診断基準ですが、これにはいくつかの説明が必要です。まず、基準Bですが、(1)は、その人が現在経験しているストレス因の背景となる要素です。その背景、文脈的なものを無視しては、その人の症状を正確に把握することはできません。そして、すべての人は、その人が生まれ育った土地の文化的な影響を受けています。ある土地では自然な反応も、別の土地では、尋常でない反応であったりします。こうしたことを踏まえて、当人の経験している苦痛が、そのストレス因に対して「不釣り合い」な程に強いことがポイントです。

(2)は、情動、行動面の機能障害についてであり、このストレス因に対する症状(たとえば抑うつ)のために、それまでの夫婦関係の機能に支障がでていて、本人や配偶者、あるいは2人において、問題になっている、というようなことです。具体的な例は、夫がその仕事による新しいストレスで抑うつを経験していて、妻との会話がきちんとできなくなっていたり、性生活に問題がでている、といったケースがあります。職場の任務がその症状によって遂行不能だったり、ミスが目立ったり、効率が著しく落ちているという場合も、これに該当します。

 診断基準Cですが、これも非常に重要です。ちなみにこれもテクニカルなことで、これは精神科医の方でも知らない場合が少なくありません。これはどういうことかといいますと、DSMのシステムの診断基準には、いくつかの「優先順位」があり、適応障害は、前述のように、精神疾患のなかでもっともありふれたもののひとつであり、これはつまり、適応障害の診断を受けた人は、精神疾患としては、比較的軽症の場合が多い、ということです。

 このストレス因によって、その人の経験している抑うつが、「大うつ病性障害」、いわゆる「うつ病」(Major Depressive Disorder)の診断基準を満たしていたら、その人の診断名は、適応障害ではなくて、うつ病になります。これはつまり、うつ病という精神疾患が、適応障害よりも強く、また、適応障害の抑うつの症状を含んで超えているためです。しかし、専門家でもこうしたことを知らない方は少なくないようで、他所で適応障害という診断をもらって来られた方が、うつ病の診断基準を満たしている、ということは良くあります。

 ただ、それは広義には、「反応性抑うつ」であり、環境に対する適応の障害でもあるので、まったく間違いというわけではありません。しかしここで私が懸念するのは、本当はうつ病の診断基準を満たす深刻度の方が、適応障害とされることで、その人にとって適切であり、十分な治療が受けられていない、という可能性です。

 ちなみに適応障害は、あらゆる精神疾患において、一番偏見の少ない病名のひとつなので、患者さんに気を遣って、本当はうつ病だけれど、適応障害という診断名をとりあえずつけて、実際はうつ病の治療をされる方もおられますし、これについては一概にはいえません。

 それから、たとえば、何らかの不安障害の診断を既に受けていた方が、その環境の変化によるストレスによって、症状が単に悪化している場合は、新たに適応障害の診断はされません。

 診断基準Dは基本的にB(1)の具体例です。大切な人との死別によって、著しい精神的苦痛を経験し、その結果、一時的に、情動面、行動面、あるいは両方において、その人生における大きなストレス因にふさわしい、「自然」に考えられる、正常な喪失体験が起きている場合には、この診断はされません。

 死別反応が正常かどうかの判断にも、専門的知識と経験が要求されるので、いずれにしても、誰か大切な方を亡くされた方が、見兼ねるほどに強い反応をされていることが強くようでしたら、速やかに心療内科を受診されることが望ましいです。

 これはこころの問題一般にいえることですが、あなたが、「何かおかしい」と思った時点で、心療内科を受診することが、早期発見、または、予防に繋がります。

 最後に診断基準Eですが、適応障害は基本的に、比較的短期間の、新しい環境やできごとに対する適応における問題なので、期間も6カ月と限定されています。ちなみに、もしこのストレス因がそれ以上続く場合は、「持続性」(慢性)という条件が加わります。具体例としては、「適応障害、持続性、不安を伴う」、というようになります。しかしこのように適応の障害が長く続く場合、通常は、より深刻な精神疾患が伴う場合が多いので、受けている治療が十分でなかったり、適切でない可能性があります。

 さて、適応障害はサイコセラピーではどのように克服していくかということですが、まずは、その人がその環境の変化、新しい出来事を、「どのように受け止めているか」、「どのように解釈しているか」、について理解を深めていきます。この記事のはじめのほうでも述べましたように、同じようなできごとでも、それを個人がどのように受け止めるか、また、どのように経験するかは様々で、ある人にとってはそれほどでもない、つまり、大したストレスにならない要因が、他のある人にとっては、とても大きなストレスである場合も少なくありません。これはつまり、捉え方を変えることができると、ストレスが改善し、適応しやすくなる、ということでもあります。面接を通して、もしその人に、何らかのソーシャルスキルが欠けていたり、不足していることが明らかになった場合は、ソーシャルスキルを伸ばすこともします。その人が気づいていないけれど、利用可能なリソースがその人の周りにあるようでしたら、そのリソースにアクセスすることを促すこともあります。そのストレス因が恋愛関係の終結などの喪失体験の場合、その喪失について、対話によって喪の仕事を進めていきます。不安が伴うようであれば、不安について扱いますし、抑うつが伴うときは、抑うつの改善もしていきます。もしその人が、人生における発達的課題で不適応を起こしている場合は、その発達段階における、アイデンティティの修正、再構築を促進していきます。

 このように、一口に適応障害と言っても、その人の経験しているストレス因は、その強さも性質も様々です。そして、適応障害が治る頃、つまりその人が環境に上手に適応できるようになったとき、その人は、大きく成長することになります。


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参考文献: 

American Psychiatric Association,(2013),Diagnostic and statistical manual of mental Disorders(5th ed.). Washington, DC : American Psychiatric Association,

(米国精神医学会 日本精神神経学会・高橋三郎・大野裕(監訳)染谷俊幸・神庭重信・尾崎紀夫・三村將・村井俊哉(訳)(2014).DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル 医学書院)


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脚注1.これにも当然個人差があり、また状況的な違いもあります。たとえば、あなたが親友や仲の良い恋人と二人でずっと行きたかった国に行くことと、反抗期の高校生が、支配的で無神経な親や不仲のきょうだいと一緒に、ほとんど無理やり連れていかれる形で、嫌いな国に行くという旅行とでは、そのストレスのレベルに相当な違いがあるのがよくわかると思います。

 

 


批判が嫌ならば何もしないことです ("Do nothing if you don't want any criticism")

2016-01-01 | プチ臨床心理学

 冒頭の言葉は、少し前にFacebookで見かけたものです。誰だったかアメリカ人の友人が、何かのリンクを投稿していたもので、具体的な言い回しは覚えていませんが、だいたいこのような英文だったと思います。

 言うまでもありませんが、この言い回しは反語であり、これを言った人の意図することは、"Do what you want in spite of any criticism"、批判を恐れずに、行動しよう、ということです。Facebookを閲覧していると、異口同音に、これと同じような考えをよく目にします。こうした発言をしている友人は、そのほとんどがアメリカ人ですが、近年、こうした考えが日本でも広まりつつあるように思います。アドラー心理学の『嫌われる勇気』がベストセラーになったことからもわかりますが、これはいかに多くの人たちが、周りの目が気になって、自分がしたいこと、本当によいと思うことをできていないかということの裏付けだと思います。

 他人と自分は「違う」ことが当たり前であるという前提の個人主義アメリカ社会でも、実のところ、多くの人たちが、他人の批判を気にして思うように行動できずにいるので、他人と自分が「同じ」であることが前提である集団主義社会日本で、人々がこうしたことに苦しむのは、ごくごく自然なことだと思います。思えば私も、LAにいたときは普通にしていたことで、日本に住むようになってしなくなっていったことはたくさんあります。そのひとつひとつは小さなことですが、日本にいると、アメリカではほとんど感じなかった「周りの目」を不思議と感じるようになります。周りとの「和」を重んじる日本社会には、公共の場における様々な「ルール」が存在します。たとえば、電車のなかでお化粧をしている人たちですが、別に周りに迷惑を掛けているわけでもなく、私としては、正直本当にどうでも良いのですが、男女ともに、こうした女性たちに批判的な人たちが相当いますね(匂うとか、パウダーが横から飛んでくるという話には正当性があるとは思いますが、そういうこととは別に、「品格」だとか「礼儀」などを問題にする人たちです)。電車内でやむを得ない理由で電話している人に向けられる視線も。街でサングラスを着用することについてもそうですね。

 今回の記事で私が言いたいのは、日本社会は窮屈だとか、そういうことではもちろんありません。確かに窮屈なところはありますが、こうした「和」の力が社会の隅々にまで働いていることの良い面もたくさんあります。組織の結束力や生産性もそうですし、日本社会に遍在する思いやりの精神も、人々が常に周りの人を見ていることの表れです。たとえば道でお財布を落としたら、日本ではかなりの高確率で、誰かが拾ってくれて、そのまま交番に届けてくれます。このあいだも、ある方が高級鞄にラップトップのPCを入れたものを電車の網棚に置いたまま下車し、後になって気づいて思い当たる鉄道会社に片っ端から連絡していったら、後日そのバッグがそっくり見つかったと聞いて、日本ってすごいなあと思いました。スターバックスでタブレットで仕事をしていてトイレに行って戻ってきたら、そのタブレットは普通にそこにあります。LAではこれは保証の限りではありません。

 このように、人々の批判性は、多くの場合、配慮という側面も持ち合わせています。それから、世の中には、周りの人たちにまったく無遠慮に、自己中心的に振る舞っている人たちが時々いますが、そういうあり方は良くありません。以前別の記事でお話しした、自分の人生を生きている人たちと、自己中心的に生きている人たちの違いです。

 私たちは、ひとりひとりが社会の一員であり、互いに思いやって生きていくことは大切です。

 今回のテーマは、そのように、周りと調和して生きていく中で、自分を押し殺さずに生きていく、ということです。周りの人たちの意見や、考え、立場などを気にしすぎるあまりに、あなたがあなたの人生において本当にやりたいことをやれなかったり、正しいと思うことをできなかったり、間違っている、不本意であると思うことに従事することを余儀なくされているような状況が問題です。こういうとき、あなたは自分の人生をきちんと生きていないことになります。その時人は強いストレスを感じますし、こうしたことが続くと、その慢性的なストレスで心身に支障がでてきます。

 ストレスを感じているのはわかるけれど、家族やパートナー、仲の良い友達、同僚、上司からの批判されたり、非難されたり、拒絶されたりすることが怖いからできない、諦めるしかない、そういう風に感じて苦しんでいる人たちに向けて、冒頭の言葉は放たれたのだと思います。

 近い人たちからの批判というのは怖いものです。なぜなら、その関係性から、そうした人たちの言葉は私たちのこころに強い影響力を持っているからです。そうした影響力のある人たちからの批判や非難に、こころを傷めない人はいないでしょう。傷つきます。しかし、だからと言って、そういう人たちの意に沿うように、そういう人たちの価値観や考えに相反することのないように生きていては、あなたはいつまでたってもあなたの人生を生きられません。その人の人生を生きることになります。

 あなたとその人は、別人格であり、当然、価値観も考え方も、立場もバックグラウンドも異なります。その人たちにとってベストなことが、あなたにとってもベストなこととは限りません。共通するところはあるかもしれませんが、大切なところで異なる場合は多いです。異なるのは当たり前ですし、もし彼らが批判的な人たちだったら、そのときに彼らはあなたを批判するでしょう。支配的な人は、あなたに罪悪感を抱かせるようなことを言ったり、強制的に、あなたを彼らの思うように軌道修正しようとするかもしれません。

 人はそれぞれ違うから、あなたが何かを選んだ時に、すべての人がその選択を支持してくれることはそうそうないということです。その決断が大きければ大きいほど、その傾向は強くなるでしょうし、風当たりも強くなります。こういうときに、覚えておくとよいのは、あなたが何かを自分の意思で選んだときに、批判をする人は必ずいる、ということです。しかしあなたはなんといってもあなたの人生を生きています。彼らの目を気にして自分がしたいことをあきらめて、彼らを恨んで生きるのは、誰にとってもよくありません。

 批判されて傷つく恐怖と、自分の人生を生きられない、自己実現ができない恐怖。長い目でみたときに、どちらが本当にあなたにとって害になるか、よく考えてみないといけませんし、どちらがあなたのより良い未来に続くのか、考えてみる必要があります。


自殺と精神的苦痛 (Suicide & Psychological Pain)

2015-08-28 | プチ臨床心理学

“I instantly realized that everything in my life that I'd thought was unfixable was totally fixable—except for having just jumped." ~Ken Baldwin

「僕はその瞬間に気づいた。自分の人生で、修復不可能だと思っていたすべてのことは、完全に修復可能だったと。たった今、(橋から)飛び降りてしまったこと以外は・・・」
~ケビン・ボールドウィン (ゴールデンゲイト・ブリッジの飛び降り自殺の生存者) (黒川訳)

 8月の終わり、新学期が近づくにつれて、その始まりを心待ちにしている子もいれば、そうでない子もいます。普通に夏休みがものすごく楽しかったため、学校に戻るのが億劫だ、という子供たちとは全く異なり、学校に戻ることが死ぬほど辛い、学校に行くことを考えると気が狂いそうになる、という辛い気持ちでこの時期を過ごしている子も、実は相当にたくさんにます。

 今これを読んでくださっている方の中には、小中高校生のお子様をもつ方や、きょうだいや親せきに、この世代の子がいる、という方もおられると思います。また、自分が生徒である、という方もおられるでしょう。毎回心掛けてはいることですが、今回はとくに、できるだけ多くの方をターゲットに、この文章を書いています。そうです、今回のテーマは、自殺です。

 人はなぜ自殺するのでしょう。

 それには本当に様々な事情がありますが、自殺を選ぶほとんどの人たちに共通することがあります。それは、自殺が、「どうにも耐えられない精神的な苦痛への対処法」であるということです。アメリカのサイコセラピストであり、クリニカルソーシャルワーカーである、Jack Klottは、その名著、"Suicide & Psychological Pain" (今回のタイトルは、彼の本の表題から頂きました)は言っています。誰もできれば死にたいわけではない。自殺するのは、そのどうにも耐えがたい精神的苦痛から、なんとか解放されるための、対処策である、と。私も同意見です。もし、自殺以外に、その精神的苦痛に対応できる方法があるのであれば、人は、その死なないオプションのほうを選ぶでしょう。

 問題は、今自殺を考えている人は、死ぬこと以外に、そのオプションがないと思っていることです。

 そこには多くの場合、ひどい落ち込みや、精神的なプレッシャー、閉塞感、どうしようもない孤独感、鬱状態、深刻な罪悪感、絶望感などによる、「一時的な」、認知の歪みが関係しています。認知の歪みについては以前このブログで紹介しましたが、たとえば、黒か白かの思考パターン、破局的思考、トンネル的視野などです。

 死を考えている人の世界観は、お先真っ暗です。白と黒でいえば、真っ黒な状態です。世界は真っ黒なのです。また、暗いトンネルのなかにいるように、実はあなたの周りに存在しているポジティブな要素が、まったく見えない状態になっています。それから、思考は自動的に、最悪の事態ばかりに向いています。

 今、これを読みながら、死ぬことを考えている方がいたら、今一度立ち止まって、認識してほしいのです。あなたの今の思考は、上記のなんらかの精神的なコンディションによって起きている、一時的なものであると。その「一時的」は、もしかしたら、長い「一時」かもしれません。しかしそれは、決して永遠に続くものではありません。そして、その精神的コンディションから抜けた時、あなたは全く異なった考え方をすると。つまりあなたの精神状態は、なんらかの理由で、一時的に、つまり、可逆的に、ひどく蝕まれれいる状態である、ということです。

 自殺は、我々メンタルヘルスの専門家のあいだでは、しばしば、「一時的な問題に対する、永遠の解決策」(" a permanent solusion to a temporary problem")と呼ばれています。そうです。自殺は解決策ですが、その「一時的な」問題に対して、あまりにも代償が大きく、決して取り返しのつかない、不可逆的な解決策なのです。そして、そのように致命的な犠牲を伴うものではない、他のオプションは、必ず存在します。それは、現時点で、あなたに見えていないかもしれませんが、必ずあります。

 冒頭の引用は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の、サンフランシスコの自殺の名所、ゴールデンゲイト・ブリッジから飛び降り自殺を図ったケビン・ボールドウィンさんのものです。人生において、取り返しがつかないと思っていたすべてのことは、実はなんとかなることだったと、彼は、橋から飛び降りた瞬間に悟ったといいます。

 自殺学 (suicidology)でも良く知られている事実に、自殺者の多くは、死ぬ瞬間に、自殺という選択について、後悔するということがあります。これは、多くの自殺未遂者の証言からも知られていることです。

 これは精神分析的に言うと、あまりにも辛い現実における精神的苦痛で、あなたが本来持っていた、生の本能、あらゆる願望や希望、夢などが、あなたから、無意識に切り離されてしまっている状態(Disowned)です。それであなたは、そうしたことを、感じられなくなっています。ところが、あなたが死を決断し、死ぬ間際になって、そうした、自分から無意識に切り離してしまっていたいろいろな良きものが戻ってくるのです(Re-owned)。

 それから、メンタルヘルス最先端のアメリカでは、自殺とは、その人が、なんらかの状況によって殺される、という解釈が現在は主流です。自分の手で自分を殺す、というと、一見能動的な行為ですが、実際のところ、そうではありません。その人は、なんらかの要素、たとえば、深刻な鬱状態、過酷な状況などによって、殺される、命を奪われる、という解釈です。

 つまり、あなたは、なんとしても、あなた自身をその何かから守ってあげないといけません。殺されないように、対応しないといけません。

 もしそれが学校だとしたら、学校に行くのをやめましょう。周りのみんなが通っている学校に、自分だけ行かないのは、気になると思います。でも、あなたをそんな風に追い込んでしまっているところになど、行く必要がありません。

 実際、世の中を見まわしてみると、そういう場合に、学校に行かない子は、実はたくさんいます。そして、そういう時に学校に行かずに、立派に大人になって、自分のやりたいことをやって生きている人はたくさんいます。

 あなたが小中高校生だとすると、学校というものは、あなたの人生において、とても大きな存在だと思います。まるで学校が世界のように感じているかもしれません。でも、実のところ、学校が絶対ではありません。行くに値しない、どうしようもない学校もあります。それから、今は一昔前と比べて、学校に行かないことを選んだ人たちのためのオプションも、だいぶ増えました。

 ずっと行かないかどうかは、まだ分かりません。ただ、少なくともはっきりしていることは、あなたが死にたいくらい辛くなっている場所は、あなたにとって、とても間違った場所である、ということです。まずはそこから距離を置いて、自分を安全な場所に置いてあげてから、今後のことは、じっくりと考えていきましょう。答えは必ず見つかります。死ぬことよりもずっと良い答えが。

 もしこれを読んでいるあなたが、学校に行きたくないと言っている子の親であれば、どうか、その子の味方になってあげてください。あなたも困惑していると思うし、分からないことがたくさんあると思います。

 ただ、ひとつだけ確かなのは、今の時点で、学校は、あなたの子にとって、非常に間違った場所である、ということです。学校に居場所がないんです。家に居させてあげてください。あなたの子を守ってあげられるのは、あなただけです。

 学校側からは、異なった話が聞こえてくるかもしれません。しかし、このあいだの中学教師や校長のように、生徒から再三にわたってSOSがあったにも関わらず、無視して死に追いやってしまう病的な教育者も、残念ながら存在します。

 学校よりも、あなたの子供を信じてあげてください。

 あなたの子は、ひとりぼっちです。あなたが味方になってあげることで、あなたの子の、そのどうしようもない孤独感や、精神的苦痛は、軽減することでしょう。寄り添ってあげて、一緒に、ゆっくり考えてあげてください。

 あなたの子供が、他の生徒と同じである必要はありませんし、同じことをする必要はありません。また、今は学校に行きたくなくても、将来行きたくなるかもしれません。

 つまり、今学校に行かないということは、いくらでも取り返しがつくことです。

 ただ、嫌がる子を無理に行かせることで、その子を本当に追い込んでしまったら、それは本当に取り返しのつかないことになるかもしれません。

 今あなたが、あなたの子をしっかり守ってあげるということが、その子にとって、これから、掛け替えのない財産になります。



反応ではなく、応答する (Respond, not react !)

2015-07-10 | プチ臨床心理学

  人間関係のトラブルの元になることのひとつに、反応する(React)ということがあります。この「反応する」という行為は、しばしば、「対応する、応答する」(Respond)と区別して考えられます。

 たとえば、アメリカ人が、"She is so reactive." というのと、"She is so responsive."というのでは、意味はまるで違います。前者は明らかにネガティブで批判的な意味であるのに対し、後者は、とてもポジティブで、賞賛的な意見です。

 前者はどういうときに使われるかといえば、何かその人にとって好ましくない状況になったり、誰かに何か気に入らないことを言われたときに、反射的に、ネガティブで強い反応をする人がいたときですが、後者は、質問や、問題に対して、きちんと向き合って応答してくれる、(情緒)応答性が良い、というように、その人の安定した様子、責任感の強さ、高いソーシャルスキルなどを示唆した表現です。

 日本語には、こうした二者を端的に言い分ける言葉はありませんが、何かに対して「過剰に反応する」人、「反応の良い人」、「無反応な人」などと、「反応」と言う言葉が、いろいろな形容詞と組み合わさって、その人の様子を表現されます。 いずれにしても、冒頭の二者の基本的な違いは、reactが、(考えなしに)反射的に「反応している」のに対し、respond は、(相手の言動に対して一息ついて、それについて考えて) 対応している、というところです (脚注1) 。

 実際、レスポンス(response) する時には人間関係に何か建設的なことが起きる可能性が高いですが、リアクト(react) する時は、言い争いや破壊的なことが起こる可能性があります。

 例を挙げましょう。美香さんと和夫さんに登場していただきます。2人は夫婦生活4年目です。 まずはリアクトから。

和夫: 「言いにくいんだけどさ、ボーナス、思ったよりずっと少なかったんだ」

美香: 「え?! なんで?いくらだったの?!」

和夫: 「20万…」

美香: 「ちょっと! それは低過ぎない!? カードの返済どーすんのよ!」

和夫: 「そんなこと言ったって仕方ないだろ!貰えただけマシだろ!」

美香: 「何それ?! あなたが『夏のボーナスは期待して良いよ』って言ったからプリウス買ったんじゃない! 無責任なこと言わないでよ!」

和夫: 「落ち着けよ!こっちだって必死で働いてんだよ!」 (以下省略)


 なんだか心の痛むやりとりです。

 では次に、レスポンスについて見てみましょう。

和夫: 「言いにくいんだけどさ、ボーナス、思ったよりずっと少なかったんだ」

美香: 「いくらだったの?」

和夫: 「20万」

美香: 「それは確かにちょっと少ないね。困ったね」

和夫: 「うん、困ったことになったね」

美香: 「どうしよう、カードの返済」

和夫: 「そうなんだよね。俺が楽観的過ぎた。ごめん。プリウス買うのはもう少し後にすべきだったね」

美香: 「うーん。買っちゃったものは仕方ないよ。プリウス私好きだし。2人で決めたんじゃん」

和夫: 「ごめんな。しばらく飲み会とか服とか余計な出費抑えて節約するよ」

美香:「そうだね。私もいろいろ気をつける。大丈夫だよ。頑張ろう」

和夫: 「うん」

なんだか先程のやりとりとは驚くほど違いますね。お互い思いやっています。

この2つのやりとりの何が根本的に異なるのかと言えば、やはり美香さんの心の余裕です。

前者では美香さんがあまりの動揺で、相手の気持ちを考えずに反射的に自分の不安を和夫さんに投げかけています。その結果、和夫さんも動揺して、リアクティブになり、リアクティブの連鎖が起きています。

一方、後者では、美香さんは、和夫さんからのアンウェルカムな情報に驚くものの、まずは自分の感情をコントロールして、冷静に応えています。それで和夫さんも少しほっとして、心を開いて話し始めます。その後の美香さんの対応も、自分の気持ちを表現しながら相手を思いやるもので、それぞれが思慮深い、リスポンシヴなやりとりに展開していきます。

このように、相手の言動に対して、こみ上げてくる衝動や情動を見据えながらとりあえず傍らに置いて、一息ついて相手の気持ちも考慮して応答することから、難しい案件も、建設的に話し合える可能性が出てきます。


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(脚注1)ところでreactiveは、proactiveとも対照的に使わてたりします。これは、reactiveが、何かが起きた時にそれに対して行動する、という消極的な態度を示唆するのに対し、proactiveは、その何かが起こる前に、積極的、能動的に行動する、という意味合いを含みます。そのひとのクリエイティビティも示唆しています。