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仏教の流れーその2

2011年08月20日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆鎮護国家仏教の全盛期(奈良時代
仏教の発展に伴い、法令(僧尼令)が定められて、出家するには太政官が発行した度牒(出家得度の証明書)と、治部省・玄蕃寮の担当者、僧綱(そうごう)等の僧官が署名が必要であった。その為、民間には仏教があまり広まる事が無かった。

また、鎮護国家思想の下、僧侶は南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺)などの寺において仏教の教理が研究され、南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)という学派が形成された。

そして、寺の格式を、国家が管理した官寺(大寺・官大寺・国分寺・国分尼寺など)・皇室が建てた勅願寺・貴族や豪族が建てた私寺・私寺から官寺に成った定額寺(祈願寺)などがある。

710年
元明天皇によって藤原京から平城京に遷都した。。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。12年古事記(最古の歴史書)を、13年には風土記(地域文化・特産品・地形を記した書)を献上された。

715年
郷里制(地方行政の最小単位が?)が実施された。また、老いの為に娘の氷高皇女に皇位を譲り、独身の女帝の元正天皇が誕生した。

717年
藤原不比等らが中心となって養老律令(大宝律令の改訂)の編さんを始める。20年に日本書紀が完成すると、藤原不比等が死し、更に元明天皇が病気で床に伏すと、長屋王を右大臣に、藤原 武智麻呂を中納言に、藤原 房前を参議にして、21年に崩御した。

723年
田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。翌年の24年には、首皇子に譲位し、聖武天皇が即位すると、聖武天皇の生母である藤原 宮子の称号を巡って長屋王と藤原四兄弟が衝突する。

729年
藤原光明子を立后するが、長屋王に邪魔された為、藤原四兄弟に王妃の吉備内親王もろとも殺害し、光明子を皇后にして藤原四子政権を樹立したが、37年の天然痘の流行によって、四人とも死んだ為に、鈴鹿王を知太政官事に、橘諸兄を大納言に任じた。

740年
大宰府に左遷された藤原広嗣が、天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正の玄昉にあるとして上奏文を朝廷に送ると、太宰府で挙兵した。翌年の41年、聖武天皇が深く仏教に帰依して全国に国分寺・国分尼寺を創建する事を命じた。

743
知識寺で盧舎那仏像を拝し、金鐘寺を東大寺と改名した後、華厳経で示された盧舎那仏像を建立する詔を出し、東大寺を国分寺の総本山に、法華寺を国分尼寺の総本山にした。

745
聖武天皇は、藤原広嗣の乱の後、平城京→恭仁京(40年)→紫香楽京(43年)→難波京(44年)と移り、この年に平城京に戻った。この間に墾田永年私財法を制定して律令の一部が崩壊し、更に、安積親王が死亡した。

749年
聖武天皇の譲位により、阿倍内親王が孝謙天皇に即位する。光明皇太后の後見により、甥の藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。52年に東大寺大仏の開眼法要を行い、54年には鑑真から上皇及び僧尼が菩薩戒を授けた

756年
聖武天皇が崩御する際、道祖王を皇太子に立てたが、孝謙天皇はこれを破棄し、大炊王を皇太子にした後、橘奈良麻呂の乱が発覚すると、同時に逮捕された黄文王、大伴古麻呂らが獄死した。

758年
孝謙天皇は病気の光明皇太后を看病する為、大炊王に皇位を譲りて淳仁天皇が即位した59年唐招提寺を創建し、鑑真を大僧都に任じた。61年に都を改修する為、一時的に保良宮へ遷都した時、上皇に道鏡の関係を諫言した事で天皇と上皇が不仲に成った。

764年
上皇は、山村王に命じて淳仁から玉璽と駅鈴を取り上げると、藤原仲麻呂の乱が勃発し、吉備真備に討伐が命じられて、塩焼王と仲麻呂は殺され、淳仁天皇に廃位の詔が下され、淡路国へ流罪され、再び上皇が称徳天皇に即位した。

765年
天皇は飢饉や和気王の謀叛事件が起こり、弓削寺に参拝して道鏡を太政大臣禅師に任じ、新嘗祭に僧侶が出ると言う異例なものと成った。また、墾田私有令が廃止された。

766年
海龍王寺で仏舎利が見付かったとして道教を法王にし、天皇との二頭体制が始まった。戦の勝利祈願した四天王像・金光明経を奉納する西大寺・西隆寺を建立し、神宮境内に寺(神宮寺)を建立して神仏習合を進めた。一方、神道の神に階位を授ける神階制度が始まった。

769年
不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして流罪に成った。大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたが、和気清麻呂が嘘だと暴いた為に、道鏡によって清麻呂は大隅国に流罪された。

770年
称徳天皇が由義宮で崩御すると、藤原永手、吉備真備、藤原宿奈麻呂らによって白壁王が大極殿で光仁天皇に即位し、道鏡は下野薬師寺別院に左遷された。翌年、称徳天皇の妹で、伊勢神宮の斎王の井上内親王が皇太子妃から皇后と成った。

772年
皇后が光仁天皇を呪詛したとして廃后と成った。更に、皇太子の他戸親王も庶民に落とされると、73年には山部親王が皇太子になる。そして、75年には二人とも幽閉先で相次いで死去した。

776年
光仁天皇
は藤原 蔵下麻呂が無くなると、祟りを恐れて薬師如来を本尊とする勅願寺である秋篠寺を建立し始めた。開山を玄昉の子の善珠にしたが、天変地異は更に続き、干ばつ・台風・地震・イナゴの大発生・病気が流行した。

777年
天皇や皇太子が病気に掛り、更に藤原良継・藤原清成らが死去した為、井上内親王の怨霊であるとして内親王の遺骨を移して御墓として墓守を置いた。78年、皇太子回復の為、布帛を伊勢神宮・諸社に奉納し、畿内の各境界に疫神を祀らせ、大赦の勅を発した。

781年
光仁天皇は能登内親王に先立たれて衰えると、皇位を皇太子に譲ると、急に崩御してしまった。そして、皇太子が桓武天皇に即位した。82年には、天武天皇の曾孫の氷上川継の乱が勃発した。その後、弟の早良親王を皇太子にした。

783年
桓武天皇は藤原乙牟漏を皇后とし、安殿親王と神野親王をもうけた。84年には、藤原種継に長岡京造営を命じて85年に遷都した。すると、藤原種継が暗殺され、皇太子も加担したとして淡路国に配流して、安殿親王を皇太子とした。

793年
日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病などの災難が続き、この原因は早良親王の怨霊であると占われ、また、和気清麻呂の進言も有って、桓武天皇は平安京の詔を出し、94年には遷都した。

これより、平安時代が始まる。

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