(北海道新聞夕刊<魚眼図>2006年4月28日掲載)
朝鮮半島と九州の間に横たわる島、対馬。ここを経由して、船で韓国に行こうと思い立った。最速の船ならば博多港から対馬の厳原(いずはら)港まで二時間程度で着く。一方、対馬の比田勝(ひだかつ)港から韓国の釜山へは一時間半くらいのものだ。対馬北端から釜山まで約五十キロということだから、本当に近い。
厳原は歴史上、対馬藩主宗家の城下町として栄えた。宗家はかつて李氏朝鮮との外交・貿易関係をほぼ独占していた。つまり対馬は日朝関係の窓口の役割を果たしていたのだ。
厳原の町を歩いてみる。郵便局の横で「朝鮮通信使」の碑が目に入る。朝鮮通信使とは、室町から江戸の時期に日本へ派遣された使節団のことだ。対馬藩はその応接と随行の任を負った。通信使一行が立ち寄った日本各地で、文化交流も活発に行われた。
さらに進むとある人物を顕彰する碑が建っていた。それは雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(一六六八~一七五五年)という対馬藩で朝鮮外交を担当した儒者だ。この碑には「誠信之交隣」という言葉が刻まれている。芳洲は隣国朝鮮と「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」ことの大切さを説いたのだ。
盧泰愚元大統領は九○年の訪日スピーチで、芳洲とその誠信外交の理念に言及した。これが対馬の人々に芳洲を再発見させることになった。さらに朝鮮通信使再評価の気運も高まった。その表れが厳原の町に建っている碑なのだ。日本と朝鮮半島の「交流と共存の記憶」を掘り起こす作業。それは対馬にとって過去を振り返るだけではなく、「国境の島」としてのこれからの役割を自覚することにつながっている。歴史問題は日韓の間で埋まらない溝となってしまっている。そこに対馬の人々がどんな橋をかけていくのか。地方からのチャレンジを見守っていきたい。
(小田博志・北大助教授=文化人類学)
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