青森県津軽平野に、岩木山がすべてを包み込むように裾野を広げている。2年前の春、そのふもとの小さな温泉地を車で通りかかったとき、「森のイスキア」の看板が目に入った。車を降りて、温かみのある木造の建物の前に立った。玄関の扉は開かれている。事前の連絡をしていなかったので、僕はおそるおそる近づいて行った。その姿を見て、スタッフの方(ほう)から声をかけてくださった。「どうぞお入りになりませんか」。2階のロビーに案内され、「初女(はつめ)先生がつくった筍(たけのこ)ご飯です」とごちそうまでしてくださった。しっかりとした味だった。
しばらくすると佐藤初女さんがお戻りになり、幸いにも言葉を交わすことができた。透き通った深い湖のようなたたずまいの方だった。
初女さんは、この森のイスキアで、悩みを抱えた人たちを受けいれ、手づくりの料理をふるまった。そしてその人たちの胸の内に秘めた声に耳を傾けた。
ここは現代に開かれた歓待の場だった。誰をも迎えいれる。どんな声をも受けいれる。だから訪れる人は安心して身を寄せ、悩みを打ち明けることができた。この安心感の中で、自らのいのちを再び感じられるようになる。心の曇りが取れて、内なる宝に再び気づく。そんなよみがえりの物語がここでは起こっていた。
去年、初女さんはこの世から旅立たれた。ここで泊まることはかなわなくなった。
今月、僕は森のイスキアの前に再び立った。その扉はひっそりと閉じられている。しかし、佐藤初女さんが今にもあの透き通った笑顔で扉を開いて、迎えいれてくれる。そんな姿が見える思いがした。
(小田博志/北海道新聞夕刊〈魚眼図〉2017年7月25日掲載)
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