興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

進化する恋活・婚活事情

2015-12-23 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 何かの目的に到達するために積極的な行動をとる様々な活動を、「○活」と呼ぶ近年の傾向は興味深いもので、それはもともと就職活動の略、「就活」辺りから始まったのではないかと思うのですが、これが「恋活」、「婚活」、「妊活」・・・・・と、どんどん広がりつつあるような気がします。一昔前までは、恋も、結婚も、妊娠・出産も、どちらかというと自然な成り行きで起きていたと思うのですが、昨今は、こうした多くのことが、とても意図的、目的的、戦略的になっているような印象があります。そこには当然、社会や文化の変化に伴う人々の価値観や考え方、ライフスタイルの変化などが複雑に絡み合っているわけですが、この「社会的、文化的」な変化には、IT革命が可能にした膨大な情報とネットワーク、こうしたものへの人々のアクセシビリティ、利用可能性という要素も大きいと思います。

 今回のテーマである、恋活、婚活も、こうしたテクノロジーの影響を多分に受けています。

 恋人や、将来の配偶者を、ウェブサイトを使って探すことは、アメリカなど、海外では、E-harmony、match.comなど、だいぶ前から行われていましたが、最近はわが国日本でもその傾向が顕著になってきました。世代にもよると思いますが、皆さんの周りにも、インターネット上のソーシャル・ネットワーキング・システム(Social Networking System、SNS)を用いて良いパートナーを見つけて、幸せな結婚をしている人が、結構出てきているのではないかと思います。私の周りにもたくさんいます。先日出席した旧友の結婚パーティーで、その大恋愛を通しての結婚のそもそものはじまりが、やはり婚活サイトだと知った時には、正直少し驚きましたが。私の印象では、とくに彼女は婚活サイトを使わなさそうな人だったからです。

 これは比較的新しい現象であり、日本人はとくに、インターネット上の出会いに対する警戒心がある方も依然と多く、また、こうしたSNSが、これまでのいわゆる「出会い系サイト」などと混同され、ネガティブな先入観や誤解や偏見によって、否定されたり敬遠されたりしているのも見受けられます。それから、こうした先入観や偏見はないものの、「やっぱりそういう出会いは自然に起きて欲しい」、「不自然」、「ネットに頼りたくない」、という理由で敬遠している方の話も良く聞きます。こうした人たちが、一向にそうした「自然な良い出会い」がないままでいる一方で、SNSを使って積極的に自分にとって最適な相手をみつけて幸せになっていく人が多いのも事実です。もちろん、SNSで失敗する人も少なからずいますが。

 さて、それではなぜ、こうした一見人工的で不自然な出会いによって、実際に多くの人が、自分にとってぴったりのパートナーを見つけて、そのなかの多くの人が、実に結婚にまでたどり着くようなことが起こるのでしょうか。今回はその秘密について、臨床心理学・恋愛心理学的に、考察してみたいと思います。今回は、基本的な仕組みについて扱うため、ストレート(異性愛の方)を対象としたサービスを前提にします。

 まずはじめに、こうしたSNSと、日本に既存の、セックスを目的とした、テレクラなどに流れを汲む「出会い系サイト」との大きな違いについて説明します。セックスを目的とした出会い系サイトは、いうまでもありませんが、基本的にセックスを目的とした人たちの集まりであり、真面目に恋愛相手や将来のパートナーを探している方はここにはいないでしょう。もしいたとしたら、それは、「木に縁りて魚を求む」です。魚は水の中に住むものなので、木に登って魚が取れるはずがありません。一方、SNSは、その多くが、真面目に恋愛したい人、結婚したい人たちのコミュニティです。そしてこうしたコミュニティは、「ペアーズ」や「Omiai」を筆頭に、その多くが、Facebookを経由したもので(しかしFBのあなたの友達には決してばれないようになっています)、さらには、会員になるために、免許証などの身分証明書が求められ、怪しい活動をしている人は、すぐに通報され、退会させられるようになっているので、「出会い系サイト」と比べて、格段に安全です(残念ながら、セックスを目的とした方や、ただ遊びたいだけの方が皆無ではないようですし、それはこれだけ多くの方が参加するようになった今では、ある程度仕方のないことだとは思いますが)。

  このように、参加者のほとんどの方が、同じ目的、つまり、まじめにお付き合いできる相手を見つけること、を共有しているため、そこにはいろいろな暗黙のルールや協調、協力などの心理も働くので、これだけでも、成功の確率はあがるわけです。

 さて、気になる実際の方法ですが、どのような仕組みになっているのでしょう。それは意外とシンプルなようです(これは私がいろいろな方の体験談を聞いたり、リサーチしたりした情報ですので、多少異なるところはあるかもしれません)。

 まず、入会して、あなたのプロフィールと写真をアップロードして、探している相手の特徴(たとえば年齢の幅、職業、趣味、居住地、移住の可能性、収入、婚姻歴、子供の有無、宗教、国籍、などなど)を選択して検索すると、それに該当する異性の写真とプロフィールがたくさん出てくるようです。そうした写真とプロフィールをゆっくり見ていって、「この人いいな」と思ったら、「いいね」ボタンを押すそうです。すると、あなたが「いいね」を押したことが、その相手に伝わり、今度はその方があなたの写真とプロフィールを見ます。もし相手の方があなたに好感を持ち、「いいね」ボタンを押すと、この時点でマッチングが成立します。この時点ではじめて、あなたはこの方にメッセージ(SNS上のメール)を送ることができるようになります。これ以降はあなたとお相手の方がメールのやり取りで自由に交流して、好きな時に実際に会うことができます。

  さて、このメールのやり取りが、あなたが実際にその方とお会いできるかどうかを左右します。それから、マッチングは成立したものの、実際に会いたい相手かどうかは、このメールの交流で分かってきます。ここで良く出てくるのは、相手のコミュニケーション能力です。交流も少なにすぐに会いたがる人は、要注意です。やめた方がいいかもしれません。それから、空気が読めなかったり、常識がなかったり、無神経な感じの人も、そう感じたら、やめたほうが良いでしょう。そうした問題がなくても、なんとなく話が合わなかったり、話を続けるのに労力が必要な相手は、あまり相性が良くないかもしれません。自然に、楽しいやりとりがテンポよく続く相手が良いでしょう。

  このメールのやり取りの期間をどのくらい続けるのかも個人差があるようです。あまり短いのも考え物ですが、逆に、メールのやり取りが長すぎて、間が抜けてしまって駄目になってしまうこともあるようなので、その見極めも大事です。会ってみたいなあ、と思ったら、そのように触れてみるのも大切です。会うまでのやり取りの期間は、だいたい2週間から1カ月ぐらいのようです。ただ、これはあなたがこうしたSNSに慣れてきて、感覚がつかめたら、もっと短いやり取りでも良いかもしれません。

 さて、実際にどこで会うかですが、多くの場合、初回はどこかのレストランなどでディナーが基本のようです(この辺も文化がでていると思います。LAの人たちは、初回はコーヒーショップでごく気軽に、というケースが多いです)。いうまでもありませんが、あなたが男性でしたら、初回は極力あなたが全部支払いましょう。この辺り、意外と大事なようです。もしこの最初の会食で、「次はないなあ」と思っても、払いましょう。これは礼儀であり、相手へのリスペクトです。あなたが女性でしたら、サッとお財布を出して、払う意志がある、という仕草をしましょう。お財布も出さずに、奢ってもらって当然、という態度は減点のようです。男女関係のステレオタイプのようですが、この辺はあまりこだわらないほうが良さそうです。というのも、この辺りにこだわったり、意固地になったりして、うまくいくものもいかなくしてしまっている人が意外といるからです。恋活・婚活において、柔軟性、臨機応変性は大切です。

 と、以下、永遠に続くわけですが、紙面と筆者の集中力の都合ではっしょります。今回もだいぶ前置きが長くなりましたが、いよいよ本題に入ります(より具体的なアドバイスをご希望の方は、スカイプ相談室またはメールセラピーをご利用ください)。

 それではどうして、このような、「人工的で、非・自然発生的」なカップル達が、彼らの今までの人生における恋愛において、それまでになかった次元の満足度を経験しているのでしょうか。どうして、学校や仕事関係で自然に出会ったカップル達に質的に匹敵していたり、それ以上の強い結びつき、マッチングが成立するのでしょうか。どうして、自然発生的に出会った恋人とは結婚に至らなかった人たちが、ネットで見つけた異性と結ばれるのでしょうか。考えてみると不思議な話です。

 それにはいくつかの理由があります。

 まず、現在のように、ネットがなかった時代は、人々は、好むと好まざるとに関わらず、その生活圏内に相手を見つけなければいけませんでした。それは多くの場合、大学のサークルや研究会が一緒であったり、会社の上司や同僚であったり、取引先の出会いであったり、合コンの出会いでした。友人の紹介、お見合いなどかもしれません。つまり、ネット以前の世界では、ひとりの人間が生涯で出会える人の数は今よりもずっと限られいていて、そこにはある程度の妥協もあったわけです。それは相手の性格かもしれませんし、価値観かもしれませんし、センスかもしれませんし、容姿かもしれませんし、趣味かもしれませんし、ライフスタイルや経済状況かもしれません。人々は、その潜在的なパートナーの数の有限性についても自覚していました。いわゆる「落としどころ」をわきまえていました。もちろん、あらゆる関係性について、ある程度の「落としどころ」は必要でしょう。しかし、ネット以前の環境では、その落としどころや妥協が今よりもずっと早かったかもしれません。もちろん、ウルフルズの『バンザイ』的な、自然発生的な出会いで死ぬまでハッピーな関係性の方たちも世の中にはたくさんいます。そうした方たちは、真に幸運な方たちかもしれません。

 しかし、インターネット革新によって、このような問題は一気に解決しました。

 沖縄の石垣島に住む女性が、北海道の苫小牧に住む男性と、趣味のSNSを通じて出会い、意気投合し、そこから一緒に飛び出して、実際に会ってみて、さらに盛り上がり、結ばれる、というようなことも、一昔前まではなかなか想像できないことでした。アメリカのニューヨークとハワイのふたりが出会うこともそうそうなかったでしょう。地理的・物理的に、ほとんど不可能でした。出会いようがありません。当時の人々は、誰かが「この世のどこかに自分にぴったりの相手がいるかもしれない」、「この世には数えきれないくらいの異性がいるのに」などというと、「夢をみている」とか、「現実逃避」とか、「たわごとを」、「また始まった」、などと、まともに取り合いませんでした。

 ところが、ネット革新によって、これが現実的になってしまいました。

 現在のSNSは、そうした地理的・物理的な問題が解消されているので、その人の生活圏内を超えたところに相手を探すことができるようになりました。確率的にいっても、たとえばある女性が、その人の生活圏内にいる5人の男性の中から相手を選ぶのではなく、そこから半径100キロまで拡大した範囲内の、20人の中から選んだほうが、その人とより相性の良いマッチングが成立する相手を見つけられる可能性は格段に高くなります。

 また、データベースからのスタートなので、相手の容姿、身長などの体型、職種、年収、婚姻歴、趣味、ファッションセンス、ライフスタイル、喫煙の有無、お酒の量、宗教、スピリチュアリティなどが事前にわかり、さらに知りたいことは、実際に会う前のメールのやり取りによるチューニングもできるため、自然な出会いや合コンにありがちな、付き合ってみてしばらくして明るみに出てくる、隠れていた好まざる要素などを、はじめから相当に除外することが可能になりました。

 こうした過程を経て、実際に会うわけですが、いざ会ってみると、写真とは様子がだいぶ違っていたり、メールではわからなかった会話のテンポやかみ合いの問題なども出てくることがあり、この時点で、さらなるスクリーニングが起きるわけです。

 このようなふるいに掛けられて残った相手というのは、あなたにとって、相当に相性が良く、満足度の高い方なので、それまで合コンや生活圏内の出会いで進展がなかった人が、自然に結婚までたどり着くことも多くなるわけです。ここには当然、お互いの、きちんとしたお付き合いをしたい、良い結婚をしたい、という意識的、無意識的な協力や協調という心理も働いています。

 ここまでネットによる新しい出会いの光の部分について書いてきましたが、もちろん良いことばかりではありません。先ほど、「妥協」や「落としどころ」がない、ということについて触れましたが、これも実際のところは程度問題であり、そうしたことが「全くない」例は少ないでしょう。

 人生、いざという時の見極めと覚悟も大切です。コミットメントの問題です。

 これは具体的にどういうことかといえば、もともと無意識的に、異性との真の親密さに不安や葛藤のある人、過去の恋愛関係のトラウマで、相手と本当の関係を築くこと、長期的な関係に入ることを、こころのどこかで恐れている人は、やはり無意識的に、常に相手の欠点を探しているところがあるので、いつまでたってもしっくりいく人が見つからなかったり、また、もし誰かと出会って恋愛関係が始まっても、何か問題をみつけてその関係性が深まる前に終わらせてしまうことが往々にしてあります。このように、潜在意識でコミットメントに葛藤がある人が、「妥協しない」と、自分の問題に気づかずに延々と相手を探して年月を費やしてしまうケースもあります。ネットによって可能性が広がったことで、ある種のひとたちは、その幸せの青い鳥症候群を極端化させてしまいます。もしあなたが、自然発生的な出会いでも、恋活アプリでも、恋愛が長続きしなかったり、なかなか相手が見つからないようでしたら、こうした潜在的な可能性について分析してみるのも良いかもしれません。

  最後に、もうひとつやや気がかりなことは、最近の若い世代の人たちのなかには、自分の身の周りの生活圏内の可能性をはじめから度外視して、いきなりネットから入る方もおられることです。婚活・恋活アプリをうまく活用できる人というのは、見ていると、やはり、多かれ少なかれ、過去に自然発生的な恋愛を経験している人が多いです。私たちは、そうした自然発生的な恋愛経験を通して、さまざまなことを学びます。それはソーシャルスキルであったり、異性の心性であったり、恋愛特有の様々な情緒体験だったりします。そうした土台があってネットを利用する人と、そういう土台もなくネットを利用する人とでは、そこから展開される関係性にも質的な違いがでてくるように思います。

 


 


話し合いと最後通告の違いについて

2015-12-23 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 近年、コミュニケーション能力について社会的な関心が高まっていて、コミュニケーションを取ることの大切さについて人々の意識も高まっています。それ自体は非常に良い現象だと思うのですが、こうした流れの中でしばしば感じることは、かなりの人たちが、この「コミュニケーション」というものの意味について、誤解をしているということです。

 たとえば、最近は、プレゼンテーションが非常に上手な学生が増えていますが、彼らの中には、プレゼンテーション能力=コミュニケーション能力であると思い込んでいる人たちが少なくありません。しかし、プレゼンテーションで自分の伝えたいことを効果的に聴衆に伝えることだけでは、コニュニケーションというものの半分しか達成できていません。というのも、コニュニケーションと呼ばれるものには、自分の意思を相手に伝えるだけではなく、相手の意見を聞いて、それについて、オープンに話し合う、という相互理解が伴わなければならないからです。「意思の疎通」、「伝えること」は、コミュニケーションの一部でしかないのです。

 本当にコニュニケーション能力の高いプレゼンターは、見ていてよくわかります。特徴としては、聴衆を自分のプレゼンテーションにうまく巻き込みますし、スライドばかり見ていることはなく、聴衆全体を見回しながら皆に「話しかけて」います。聴衆が自分の話をきちんと理解しているか、自分についてきているか、きちんと把握しています。質問など大歓迎で、ひとつひとつの質問に、対話という形で答えます。プレゼンテーションが終わった後でも、聴衆がそれにどのような意見、感想を持ったのか、興味を示し、聴衆と生き生きとした会話を展開します。

 例によって前置きがだいぶ長くなりましたが、カップルや夫婦の関係においても、しばしばこのように「報告」と「コミュニケーション」を混同している方を見かけます。よくあるのは、ふたりのうちの一方が、二人の生活のなかの何かにフラストレーションを感じているものの、言葉に出せずにずっと怒りを抑制していて、あるとき遂に我慢の限界がきて、それについて相手に伝えたことを、「話し合った」と言っていることです。それで、二人の間でどのようなやり取りがあったのか聞いてみると、実はその人の一方的な宣言であり、その宣言について、相手がどのようにコメントしたか、どのように反応したか、そうしたことが抜けています。伝えたことで一応満足してしまっていたり、後は相手がどのように受け取って、どのように動くか次第だ、という風に思っていることも多いです。

 しかし、こうした人たちが「話し合い」だと思っていることは、報告であったり、最後通告であり、話し合いではありません。

 これはまた、いわゆる「亭主関白」と呼ばれる人たちの間にも多いです。本人は、話し合っているつもりでも、それはその人のなかで既に決定したことの報告、通達であり、配偶者はただそれに従う、という図式で、これはコミュニケーションではありません。

 実のところ、本当の話し合いは、その人の「最後通告」が言葉によって相手に伝えられたところからはじまります。というのも、相手にとってはそれは発言者の考えや気持ちに関する真新しい情報である場合も多く、また、それまでにそのことについて話し合う機会もなかったため、それを聞いた側としても、いろいろと思うところ、感じることはあるのです。そして、普段本当に思っていることを言わない人が「本音」を言ったところから、真に意味のある「本音トーク」、本当のコミュニケーションが始まるのです。相手に何かを伝えるのであれば、その相手に向き合うことが大切です。向き合って、自分の発言に対して相手がどう感じたのか、どう考えているのか耳を傾けて、それについて、さらに話し合っていきます。こうした「相互」の心的・言語的やり取りが、相互理解につながる、真の話し合いであり、コミュニケーションです。






ヨハネの黙示録の四騎士(Four Horsemen of the Apocalypse)~夫婦、恋愛関係の4つの致命的な問題

2014-10-05 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 新約聖書、ヨハネの黙示録に出てくる、四騎士(Four Horsemen of the Apocalypse)は、それぞれが地上の四分の一を支配するもので、剣と飢饉と死と獣によって、人間を殺す権威を与えられてると言われています。この四騎士は、クリスチャンの間では、「未来の苦難の予言」の象徴とされています。

 カップルセラピーの臨床・研究においても、ヨハネの黙示録の四騎士(Four Horsemen of the Apocalypse)という言葉がしばしば使われます。これは、カップルセラピストの権威である心理学者、ジョン・ゴットマン(John Gottman, Ph.D)が発見した概念です。

 ゴットマンは、結婚しているカップルの将来の関係の方向性や離婚などの正確な予測において特に有名でありますが、その彼が見つけた、「離婚・別離が予測される最も有害な4つの要素」が、カップルセラピストの間では、今でもヨハネの黙示録の四騎士と呼ばれ、カップルの離婚、破局の危険性の査定などに使われています。

 なんとも不吉な響きですね。夫婦関係におけるヨハネの黙示録の四騎士。結婚関係の苦難の予言であります。

 さて、そのカップルの将来の破局を予測する最も有害な4つの要素とは何でしょう。それは、Criticism, Comtempt, Defensiveness, Stonewallingの4つであると言われています。これはつまり、パートナーの人格に対する批判(Criticism)、軽蔑・蔑視(Comtempt),自己防衛的な態度(Defensiveness)、石垣を作ること(Stonewalling)の4つです。

 石垣と聞いても?と思いますね。とりあえずStonewallを石垣と書きましたが、英語Stonewallは、「(相手の話に)返答しない、協力しない」という意味の動詞でもあります。話の流れついでに石垣からお話したいところですが、これは他の3つの要素の結果としてなり得る場合が多いので、やはり、批判(Criticism)からお話したいと思います

 ひとくちに批判と言っても、建設的な批判と、破壊的な批判があり、ここでは当然、後者の破壊的な批判、つまり、相手の人格に対する批判、人格攻撃が問題になります。カップルにおける文句と批判はしばしば混同されますが、この二者間には、質的な違いがあります。例を挙げると、たとえば、妻が料理をしていて、うっかり鍋を焦がしてしまったときです。

 「なんだ、また焦がしちゃったのか。鍋焦がすこと本当に多いなあ。焦げ取るの大変なんだよなぁ。気を付けてよ」というのは文句ですが、「また焦がしたのか?本当に使えないな、お前。何度焦がせば気が済むんだ。どうせ俺が洗うんだろ。ホント馬鹿だな、お前」というのが、人格否定的な批判です。

 全然違いますね。まず、お気づきの方もいるように、前者は、パートナーのある特定の行動について話していますが、後者は、パートナーの人間性そのものについて話しています。こんな風に言われて傷つかない人はいませんし、これは、話者のパートナーに対する共感性の欠如の表れでもあります。

 次に、軽蔑、Comtemptです。これは、パートナーに対する蔑視、嫌悪感などに基づくもので、これはいろいろな言動によって表現されます。カップルの良い関係性において非常に大切な要素のひとつに、互いに尊敬しあうことがありますが、これは、その真逆の要素です。

 たとえば、「あんたはたいして稼いでもいない能無しのくせに毎晩飲んだくれてどうしようもない駄目男。あんたみたいなのが旦那だと思うと情けなくなるよ」という妻の発言です。なかなか堪える発言です。このようなダイレクトな発言ではなくても、蔑みの笑いや、大きなため息、ちょっとしたしぐさなどで、軽蔑が表現されることもあります。

 さて、次は(自己)防衛的な態度(Defensiveness)ですが、これは、相手の発言に対して、それに耳を傾けたり受け入れたりすることができずに、自分の立場や行動を正当化しようとすることで、会話が建設的にならなかったり、破壊的になってしまったりするものです。例を挙げます。

妻:「あなた、今夜は早く帰ってくるって言ってたわよね」

夫:「ああ、帰り間際に客からクレームが入ったんだ」

妻:「クレームって言っても、こんな遅くまで掛かったの?」

夫:「すごくストレスが溜まったからちょっと飲んできたんだよ」

妻:「今夜はまっすぐ帰ってくるって言ってたけど」

夫:「仕方ないだろ、クレームが入ってストレス溜まったんだから」

妻:「約束だったじゃない・・・・・」

夫:「勘弁してくれよ!俺だって早く帰ってこようと思ってたんだけどできなかったんだよ!」

 心の痛む会話です。なぜこのふたりの会話が徐々に破壊的になっていったかといえば、最初の妻の発言に対して、夫が「ごめん、客からクレームが入って対応しなくちゃいけなかったんだ」と謝ったり、「そうだったよね。そういう約束だったよね。客からクレームが入って対応してたんだ。電話すべきだったね」と、妻の気持ちに寄り添う代わりに、自分の立場を守る姿勢に入ってしまったからです。

 こうした会話が起こるのは、ふたりの人間関係に問題があるからであり、夫としても、その関係性上、防衛的にならざるを得なかったのかもしれませんが、ここで夫が妻の発言にオープンになっていられたら、少なくとも会話の流れは変わっていたことでしょう。早く帰ってくると思って楽しみにしていた妻の気持ちに彼がもう少し共感することができると、こんな状況からでも繋がりを作ることは可能です。自分の行動に責任を取れずに、相手や状況のせいにしようとするときに、人は防衛的になります。

 最後に、先ほど触れた、石垣についてお話します。

 カップルが、これまでに挙げたように、破壊的な口論をしていると、時間の問題で、その対話は、何らかの着地点や同意点などなしに唐突で後味の悪い終わりを迎えます。それはたとえば、どちらかが「もういい!!」と怒鳴ったり、「もう聞きたくない!黙れ!」と叫んだり、或いはある時点で急に貝のように押し黙ってしまって無反応になったり、その場を立ち去ってしまったりします。このようにして起こる、パートナーからの感情的、情緒的な引きこもり、拒絶を、Stonewalling、石垣づくりといいます。

 ところで、臨床研究によると、この石垣になるパートナーの大半である、85%が男性であると言われています。私は日本人とアメリカ人の両方のカップルセラピーの経験がありますが、やはり見ていると、コミュニケーションに壁を作りやすいのは男性の方です。日本でもアメリカでも、文化的に、男の子は自分の感情を言葉にするよりも、ぐっと堪えて、文句を言わずに、強くあることが社会的に期待されて育つ傾向にあるというのもその原因のひとつだと思います。自分の気持ちについてうまく相手に伝えることにあまり慣れていないのです。

 ただ、女性の方が石垣になるケースも少なからずあります。私の観察では、カップルは大抵、どちらかがもう一方と比べるとおしゃべりですが、おしゃべりでない方の人が石垣になる傾向が強いです。ひとりがどんどん言語化して距離を詰めようとすると、もう一方はどんどん退いて距離を保とうとして、最後は石垣になります。

 カップルの関係性における黙示録の四騎士は、以上の4つですが、皆さん、いかがですか。

 ひとつでも、「これは結構あるなあ」と思ったら、対策が必要です。あなたとパートナーの二人だけで改善できる場合もあれば、カップルセラピーが必要な場合もあります。これはちょっと二人だけでは厳しいなあと思った方は、みゆきクリニックの門を叩いてください(笑)。いずれにしても、どのようにして改善していくか、ここでお話しようと思います。

 まず、批判ですが、自分の発言が、パートナーの失敗など、特定の行動に対する発言であるのか、それがパートナの人格攻撃になっているか、よく見つめてみましょう。パートナーの喫煙について言及しているとき、パートナーの喫煙という行動、習慣について発言しているのか、「煙草がやめたくてもやめられないあなたは意志の弱いだらしなくて駄目な人」というふうに人格攻撃をしているのか、注意してみましょう。

 もし相手の発言が自分に対する人格攻撃であると感じたならば、そういう風に言われると辛い、悲しい、傷つく、ということを言葉にして伝えてみましょう。

 次に、軽蔑ですが、これは実は相当に厄介です。なぜならこれは、ふたりの人間関係の歴史の中で時間を掛けてでてきたものであったり、或いはふたりが付き合い始めた頃から存在しているものであったりするからです。いずれにしても、パートナーに対する敬意は良い人間関係において、とても大切なものです。これはあなたのためでもあります。どうしても到底尊敬できることのできない人と一緒にいて、あなたが幸せになれるはずがありません。長年のパートナーシップのなかで、もし本当にいろいろ試してみて、どうしても相手のことが尊敬できないのであれば、別れを考える必要があるかもしれません。それは、あなたにとっても相手にとっても得策であったりします。

 そういうわけで、軽蔑はなかなか厄介な要素ですが、工夫次第で、相手の尊敬できる部分を見つけていくのは難しいことではありません。相手の長所を見つけて、尊敬して、褒めていく。これはふたりの関係性にとって、とても良いことです。

 自己防衛については、パートナーに何か言われていろいろと言い分があったり、言い返したい気持ちがでてくるが人情ではありますが、まずはその気持ちを抑えて、パートナーの発言に耳を傾けてみましょう。パートナーはあなたに腹を立てていて攻撃的になっているかもしれませんし、そのようなときに相手の言葉に耳を傾けるのは難しいかもしれません。ただ、前にも述べましたが、怒りと言うのは、第2感情であり、その怒りの下には、パートナーの本当の気持ちが隠れています。それは、悲しみだったり、傷ついた気持ちだったり、羞恥心だったり、罪悪感だったり、いろいろあります。つまり、怒っている人は、傷ついている人です。その第1感情に耳を澄ましてあげてください。

 ところで、もしこのようにして、防衛的にならずにいられたら、あなたが石垣になる必要はありませんし、また、パートナーが石垣になる可能性も激減します。お互いが、なかなか話しにくいけれど大切な話題について、無理なく話し続けらえる雰囲気をふたりで作っていくのが大切です。そこから繋がりが生まれ、親密さが生まれていきますから。

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今回の内容を、ぐっと掘り下げて、noteで書いてみました。興味のある方は是非お読みください。

https://note.com/taka_psych/n/nd5d02d42af04

 


カップルにおける2種類の喧嘩 (権威闘争 その2)

2014-07-06 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 カップルセラピー(Imago Relational Therapy, Emotionally Focused Couple Therapy)において、夫婦や恋人、ライフパートナーの間に起こる喧嘩には、大きく分けて、2種類あると言われています。ここでいう喧嘩とは、暴力を含まない口喧嘩、口論を指します(脚注1)。

 ひとつめのタイプは、前回触れた、カップルの間の主導権争い、権威闘争によるもので、つまり、相手の行動をコントロールしようとする試みであり、相手を自分の望むように変えたい、自分の思うように動かしたい、という気持ちに基づくものです。こうした動機については、自覚のある人たちもいれば、全く無自覚な人たちもいます。問題が深いのは当然、無自覚な人たちです。自覚は、問題を改善する第一歩であり、何が問題であるかわからないうちはその問題の解決のしようがありません。

 この喧嘩にはいろいろな特徴があります。まずありがちなのは、「どういうわけか毎回同じことで争っている」人たちです。彼らの多くは、自分たちの「典型的な争いごと」についての自覚すらあります。「私たちは毎回○○のことで喧嘩するの」、というわけです。また、全く同じではなくても、良く似たことで毎回喧嘩しているカップルも少なくありません。たとえば、トイレの便座の開け閉めで争っていたカップルがこの問題を解決したと思ったら、今度は風呂場の髪の毛の処理について争い始めたりします。こうした人たちは、「自分たちは『同じこと』では争っていない。そうしたひとつひとつを喧嘩のたびに解決している」と合理化していたりもします。しかし、その根本にあるパターン(脚注2)は同じです。

 二つ目の特徴は、この喧嘩がしばしば後味悪く終わります。たとえば、どちらかがある時点で口をつぐんで無反応になったり、相手を無視するようになったり、どちらかが爆発して怒鳴ることで終わってしまったり、どちらかがその場を去ってしまったり、どちらともなくいつもの決まり文句でお茶を濁して終わらせてしまったりと、つまり、その口論に、明確で生産的な着地点がありません。

 この結果、これは三つ目の特徴ですが、この喧嘩の後、どちらかが、あるいはふたりとも、とても嫌な気持ちになります。傷つきます。怒りがなかなか収まらなかったり、不満が残ったり、憂鬱になったり、悲しくなったり、寂しくなったり、不安定になったりします。アルコールの問題のある人は、この時にお酒を飲むし、摂食障害を持つ人は、過食に陥り、買い物依存の人は、無性に買い物がしたくなります。仕事中毒の人は、しばらく仕事に没頭してパートナーとの親密な接触を回避します。ほかにもいろいろな不適応が考えられます。

 さて、もうひとつの種類の喧嘩についてお話します。仲の良いカップルは争いごとをしない、と信じている人がいますが、そんなことはありません。どんなに健全で機能の高いカップルでも、喧嘩はします。ふたりの人間が、その異なった主観の交流によって人生を共に歩んでいるわけで、当然意見の相違はあります。全く争いがない人たちというのは、どちらかが自分の意見を出さなかったり抑制してしまっていることが多いです。そういうわけで、喧嘩はあるのですが、既に予想されている方もおられるように、このタイプの喧嘩は、「健全」です。どのように健全かといえば、彼らの喧嘩の目的は、本当の意味で、相互理解であるからです(脚注3)。

 こういう人たちの間には、自分が何か難しい話題を出しても、相手がきちんと耳を傾けて聞いてくれるという信頼があります。相手は自分に対して支持的である、という信頼があるのです。また彼らは、それぞれの意見や価値観を、ひとりの人間として尊重します。相手をコントロールしようという動機がありません。この人たちは、前回お話した、カップルの関係性の第二段階、「権威闘争期、主導権闘争期 (power struggle period)を克服した人たちです。彼らは、カップルの関係性で最も高レベルな、「深い意識と自覚のあるパートナーシップ期 (Conscious Partnership Period)」にいます。彼らの喧嘩は平和的で、お互いにとりあえず納得できるまで、理解し合えるまで、話し合います。もし時間の問題などで途中でやめなければならないときは、後ほどその続きをして終わらせます。そして、終了後に、どちらも傷つきません。「話し合えてよかった」、「より深く分かりあえた」「分かってもらえた」、という感覚が残ります。話し合いを通して、さらに親密になります。

 残念ながら、多くのカップルたちは、権威闘争期の特徴である、前者の喧嘩を繰り返します。カップルがカップルセラピーにやってくるのもこの時期です。この主導権争いの喧嘩が続くと、ふたりはやがて別れることになります。

 しかし、別離とは異なった問題を抱える人たちも少なくありません。彼らはやがて、話し合うこと、分かりあうことを諦めてしまいます。こうした大切なことを諦めてしまうと、何しろ本当に大切なことを話し合えないので、会話もどんどん少なくなっていきます。「話すことない」、「共通の話題がない」という彼らは本当に話題がないのではなくて、大事なことを話せないから話せることも話せなくなってしまっている場合が多いです。そして、大事なことを話せていないこと自体忘れていたりします。そのようにして、親密さを失ったまま、離婚や別離はせずに「結婚とはこんなものだ」と自分に言い聞かせて満たされない距離のある結婚を続ける人たちが本当にたくさんいます。こうした人たちは、主導権闘争期を乗り越えて深い意識と自覚のあるパートナーシップ期に到達することができないまま、関係を複雑化させてしまっています。近年は日本人の離婚率も上がり、こうした「家庭内離婚」は少しずつ減りつつはあるものの、この国には、そういう人たちが依然として多いです(脚注4)。「結婚は人生の墓場」などという言い回しはこうした現象を如実に表しているように思います。

 しかし、そのようにして親密さを失ってしまったカップルに希望がないわけではありません。お互いの努力次第で、親密さは復活してゆきます。そのためには、ふたりの相当な覚悟と決意が必要ですが。大変な作業ではありますが、そのようにしてパートナーとの親密さを取り戻した人たちは、当然ながら、人生が今までよりもはるかに豊かで充実したものになります。互いに人間として成長し、高め合えるからです。

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(脚注1)暴力によって配偶者を傷つけることが起きているカップルは、一時的にでも、別居するなどして、まずは暴力が起こらない程度に物理的な距離を確保することを強くお勧めします。さもなければその暴力は、時間の問題でその関係性そのものを破壊します。

(脚注2)このパターンを専門的には、力動、Dynamicといい、これは、ふたりが無意識のうちに繰り広げているドラマを指します。

(脚注3)主導権闘争期にいるカップルのなかには、自分たちの口論の目的は相互理解であると信じているひともたくさんいます。信じていながら、実際にはそのようにできていないのです。相互理解を深めているところもあるのですが、相手を攻撃したり、支配したり、コントロールしたりする動機が常に潜んでいます。

(脚注4)ここで私はこうした人たちが離婚すべきだと言っているわけではありません。というのも、今の相手と主導権闘争期を乗り越えることができないまま別れを選んだところで、次の出会いでも時間の問題で、遅かれ早かれ同じような問題に出くわすからです。あなたの持っている根本的な問題は、それに向かい合うまで、あなたがどこへ行こうと、どこまででもあなたに着いてきます。それならば、今の人間関係で解決するほうがいろいろな意味で良いでしょう。たとえ解決に至らなくとも、とことん向き合って取り組んだ、という経験が、次の人間関係の質に良い影響を及ぼします。


権威闘争 その1 (power struggle #1)

2014-06-25 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 恋愛関係、婚姻関係のカップルの別れには、大きく分けて、2種類あると言われています。

 まず、一つ目のパターンですが、これは、特に仲が悪いわけでもなく、決定的な喧嘩などがあったわけでもなく、付き合ってはみたものの、なんとなくそれ以上関係が深まることもなく、どちらかともなく別れを切り出したり、或いは「自然消滅」的なフェイドアウトによって、その関係が終わってしまうものです。こうした別れにおいて、あなたはトラウマになるような痛みは経験しません。もちろんそこには一過性の悲しみ、怒り、腑に落ちなさなどはありますが。

 もう一つのパターンが、今回テーマになっている「権威闘争」(Power struggle、パワーストラグル)の伴う場合で、この場合、前者と比べて明らかにあなたはその相手とのこころの繋がりは深いです。趣味を共有していたり、価値観や哲学や社会的関心などが共通であったり、知的レベルが同様であったり、セックスのケミストリーが抜群であったり、そこにはいろいろな理由があるでしょう。

 そして、そのようにふたりで共有しているたくさんのものがあって、互いに深いつながりを感じているにも関わらず、どうしても相容れないものがあり、そのために起きるどうしても繰り返される喧嘩や口論、そうした頻繁に起きる争いのときの傷つけあうことの痛みに遂に耐え切れずに、大きな未練はあるものの、どうしようもなく別れを選ぶ、というケースです。このような別れは、どちらが別れを切り出したにしても、それぞれにとってものすごい痛みを伴うもので、その別れはしばしばその人にとってトラウマティックなものとなります。

 それで、どちらのパターンの相手が、あなたの人生において深い関係のあった人であったか、運命の相手の可能性があったかと言えば、それはもちろん後者です。彼らの争いは非常に苦痛なものですが、そこには深い繋がりもあるので、多くの場合、このケースのカップルは、なんとかならないものかと一生懸命奮闘します。カップルセラピーにやってくるカップルの多くが、このパターンであると聞いても、あなたはあまり驚かないでしょう。

 前者の場合、争いもあまりないけれど、繋がりも強くない分、別れにおける葛藤も迷いも少なく、カップルセラピーの出番はそれほど多くありません(脚注1)。一方、後者の人たちは、そのこころの繋がりが深く、互いに特別な存在であることが直感的、経験的にわかっているので、どうせ別れるのであれば、その前に最後の手段としてカップルセラピーを試したい。カップルセラピーをせずに別れてしまってはきっと後悔する、そういう思いから、カップルセラピーの門を叩きます。

 カップルセラピーのなかでも、特にImago Relational Therapy は、こうした人たちにおいて、非常に有効であることが知られています (イマゴ セラピー。Imago (イマゴ)とは、ラテン語でImageを意味します)。Imago Relational Therapyにおいて、彼らの権威闘争は、「権威闘争期」というカップルの関係性における中期のステージであり、この互いに傷つけあう権威闘争期をうまく乗り越えて、さらに深く繋がり、分かり合え、互いに高め合える、真の人生のパートナーとしての最終ステージ、Conscious partnership stage (深い意識と自覚のあるパートナーシップ)にたどり着きます。Conscious partnership stage においても、自然な口喧嘩はときに起こりますが、権威闘争期のような、互いを傷つける種類のものではなく、相互理解やサポートに繋がるものです。次回はこの権威闘争とは具体的に何か、また、Imago Relational Therapyとはどのようなものかについて、お話しようと思います。

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(脚注1)とはいっても、「自分たちはこのまま付き合いを続けるべきなのだろうか」、「このまま別れるべきなのかいまいちわからない」、というカップル、また、どちらか一方は一緒にいたいけれど、もう一方は別れたい、という例も少なくありません。こうしたケースにおいてもカップルセラピーは有効です。彼らはカップルセラピーを通して、自分自身と相手における理解を深め、混乱を解消し、クリアーなマインドで、冷静な判断ができるようになります。これで関係が深まるカップルもいれば、別れを選ぶカップルもいます。しかし、もやもやした、いまいち判然としないなかで、衝動的に別れてしまうよりも、こうしたプロセスを通してきちんと理解して別れるほうが、お互いにとって良いことはいうまでもありません。この理解があるのとないのとで、次にあなたがどのような人と付き合ってどのような関係を築くのかに大きな影響があるからです。


 


カップルセラピー (Couple therapy)とは?

2014-01-23 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 心理カウンセリング、サイコセラピーと聞くと、日本では、クライアントの話をセラピストが一対一で聞く、というイメージを思い浮かべる方が多いと思いますが、実はそれだけではありません。日本ではまだあまり広く知られていないものの、特にアメリカで人気で、広く利用されているカップルセラピー(Couple therapy)というものがあります。

 これは、結婚関係に問題があって困っている夫婦、パートナー、恋愛関係で困っているカップル達が、ふたり一緒にやってきて、セラピストと3人で行うセラピーで、ふたりの間のコミュニケーション能力の向上、信頼関係の回復、向上、親密さの回復、向上を主なゴールにした治療です。冒頭で述べたように、これはアメリカ人の間で非常に親しみ深いもので、人間一対一の人間関係とコミュニケーションをとても大切にするアメリカ人は、その関係性に困ったら、すぐにカップルセラピーのできるセラピストのところにやってきます。

 ただ、残念なことに、本場アメリカでも、カップルセラピーのきちんとしたトレーニング、知識と経験を欠いたセラピストは多く、彼らはカップルセラピーを、まるであたかも個人セラピーX2のように行っていますが、これはあまり効果の期待できないもので、やはりこういうセラピストに当たってしまったカップルは、「カップルセラピーなんて効果がなかった」、と諦めてしまったりします。

 それではカップルセラピーは1セッションの間に個人セラピーを二人相手に交互にすることとどう違うのかといいますと、個人セラピーでは、クライアントとセラピストの人間関係とその対話がメインであるのに対して、カップルセラピーでは、あくまでそのふたりのクライアント(カップル)の対話と人間関係がメインであり、セラピストの役割は、そのカップルの対話を促進していくことにあります。

 カップルセラピーのきちんとしたバックグラウンドがないセラピストは、この大前提を知らずに、彼らにとってなじみの深い個人セラピーをそのまま応用しようとしてしまうのです。カップルセラピーにおいて決定的に大切なことに、セラピストはふたりの間の中立的な立場を守り、どちらかのサイドに回らない、ということですが、適切なトレーニングのないセラピストはこれに無自覚で、いつの間にかふたりのうちのどちらかに共感し過ぎて公平さを失い、もう一人のクライアントにそれを悟られて失敗します。

 また彼らは、カップルセラピー独特の、ひとりひとりのクライアントに対する適切な距離を知りません。私のところにも、以前にこういう経験をして嫌な思いをしてやめてしまった、というカップルが結構来ました。しかし、セラピストもただの人間ですので、この「中立を守る」というのは相当な訓練と経験が必要です。さらに、実際にこういうカップルに会ってみると、どうして彼らの前のセラピストがある一人の味方になってしまったのか、よくわかる、ということはよくあります。

 また、クライアントのほうから無意識にこうした問題を引き起こそうとしたりします。たとえば、「今日○○は調子が悪いから来ません。私だけ参加します」とか「前のセッションが辛かったみたい。彼は今回はパスするって。今日は私だけ」、などと、ひとりだけ治療にやってきたりします。こういうときに、うっかりひとりだけ会ってしまうとすぐにこのバランスは崩れてきます。また、一人が非常に自己愛的で共感性の欠けた人で、もう一人はその人の心無い言葉にとても傷ついている、となると、やはりセラピストとして中立を保つのは大変です。こうしたなかで、いかに公平に、この破壊的な関係性を変えていくように彼らをガイドしていくかが、カップルセラピストの腕の見せどころとなります。

 それから、離婚や別離が決まっているカップルでも、その別れの過程をより円滑で円満に経験したり、夫婦、恋愛関係は終わってしまうものの、良い人間関係は続いていけるようにカップルセラピー(しばしばDivorce therapy、離婚セラピーなどと呼ばれます)に参加するカップルも少なくありません。それから、カップルセラピーは開かれたセラピーであり、一緒にいることがよいことなのかどうかわからないカップルが、お互いにとって良い答えを見つけていく手助けをするのもカップルセラピストの仕事です。私は、Imago Relational Therapyと、Emotionally Focused Couple Therapyを融合したカップルセラピーを実践しています。日本人カップル及び、日本人と、英語圏の方の国際カップル、英語圏同士のカップルが対象です。異性カップル、同性カップルと、問いません。Imago Relational TherapyとEmotionally Focused Couple Therapy については、後ほど改めて書いてみたいと思います。

 


間主観性と人間関係 (Intersubjectivity and Interpersonal Relationship) その1

2013-05-24 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 近い人間関係、たとえば、夫婦関係、恋愛関係、親しい友人との友好関係などにおいて、その2人の人間は、様々な状況、出来事などにおいて、それぞれの主観性(Subjectivity)を相手に表現することによって、共有された第三の主観性、「間主観性」(Inter-subjectivity)を通常無意識的に2人で構築していく。

 たとえば、最近付き合い始めた真治さんと美央さんは、相性が良く、意気投合し、2人の将来について語りだすようになったのだけれど、ここで、この2人の人間が、それぞれの理想、願望、必要、欲求、期待、希望などについて相手に話していく。この繰り返される会話の中で、それぞれがそれぞれの主観性を認識し、その自分の主観性と相手の主観性が徐々に「2人が共有する2人の未来像」という共有された主観性、間主観性を作り出す。この「2人の未来像」は、真治さんと美央さんがそれぞれはじめから持っていたイメージとは多かれ少なかれ異なったもので、当然ひとりでいては生まれなかったもの、相手の主観性があって初めて生まれたものだ。

 別の例をあげると、結婚生活3年目の博史さんと夏美さんが夏休みの休暇に海外旅行に行こうという計画を立て始め、しかし最初の段階で、博史さんはハワイをイメージし、夏美さんはイスラエルをイメージしていたため、この「ハワイとイスラエル」というかけ離れたイメージから、2人はどうしてハワイなのか、どうしてイスラエルなのか、会話を重ねていく。自分の気持ちをきちんと意識しながら、相手の気持ちに良く耳を傾けていくうちに、2人はやがてそれぞれの気持ちや欲求や興味が共有された、第三の場所を見つけていくかもしれないし、今回はハワイ、次回はイスラエル、となるかもしれない。何はともあれ、博史さんと夏美さんがゆっくりと対話を重ねて出てきた答えというのは2人の主観性の交差点、間主観性によって出てきたもので、この2人の親密な人間関係によって作られたものだ。

 ここまでが前置きで、健全な人間関係において健全な間主観性がどのように構築されていくか簡潔に述べたわけだけれど、ここからが本題、それでは何が2人の人間関係に問題を起こすのか、ということについて考えてみたいと思う。

 人間関係の軋轢には当然様々な理由がある分けれど、今回のテーマ、間主観性という観点からみると、「2人の人間が間主観性を築けないとき」、それから、「2人の間の間主観性の場(Intersubjective field)が崩壊したとき」、その人間関係に問題がでてくる、ということができる。

 たとえば前述の2つの例において、付き合い始めた真治さんと美央さんが、意気投合し、2人の将来について話し始めたら、それぞれの両親、家族との付き合いにおいてそれぞれどうしても妥協できないことの存在が明らかになったり、出産、育児、キャリアなどを巡ってどうにもならない価値観の相違が明らかになったりして、ぞれぞれがそれぞれの主観を表現するものの、2人とも到底その考えに賛同できずに共有するものが見出せない、というときに、2人の人間関係には当然問題がでてくる。ここで精神分析学的に何が起きているのかというと、「2人の人間が間主観性を築けずにいる」ということだ。

 2つ目の例では、博史さんが夏美さんのイスラエルに対する情熱に全く興味を示さなかったり、夏美さんが博史さんのハワイへの気持ちを平凡でつまらないと切り捨ててしまっては、2人が築き始めた「海外旅行」という事象において共有するものが見出せないため、この「2人の間の間主観性の場の崩壊」が起こり、それが人間関係に悪影響を及ぼすことになる。

 ところで、お気づきの方もおられると思うけれど、上記のまずい例においてこの2つのカップルに共通して見られるのは、それぞれが、「2人で一緒に何かを作り上げていく」という、人間関係における基本的で且つ不可欠なことを忘れてしまったり、怠ったり、できなくなってしまっている、というだ。

 今のあなたの大切な人間関係において、何かが間違ったほうに動き始めていると感じていたら、その人間関係において、1)どれだけあなたが自分の主観性を相手に表現できているか、そして、2)どれだけあなたが相手の主観性を認識できているか、そこに興味を持てているか、について考えてみると、その人間関係の改善に繋がる良い発見があるかもしれない。

 ところで、よくある人間関係の問題で、2人の人間のうちのひとりが一方的に自己主張をし、相手が自分の言うことを聞くことを強いるようなときが考えられ、ここでは、2人の人間が交流しているにも関わらず、そこは一人の人間の主観だけになってしまっているのが問題だ。

 主張する側が相手の主観性を完全に無視していたり、もう一方が、自分の主観性を全く表現できなくなってしまっている状況で、2人はよいものを共有できないし、そこに間主観性は存在しない。

 これは極端な例だけれど、もっとよくあるのは、このパターンのバリエーションで、一方の主体性が70-80%、もう一方の主観性が20-30%などと、釣り合いが取れていないために、その間主観性に大きな歪が生じているという状況がある。

 ここでいえるのはやはり、時々立ち止まって、どのくらい2人の間に「良い場」があって、今あなたがどのくらい相手の気持ちや考えを理解していて、また相手がどのくらい自分の今の気持ちや考えを理解してくれているのか、考えて、そのバランスに問題があったら、まずはそのバランスの問題について相手と話し合いを始めるのが得策だ。

 なぜなら、この2人がその人間関係の問題について相手と語り始めることそのものが、2人が(再び)一緒に間主観性を築き始める第一歩となるからだ。これは専門的にはMeta-communication(メタコミュニケーション)と呼ばれるもので、二人が嵌ってしまっているコミュニケーションの問題そのものについて、コミュニケーションを取る、というテクニックだけれど、話が長くなるので、Meta-communicationについてはまた別の機会に紹介してみたいと思います。。。

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