ハンス・パーシェはドイツとポーランドの若者を結びつけている。そしてその先に、アフリカのタンザニアとのつながりが見えてきた。
ゴットフリート・パーシェさんからの情報で、僕はハンス・パーシェの足跡をベルリンで辿るというセミナーに飛び入り参加させてもらった。メインの参加者は、ポーランドのクロイツとドイツのヴィッツェンハウゼンの高校生約20人だ。
5月1日のテーマはパーシェとアフリカだった。
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ニューヨーク州にあるパーシェさんの農園でこれを書いている。
ハンス・パーシェの孫にあたるゴットフリート・パーシェさんはトロントの大学教授だが、別荘としてこの農園をもっているのだそうだ。ニューヨークと言っても、高層ビルが立ち並ぶ都心以外に、こんなに自然に恵まれた地域まであることを来てみてはじめて知った。
ハンス・パーシェが亡くなった後も、その家族の物語は続いた。その一人と直接お会いしている . . . 本文を読む
快速エアポートという列車の中でのこと。
ちょうど1年前にこの列車で札幌から新千歳空港へと向かっていた。「市民がつくる和解と平和」というシンポジウムが終わって、そのゲストの一人だったシュタッファさんを空港までお送りしていたのだ。
シュタッファさんはドイツのNGO「行動・償いの印・平和奉仕(略称ASF)」の事務局長だ。シンポジウムではそのNGOの活動について報告してくれた。ナチ・ドイツが犯し . . . 本文を読む
(前の記事からの続き。いろいろと予定が入っていたせいで更新が遅くなってしまいました。)
1920年にパーシェは命を奪われた。裁判所は「不運な偶然が重なった」として、この件の審議を取りやめてしまい、犯人たちの責任は問われなかった。「黄金の20年代」ともいわれるヴァイマル時代は、平和主義者の殺害によって幕を開けた時代でもあった。
パーシェの葬儀は人里離れた農園で行なわれたにも関わらず、千人も . . . 本文を読む