--最後の仏の話--
■なぜ、ミョウが食うと馬鹿に成るのか?
お釈迦さまのお弟子さんに、チューダパンタカという方がいました。
漢訳仏典では周利槃特(しゅりはんとく)と呼ばれている方です。 この方はひじょうに物忘れがひどく、自分の正式の名前(たいへん長かったようです)すら覚えることができなかったと言います。
この時代、お釈迦さまの弟子たちは、お釈迦さまの教えを、ガ-タ-という詩のかたちにして暗記します。一日に五つも六つも詩を暗記できる者もいれば、一日に、ひとつしか暗記できない者もいるといった具合に、みなそれぞれ自分の分に応じて修行をしていたわけです。
お釈迦さまはチューダパンタカに「三業に悪をつくらず、諸々の有情をいためず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみはまぬがるべし」という詩を教えられました。
「悪いことを思ったり言ったりしないで、諸々の生命を損なわないで、どんなことにも執われなければ、つまらない苦しみなどどこかにいってしまうよ」という意味の詩でありますが、チューダパンタカにはなんとしても覚えられないのです。
兄のマカーパンタカは秀才の誉れが高く、お釈迦さまのお弟子となって進境いちじるしいものがありましたが、弟のチューダパンタカは、ただの一句すら覚えることができません。
何度も繰り返し教えてもらうのですが、最初に戻ると、もう後の句を忘れてしまう、後の句を覚えると、最初の句を忘れてしまう、といった調子で、いっこうに先に進みません。
そんな状態でしたから、お兄さんのマハ-パンタカはとうとう面倒を見切れなくなって、チュ-ダパンタカに、「もうおまえは還俗しろ。仏教教団にいても、おまえは悟りなど開けないだろう」と言って、教団から追い出そうとします。
しかし、チュ-ダパンタカは、どうしても教団を去り難く、ひとり祇園精舎の門の前でしょんぼりとたたずんでいました。
そこへお釈迦さまが来られて、「チューダパンタカよ、どうしたんだね」と尋ねられました。
そこで、チューダパンタカは、「兄に、おまえはもう、仏教教団にいても見込みがないから、田舎へ帰れと言われま した」 と答えると、お釈迦さまは、「チューダパンタカよ、わたしについておいで」 と、チューダパンタカを連れていき、これで「除垢・除垢」といって掃除をしなさいとほうきを与えました。
チューダパンタカはお釈迦さまに見守られ「塵を払い、垢(あか)を除かん」と念じつつ掃除を続け、ついに佛意を体得したといいます。
お釈迦さまに呈したチューダパンタカの悟りの言葉は「除とはこれ慧を謂い、垢とはこれ結をいう」。いわゆる彼は「自己をあざむかず人をあざむかず、ただまごころ、誠実一片で煩悩の塵を払った」とその瞬間、チューダパンタカは悟りが開けた -- と、このように言われています。
チューダパンタカが塵を払い、垢を除くことができたのは、純真でひたむきな智慧がそうさせたのであって、要領の良い知恵ある者にはとうてい真似のできないところでしょう
やがて、チューダパンタカは教団を率いる仏に成った。そして、涅槃に入ると、その墓から茗荷が生えてきました。
この逸話から、「茗荷を食べると馬鹿に成る」と言われる様になり、また、天台宗では摩陀羅神の神紋に抱き茗荷を使っている。