■中世後期(1431年-1453年)
オスマン帝国が東ヨーロッパ諸国を次々と支配して行き、ビザンチン帝国は消滅して中世が終わりを告げた。また、百年戦争が終わり、イングランドとフランスの領土がはっきり別れた。
中央アジアではティムール朝が衰退していった。また、ジョチ・ウルスの分裂が始まる。
・アラゴンの王子たちの排除/カスティーリャ
1430年、アラゴン王アルフォンソ5世は、兄弟と共にカスティーリャ王フアン2世を圧迫すると、アラゴン議会により、カスティーリャから排除され、両国の関係は悪化した。
・エペイロス支配/オスマン帝国
1430年、オスマン帝国のムラト2世は、ヴェネツィア共和国のテッサロニキ、ヨアニナを占領、翌31年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。
・コンピエーニュ包囲戦/百年戦争
1430年、イングランド=ブルゴーニュ軍がフランス軍に投降したコンピエーニュの町を包囲すると、ジャンヌはコンピエーニュの救済を願い出たが、パリ包囲戦の失敗を理由に許されなかった。その後、ジャンヌは志願兵を集めて、城の北側のマルニーにあるブルゴーニュ軍の駐屯地に奇襲をかけようとしたが、リニー伯ジャン2世よって呼び寄せられたブルゴーニュ派の援軍の反撃に遭い、ジャンヌは捕まり、それ以外のフランス軍は城内に退去した。その後、ジャン2世は身代金と引き換えにジャンヌをイングランド軍に渡した。10月26日、ジャン2世はコンピエーニュ周辺での戦闘で重傷を負って居城に引き上げたが、その2日後にイングランド=ブルゴーニュ軍勢はフランス軍に大敗し、コンピエーニュから撤退した。翌31年5月、ジャンヌはルーアンで火刑に処された。一方、善良公はフランスと改めて休戦する。12月、ヘンリー6世はパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠したが、イングランド軍が劣勢に成ると、イングランドに帰国する。
・シュヴィトリガイラの戴冠/ポーランドから宣戦布告
1430年、リトアニア大公ヴィータウタスが没すると、ポーランド国王ヴワディスワフ2世の弟・シュヴィトリガイラが、直ちに公位に要求した。しかし、リトアニア人やカトリック教徒はジーギマンタス・ケーストゥタイティスを対立候補者として推し進めた。最終的にはシュヴィトリガイラが勝ち、ヴィリニュスで戴冠した。
その後、リトアニア大公シュヴィトリガイラはポーランドからの完全独立と、正教徒への特権を与えると、ポーランドから宣戦布告を受けた。
・教皇派VS公会議主義者/バーゼル公会議
1431年7月、教皇エウゲニウス4世によってバーゼル公会議が開かれたが、ほとんど参加者が集まらなかった為、教皇は冬に公会議の解散を命じた。しかし、参加者たちはコンスタンツ公会議の精神を再確認して命令を拒否。逆に教皇を公会議に召喚するに至って、教皇対公会議主義者の争いという様相を呈し始めたが、ローマ王ジギスムントの調停で辛うじて決裂は回避された。2年後、教皇は解散命令を撤回し、公会議を正統なものとして存続を認めた。
・ルツク戦争/リトアニアの内戦の始まり
1431年、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)がポジーリャに侵攻すると、弟シュヴィトリガイラに捕まり、ポジーリャをリトアニアに返す事を約束させられた後、解放された。
2月、ズビグニェフ・オレシニッキが率いるポーランド貴族たちはヴワディスワフ2世の誓約を無効にした上、逆にシュヴィトリガイラがヴワディスワフ2世に対して忠誠を認める事を要求すると、シュヴィトリガイラはこれを拒み、反ポーランド勢力を築く為、ドイツ騎士団やアレクサンダル善良侯率いるモルダヴィア勢と同盟を結んだ。
6月、ポーランド軍はヴォルィーニに侵攻し、ヴォルィーニの一部、ホロドウォ、ヴォロディーミル=ヴォリンスキー、ザラスを征服すると、ルツク付近でシュヴィトリガイラ軍と激突し、シュヴィトリガイラ軍を打ち破ったが、リウバルト城奪還は失敗した。8月、シュヴィトリガイラはポーランドと、和平を結び、ルツク戦争は終結した。
シャイド・アフメド1世がリトアニア大公国東部のシュヴィトリガイラから要請を受け、リトアニア内戦の反ポーランド軍をドイツ騎士団と共に支援した。これより、ジョチ裔の様々な家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立したため、ジョチ・ウルスの分裂が始まる。
・ポーランド・ドイツ戦争(1431-1435年)
1431年6月、ドイツ騎士団はポーランドへ宣戦布告し、クヤヴィ及びクライナへ進軍し、
9月のドブキの戦いでポーランド軍に敗北した。その後、ポーランド、リトアニア、ドイツ騎士団の間で2年間の休戦が調印された。
・ジーギマンタスの反乱/リトアニアの内戦
1432年8月、セミョーン、ペトラス、ヨナスらが、アシュミニーで野営をしていたリトアニア大公シュヴィトリガイラを襲い、ジーギマンタス・ケーストゥタイティスを新たなリトアニア大公に据えた。その後、ジーギマンタスはヤガイラスのグロドノ合同条約に調印し、ヴォルィーニ、ポドレをポーランドへ譲渡した。その後、ルーシ貴族はシュヴィトリガイラをルーシ大公に擁立した為、リトアニアはリトアニア大公国とルーシ大公国(ベラルーシ)に分裂した。
12月、アシュマニの戦いでポーランド=リトアニア軍を主力とするジーギマンタス軍は、シュヴィトリガイラ軍を撃破した。
・ナポリ継承戦争(1435-1442年)
1432年、再び、アラゴン王アルフォンソ5世はナポリ王位継承権を要求したが、教皇エウゲニウス4世を始め、ミラノ公、ジェノヴァ、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国といったイタリア諸国に反対され挫折したが、34年にナポリ女王ジョヴァンナ2世が後継者に決めたフランスのアンジュー公ルイ3世が死去し、更に翌35年にナポリ女王が死去すると、ナポリ王ルネ・ダンジューと、アルフォンソ5世との間でナポリ継承戦争が勃発。1442年、アルフォンソ5世が勝利を収め、ナポリ王に即位した。
・シャルトルの奪還/イングランドの敗色
1432年、イングランド軍の敗色が色濃く成り始めた。まず、フランス軍にフランスの中部都市シャルトルを奪還された為、イングランド軍はラニ攻囲を断念。また、ベッドフォード公の妻・アンヌが死去した事で、ブルゴーニュ派との結び付きが弱く成り始めた。
・ジギスムントのボヘミア王即位/農民反乱
1432年、ジギスムントがボヘミア王位を獲得したことで、ハンガリーへもフス戦争が波及し、ボヘミア国境地帯で農民反乱が起きたのを皮切りに、ナジントルバ、トランシルヴァニアで次々と農民主導の反乱が起きた。これに対してローマ教皇はフランシスコ修道会士マルキアのヤコブスを異端審問官として派遣し、フス派を徹底的に弾圧した。翌33年、ジギスムントはローマ皇帝として戴冠した。
・シュヴィトリガイラのリトアニア襲撃
1433年、リヴォニア騎士団と同盟したシュヴィトリガイラ軍はリトアニアの地を徹敵的に荒らし回り、ジーギマンタスが有する東方領土の都市を占領した。
・ノルマンディーの蜂起/アラスの和約
1433年、リッシュモンがフランス宮廷に復帰し、逆にラ・トレモイユは追放されると、フランス政府は、再びブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)に和平交渉を持ちかけた。
翌34年、ノルマンディーのベサン地方がベッドフォード公の課した重税に耐え切れずに蜂起を起こすと、それがノルマンディー全体に広まって行った。12月、ヌヴェールで、イングランド・ブルゴーニュ派・アルマニャック派の三者で平和交渉が行われた。
1435年、ベッドフォード公ジョンが死去すると、イングランドは離脱し、9月21日にアラスの和約がブルゴーニュ派とアルマニャック派の間で締結され、翌36年4月、デュノワ伯のフランス軍によってパリはイングランド軍から開放された。
・ヴワディスワフ2世の死去/ポーランド
1434年、ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)が死去した為、ポーランドの大貴族によってカジミェシュ4世の兄・ヴワディスワフ3世がポーランド王に即位したが、一方で一部の貴族たちから根強い反発もあり、事実上の摂政であるオレシニツキ枢機卿が実権を握っていた。
・リパニの戦い/ フス戦争の終焉
1434年、ボヘミアが荒廃すると、フス派の間では内部抗争が起こり、リパニの戦いで大プロコップと小プロコップが率いたターボル派が穏健派によって大敗し、ターボル派の兵士の7割が戦死した。その後、ターボル派の残党はヤン・イスクラをリーダーに据えると、北部ハンガリー(スロヴァキア)に落ち延びた。
・パバイスカスの戦い/リトアニアの内乱
1435年、ジーギマンタスがカトリックのリトアニア貴族と正教徒のルーシ貴族を同等に扱うという特権を公布し、シュヴィトリガイラ側にいる幾つかのルーシ貴族を自営に寝返らせた事から、シュヴィトリガイラはジーギマンタスに戦いを挑んだが、パバイスカスの戦いで、敗北すると、シュヴィトリガイラはクラクフへ逃げ、ワラキアに亡命した。その後、ジーギマンタスは、リトアニア=ルーシ大公に納まり、12月にはリヴォニア連盟結成に関する合意条約を締結した。更に、ポーランドも、ドイツ騎士団との間でブレスト=クヤフスキイ条約 を結んだ。
・ローマ皇帝アルブレヒト2世の死去/相続争い
1436年、皇帝ジギスムントは、ボヘミア貴族によって正式にボヘミア王位を認められたものの、翌37年にはチェコのズノイモで病死した。この為、一人娘エリーザベトの婿のオーストリア公アルブレヒト5世が後継者に指名され、ローマ皇帝アルブレヒト2世に即位した。
・オスマン帝国のスメデレヴォ包囲戦
1437年、オスマン軍はセルビアの首都スメデレヴォを包囲すると、ハンガリー王=神聖ローマ皇帝ジギスムントは、フニャディをカルパチア山脈、ドラーヴァ川、サヴァ川、ドナウ川が含まれるハンガリー南部に派遣した。その後、ジギスムントが死去し、娘婿のアルブレヒト2世が後継者に成ると、フニャディをセヴェリン侯し、共にオスマン帝国軍と戦い続けた。
・フィレンツェ公会議/公会議の分裂
1437年、ビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世は、オスマン帝国の脅威に対抗するため、教皇に十字軍遠征を呼びかけてもらうためにヨーロッパを訪問、東方教会との合同会議の機運が起こり、翌38年、エウゲニウス4世はイタリアのフェラーラへ公会議を移すと、反対派の公会議主義者らはバーゼルに留まった。一方、ビザンツ帝国内で、聖職者や国民らから大きな反発の声が上がり、東西教会の合同は現実しなかった。翌39年、公会議主義者等によって対立教皇フェリクス5世が誕生した。
・カザン・ハン国の建国/ルーシ遠征
1438年、ジョチ・ウルスのハン位を巡る抗争に敗れたウルグ・ムハンマドは、ジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルガール王国の故地に退き、カザンを首都として、カザン・ハン国を建国し、翌39年からルーシ遠征を決行した。
・神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世の死/相続争い
1439年、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世がオスマン帝国との戦争中に赤痢に罹り、ハンガリーのネスメーイで急死すると、ローマ皇位・ハンガリー王位・ボヘミア王位を巡って後継者問題が起こった。翌40年、アルブレヒト2世の息子ラディスラウス・ポストゥムスがオーストリア公とハンガリー王に就いた。
・プラグリーの反乱
1439年、フランス王シャルル7世は三部会で貴族の徴兵・徴税を禁止、国王が新たに徴兵・徴税することと、部隊の指揮を執る隊長は国王が指名することを勅令で布告した。9月、善良公はルクセンブルクを手に入れ、ブルゴーニュ公国の最盛期を迎えた。翌40年には、プラグリーの乱が起こり、(ブルボン公シャルル1世・アランソン公ジャン2世・デュノワやラ・トレモイユ)の貴族たちが王太子ルイを擁立し、各都市を略奪して行ったが、優秀なブルターニュ兵と砲兵を持つリッシュモン大元帥に鎮圧された。しかし、42年には、イングランドの捕虜に成っていたオルレアン公シャルルが、反乱勢力に担がれヌヴェールで謀議が行われたが、すぐに国王側に発覚して未遂に終わった。その後、政治から遠ざけられた。
・ジーギマンタスの暗殺
1440年、リトアニア大公ジーギマンタスはリトアニア貴族達の陰謀によって殺害されたことでリトアニア=ルーシ国家に帰還したシュヴィトリガイラは再び大公位を請求したが、リトアニア貴族たちは、ポーランド王ヴワディスワフ2世の次男のカジミェラス・ヨガイラタイティスをヴィリニュス城に迎え入れ、リトアニア大公に即位させた。これにより、ポーランドは猛反発し、リトアニアに軍事的圧力を掛けた。やがて、リトアニア貴族も、ポーランド貴族も、平等に扱われるように成った。
・プロシア連合の結成
1440年、ハンザ同盟の都市の指導の下、ドイツ騎士団に対抗することを目的としてプロシア地方の19の都市と貴族や僧侶53人が合同して自治領連合「プロシア連合」を結成した。
・ヴワディスワフ3世のハンガリー王即位/ハンガリーの内乱
1440年2月、ハンガリーの貴族身分はアルブレヒト2世の後継者としてポーランド王ヴワディスワフ3世を擁立した為、アルブレヒト2世の妻・エリーザベトが産んだラディスラウス・ポストゥムスと、ハンガリー王位を巡って争う。一方、選帝侯らは内オーストリア公フリードリヒ3世をローマ王に選出した。なぜなら、フス戦争で混乱に陥ったボヘミアをオスマン帝国から防衛する任を御しやすいオーストリア大公に託すという理由からであった。
42年、エリーザベトが死去したことで、ハンガリーの内乱は治まり、ポーランド王ヴワディスワフ3世のハンガリー王が決まった。翌43年、ヴワディスワフ3世は教皇エウゲニウス4世からの多大な援助を受け、トルコ人に対する十字軍を組織するようになる。
・クリミア・ハン国の建国
1441年、ジョチ・ウルスのハン位をめぐる激しい内乱の後、バシ・テムルの子・ハージー1世ギレイは、リトアニア大公国の支持を受けて、クリミア・ハン国を建国した。
・オスマン帝国VSフニャディ・ヤーノシュ
1441年1月、フニャディはセルビアのスメデレヴォでオスマン軍を撤退させた。翌42年、メジト・ベイの率いるオスマン軍がトランシルヴァニアに侵入すると、シビウ包囲戦で、フニャディはオスマン軍を敗走させた。これを機に、フニャディは、ハンガリー・兼ポーランド王ヴワディスワフ3世に「大遠征」を提唱し、更にアナトリア半島のカラマン侯国と同盟を結んだ。
・ヴァルナ十字軍/セゲド条約
1443年1月、教皇エウゲニウス4世はヴァルナ十字軍を結成すると、オスマン皇帝ムラト2世に宣戦布告し、ハンガリー王ヴワディスワフ3世とフニャディを中心とした十字軍は、ドナウ川を渡りニシュとソフィアへ進軍した。
ニシュの戦いで、十字軍のフニャディ部隊はカシム・パシャが率いるオスマン軍を破り、ニシュを奪還する。その後、カシム・パシャはブルガリアの首都ソフィアに居るムラト2世に合流し、オスマン軍は首都ソフィアから退却すると、代わりに十字軍のフニャディ部隊がソフィアに入城した。12月、十字軍はソフィアに集合すると、アドリアノープルに向って進軍し、ズラティツァ峠でオスマン軍と交戦し敗北した。
・スカンデルベグの反乱
1443年、オスマン帝国の支配下でアルバニアの軍司令官・スカンデルベクがオスマン帝国に反旗を翻し、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国やローマ教皇の支援を取り付け、アルバニアの北半を統一し、オスマン帝国軍を跳ね返した。
・ヴァルナの戦い/ヴァルナ十字軍
1444年1月、クノヴィツァの戦いでオスマンの追撃軍を破った。ここでムラト2世の義理の息子で大宰相チャンダルル・ハリル・パシャの弟マフムード・ベイが捕虜となった。その後、十字軍はハンガリーの首都ブダに帰還した。8月に、両国の間で和平交渉がまとまると、枢機卿ジュリアーノは和平条約を無視し、再び十字軍遠征の準備を進めた。その頃、ムラト2世はスルタンの地位を息子のメフメト2世に譲った。11月、ヴァルナの戦いが始まると、ムラト2世は復位して、十字軍を打ち破った。この戦いで、ヴワディスワフ3世はイェニチェリ親衛隊に殺された為、ローマ王アルブレヒト2世の息子・ラディスラウスがハンガリー王に即位した。
・トゥール条約
1444年、残るイングランド領は北のノルマンディーと南西のギュイエンヌだけと成った為、イングランドはフランスにサフォーク伯ウィリアムを送り、トゥール条約のもと、イングランドとフランスは和睦を結んだ。
その内容は、メーヌ・アンジューをフランスへ渡す代わりに、王妃マリー・ダンジューの姪マルグリット・ダンジューをヘンリー6世の王妃にすることだった。
翌45年、サフォーク伯は、ボーフォート枢機卿の甥・サマセット公エドムンドをノルマンディー総督に任命すると、ヨーク公リチャードを解任した。
・イェニチェリの反乱/オスマン帝国
1445年、エディルネでイェニチェリの反乱が勃発すると、大宰相ハリル・パシャがムラトに復位を要請した。翌46年にメフメトは帝位を返上し、領地のマニサに戻った。この為、メフメトはハリル・パシャに恨みを抱いた。その後、ヴェネツィア共和国の船舶を襲撃し、ネグロポンテなどのヴェネツィアの支配下にあるエーゲ海の都市や島を襲撃した。
・スーズダリの戦い/モスクワ大公国の敗北
1444年、カザン・ハンのウルグ・ムハンマドはニジニ・ノヴゴロドを自国へと併合する為、モスクワ大公国のスーズダリ公国及びリニジニ・ノヴゴロド公国と、緊密な関係を築き、冬にはニジニ・ノヴゴロドを占領し、更にムーロム公国を占領した。
翌45年1月、モスクワ大公ヴァシーリー2世盲目公が軍を率いてウラジーミルに向うと、ウルグ・ムハンマドはニジニ・ノヴゴロドに引き返した。やがて、ニジニ・ノヴゴロドもモスクワ大公に奪還された。7月、ウルグ・ムハンマドは自身の息子であるマフムードとヤクブ率いる軍勢をルーシに派遣し、スーズダリの戦いに臨み、モスクワ軍を破ってモスクワ大公ヴァシーリー2世を捕虜にし、スーズダリを陥落した。その後、莫大な身代金をもってヴァシーリー2世を開放した。
・ウルグ・ムハンマドの暗殺/カザン・ハン国
1445年、マフムーデクは、父ウルグ・ムハンマドを暗殺して、カザン・ハン国の第2代君主になると、弟のユスフをモスクワへと追いやった。また、大オルダ(ジョチウルス裔の国家)から独立した。
・ティムール朝の内紛
1447年、ティムール朝の第3代君主・シャー・ルフはイラン高原で反乱を起こした孫を討伐するため、ヘラートを出発し、途中のシャフレ・レイで病死した。その後、ウルグ・ベクが第4代の君主に成ったが、各地で王族たちの反乱が発生した。
・サフォーク公の台頭/イングラン
1447年2月、ヘンリー6世はトゥール条約が公になると、サフォーク伯に対する民衆の怒りが激しく成り暴動が起きると、グロスター公ハンフリーとヨーク公に、その罪をなすりつけ、グロスター公を投獄して殺した。また、ヨーク公をアイルランド総督へ転出された。更に、4月にはボーフォート枢機卿は病死した為、残ったサフォーク伯がヘンリー6世政権を牛耳る様になる。
・第二次コソヴォの戦い/オスマン帝国のバルカン制覇
1448年、ムラト2世率いるオスマン軍は、第二次コソヴォの戦いで、フニャディ・ヤーノシュ率いるハンガリー、ワラキア、モルダヴィア混成軍を打ち破った。バルカン半島のキリスト教国家を破った。その後、ビザンティン帝国を次第に圧迫して行く中、皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが死去した。翌49年1月、コンスタンティノス11世がモレアス専制公領の首都ミストラスで即位し、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスへ赴き、ムラト2世と平和条約を結んだ。
・黒羊朝の台頭/ティムール朝混乱期
1449年、ウルグ・ベクの長男アブドゥッラティーフがバルフで反乱を起こし、父との戦いに勝利した。やがて、ペルシア人奴隷を遣わして父を殺害したが、アブドゥッラティーフも、ウルグ・ベクの忠僕によって暗殺された。翌50年、アブドゥッラーがティムール朝の第6代君主に即位する。ティムール朝が混乱しているすきに、黒羊朝が勢力を拡大し、イランの西部から東部まで進出してホラーサーンの主邑ヘラートまで占領した。
・ノルマンディー攻防戦/サフォーク公の暗殺
1449年3月、イングランドのサマセット公はブルターニュ公フランソワ1世が弟ジルを監禁した事を口実に、ノルマンディーに近接するフージェールを奪うと、フランス軍はノルマンディー遠征に乗り出してフージェールを奪還。その後も、ノルマンディーの首府・ルーアンへ進軍し、サマセット公のイングランド軍を破った。そのため、フランスのイングランド領は、コタンタン半島北端のシェルブール及びノルマンディー北部のカーン周辺だけに成ってしまった。
翌50年、ヘンリー6世はやむなく、サフォーク公を追放したが、彼を乗せた船は英仏海峡で待ち伏せされ、5月に暗殺された。
・フォルミニーの戦い/百年戦争
1450年、ノルマンディー地方の喪失はイングランド王家にとって耐え難い屈辱で有った為、3月、ヘンリー6世はトーマス・キリエルが率いるイングランド軍を港湾都市シェルブールに上陸させ、ヴァローヌを突破し、カーンへ進軍した。途中で、クレルモン伯が支援した反英住民組織軍を破り、カーンとサン=ローとの中間地点・フォルミニーで駐留した。4月14日、フォルミニーの戦いが、クレルモン伯が率いるフランス軍とイングランド軍で始まった。翌日、リッシュモン軍がフランス軍に合流すると、イングランド軍は北のバイユー方面へ敗走したが、ノルマンディーの農民達によって虐殺され、司令官キリエルは捕虜に成った。
8月、フランソワ1世とリッシュモン大元帥はノルマンディー地方から、イングランド軍を一掃することに成功した。
・アキテーヌ遠征
1450年9月、フランス軍はギュイエンヌ遠征に乗り出し、都市ベルジュラックを奪った。翌51年、デュノワ伯ジャンのフランス軍はアキテーヌの都府ボルドーや、バイヨンヌを占領すると、ボルドー市民たちはイングランド国王ヘンリー6世に救済を求めた。
・アブー・サイードの乱
1450年、サマルカンドに投獄されたアブー・サイードはサマルカンド有力者によって救出され、反乱を企てると、ウズベクのアブル=ハイル・ハンの援助を得てマー・ワラー・アンナフルを征服し、翌51年には、サマルカンドを占領して、アブドゥッラーを処刑して、ティムール朝の第7代君主に成った。
・メフメトの二度目の即位/ルメリ・ヒサルの建設
1451年、父・ムラト2世が死去すると、メフメトはマニサからエディルネに直行し、スルタンに即位した。その後、弟アフメトを風呂場で絞殺させ、ハリル・パシャや宰相イスハク・パシャと対立し、ハリル・パシャを左遷させた。
その後、オスマン皇帝メフメトはヨーロッパの国々は停戦を求め始めた。その様子を見ていたアナトリア半島のカラマン侯国は和約を破棄し、オスマン領に侵入すると、ビザンツはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した。この為、メフメトはカラマン遠征を決行した後、ボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを建設することを命令した。
オスマン帝国のバルカン半島征服の始まり
・ヴラディスラフ2世のワキア公位回復
1451年、ヴラディスラフ2世は、再びヴラド3世からワラキア公位を奪還し、ヴラド3世をモルダヴィア公国に追いやった。更に、モルダヴィア公のボグダン2世が暗殺されると、ヴラド3世は従弟のシュテファンと共にトランシルヴァニアに逃れ、トランシルヴァニア侯フニャディに身を寄せた。
・ダートフォードでの実力行使/イングランドの内戦
1452年、ヨーク公はヘンリー6世に気に入られているサマセット公が王位継承にならぬ様、挙兵してラドローからロンドンに進軍した。しかし、ヘンリー6世の命令で都市の城門にかんぬきがかけられて封鎖されている事を知った。その後、ヨーク公はロンドンに連れて行かれ、そこで2週間の事実上の軟禁の後に、セント・ポール大聖堂で忠誠宣誓を誓うことを強いられ、ダートフォードの戦いに関係したヨーク公の配下を罰するために巡回裁判に乗り出した。
・カスティヨンの戦い/百年戦争の終焉
1452年10月、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットが率いるイングランド軍がボルドーに上陸し、フランス守備隊を追い出すと、ガスコーニュ地方の各地でも、イングランド軍を受け入れられるように成った。やがて、イングランド艦隊がノルマンディーとブルターニュに迫り、フランスのリッシュモン大元帥及びブルターニュ公ピエール2世軍と戦いを始めた。翌53年春、フランス国王シャルル7世は、アンドレ・ド・ラヴァルにボルドー遠征を命じると、アンドレが率いるフランス軍はカスティヨンを包囲し、7月にはシュルーズベリーのイングラン軍と激突した(カスティヨンの戦い)。その後、ブルターニュ公ピエール2世の援軍により、イングラン軍を大敗させた。10月、フランス軍はボルドーを陥落させると、シャルル7世はアキテーヌを始めフランス全土を平定した。その後、イングランド王ヘンリー6世は精神錯乱状態に陥った。
・カシモフ・ハン国
1452年、ウルグ・ムハンマドの子カースィムが、兄マフムードとの政争に敗れてモスクワに亡命すると、カースィムはヴァシーリー2世からメシチョーラの地を与えられ、モスクワの庇護の下、カシモフ・ハン国を建国する
・ビザンツ帝国の滅亡/中世の終わり
1453年、オスマン帝国の第7代スルタン・メフメト2世は、ハリル・パシャらの反対を押し切って、コンスタンティノープルを包囲すると、主戦派と反戦派に分裂したが、5月、メフメト2世はコンスタンティノープルの砲撃を開始し、陥落させて、ビザンツ帝国を滅ぼした。その後、メフメト2世は利敵行為を働いた罪でハリル・パシャを処刑した。
翌54年、メフメト2世はセルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否された。そのため、セルビア遠征に乗り出した。
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1430年、オスマン帝国のムラト2世は、ヴェネツィア共和国のテッサロニキ、ヨアニナを占領、翌31年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。
・コンピエーニュ包囲戦/百年戦争
1430年、イングランド=ブルゴーニュ軍がフランス軍に投降したコンピエーニュの町を包囲すると、ジャンヌはコンピエーニュの救済を願い出たが、パリ包囲戦の失敗を理由に許されなかった。その後、ジャンヌは志願兵を集めて、城の北側のマルニーにあるブルゴーニュ軍の駐屯地に奇襲をかけようとしたが、リニー伯ジャン2世よって呼び寄せられたブルゴーニュ派の援軍の反撃に遭い、ジャンヌは捕まり、それ以外のフランス軍は城内に退去した。その後、ジャン2世は身代金と引き換えにジャンヌをイングランド軍に渡した。10月26日、ジャン2世はコンピエーニュ周辺での戦闘で重傷を負って居城に引き上げたが、その2日後にイングランド=ブルゴーニュ軍勢はフランス軍に大敗し、コンピエーニュから撤退した。翌31年5月、ジャンヌはルーアンで火刑に処された。一方、善良公はフランスと改めて休戦する。12月、ヘンリー6世はパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠したが、イングランド軍が劣勢に成ると、イングランドに帰国する。
・シュヴィトリガイラの戴冠/ポーランドから宣戦布告
1430年、リトアニア大公ヴィータウタスが没すると、ポーランド国王ヴワディスワフ2世の弟・シュヴィトリガイラが、直ちに公位に要求した。しかし、リトアニア人やカトリック教徒はジーギマンタス・ケーストゥタイティスを対立候補者として推し進めた。最終的にはシュヴィトリガイラが勝ち、ヴィリニュスで戴冠した。
その後、リトアニア大公シュヴィトリガイラはポーランドからの完全独立と、正教徒への特権を与えると、ポーランドから宣戦布告を受けた。
・教皇派VS公会議主義者/バーゼル公会議
1431年7月、教皇エウゲニウス4世によってバーゼル公会議が開かれたが、ほとんど参加者が集まらなかった為、教皇は冬に公会議の解散を命じた。しかし、参加者たちはコンスタンツ公会議の精神を再確認して命令を拒否。逆に教皇を公会議に召喚するに至って、教皇対公会議主義者の争いという様相を呈し始めたが、ローマ王ジギスムントの調停で辛うじて決裂は回避された。2年後、教皇は解散命令を撤回し、公会議を正統なものとして存続を認めた。
・ルツク戦争/リトアニアの内戦の始まり
1431年、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)がポジーリャに侵攻すると、弟シュヴィトリガイラに捕まり、ポジーリャをリトアニアに返す事を約束させられた後、解放された。
2月、ズビグニェフ・オレシニッキが率いるポーランド貴族たちはヴワディスワフ2世の誓約を無効にした上、逆にシュヴィトリガイラがヴワディスワフ2世に対して忠誠を認める事を要求すると、シュヴィトリガイラはこれを拒み、反ポーランド勢力を築く為、ドイツ騎士団やアレクサンダル善良侯率いるモルダヴィア勢と同盟を結んだ。
6月、ポーランド軍はヴォルィーニに侵攻し、ヴォルィーニの一部、ホロドウォ、ヴォロディーミル=ヴォリンスキー、ザラスを征服すると、ルツク付近でシュヴィトリガイラ軍と激突し、シュヴィトリガイラ軍を打ち破ったが、リウバルト城奪還は失敗した。8月、シュヴィトリガイラはポーランドと、和平を結び、ルツク戦争は終結した。
=ジョチ・ウルスの分裂=
シャイド・アフメド1世がリトアニア大公国東部のシュヴィトリガイラから要請を受け、リトアニア内戦の反ポーランド軍をドイツ騎士団と共に支援した。これより、ジョチ裔の様々な家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立したため、ジョチ・ウルスの分裂が始まる。
・ポーランド・ドイツ戦争(1431-1435年)
1431年6月、ドイツ騎士団はポーランドへ宣戦布告し、クヤヴィ及びクライナへ進軍し、
9月のドブキの戦いでポーランド軍に敗北した。その後、ポーランド、リトアニア、ドイツ騎士団の間で2年間の休戦が調印された。
・ジーギマンタスの反乱/リトアニアの内戦
1432年8月、セミョーン、ペトラス、ヨナスらが、アシュミニーで野営をしていたリトアニア大公シュヴィトリガイラを襲い、ジーギマンタス・ケーストゥタイティスを新たなリトアニア大公に据えた。その後、ジーギマンタスはヤガイラスのグロドノ合同条約に調印し、ヴォルィーニ、ポドレをポーランドへ譲渡した。その後、ルーシ貴族はシュヴィトリガイラをルーシ大公に擁立した為、リトアニアはリトアニア大公国とルーシ大公国(ベラルーシ)に分裂した。
12月、アシュマニの戦いでポーランド=リトアニア軍を主力とするジーギマンタス軍は、シュヴィトリガイラ軍を撃破した。
・ナポリ継承戦争(1435-1442年)
1432年、再び、アラゴン王アルフォンソ5世はナポリ王位継承権を要求したが、教皇エウゲニウス4世を始め、ミラノ公、ジェノヴァ、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国といったイタリア諸国に反対され挫折したが、34年にナポリ女王ジョヴァンナ2世が後継者に決めたフランスのアンジュー公ルイ3世が死去し、更に翌35年にナポリ女王が死去すると、ナポリ王ルネ・ダンジューと、アルフォンソ5世との間でナポリ継承戦争が勃発。1442年、アルフォンソ5世が勝利を収め、ナポリ王に即位した。
・シャルトルの奪還/イングランドの敗色
1432年、イングランド軍の敗色が色濃く成り始めた。まず、フランス軍にフランスの中部都市シャルトルを奪還された為、イングランド軍はラニ攻囲を断念。また、ベッドフォード公の妻・アンヌが死去した事で、ブルゴーニュ派との結び付きが弱く成り始めた。
・ジギスムントのボヘミア王即位/農民反乱
1432年、ジギスムントがボヘミア王位を獲得したことで、ハンガリーへもフス戦争が波及し、ボヘミア国境地帯で農民反乱が起きたのを皮切りに、ナジントルバ、トランシルヴァニアで次々と農民主導の反乱が起きた。これに対してローマ教皇はフランシスコ修道会士マルキアのヤコブスを異端審問官として派遣し、フス派を徹底的に弾圧した。翌33年、ジギスムントはローマ皇帝として戴冠した。
・シュヴィトリガイラのリトアニア襲撃
1433年、リヴォニア騎士団と同盟したシュヴィトリガイラ軍はリトアニアの地を徹敵的に荒らし回り、ジーギマンタスが有する東方領土の都市を占領した。
・ノルマンディーの蜂起/アラスの和約
1433年、リッシュモンがフランス宮廷に復帰し、逆にラ・トレモイユは追放されると、フランス政府は、再びブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)に和平交渉を持ちかけた。
翌34年、ノルマンディーのベサン地方がベッドフォード公の課した重税に耐え切れずに蜂起を起こすと、それがノルマンディー全体に広まって行った。12月、ヌヴェールで、イングランド・ブルゴーニュ派・アルマニャック派の三者で平和交渉が行われた。
1435年、ベッドフォード公ジョンが死去すると、イングランドは離脱し、9月21日にアラスの和約がブルゴーニュ派とアルマニャック派の間で締結され、翌36年4月、デュノワ伯のフランス軍によってパリはイングランド軍から開放された。
・ヴワディスワフ2世の死去/ポーランド
1434年、ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)が死去した為、ポーランドの大貴族によってカジミェシュ4世の兄・ヴワディスワフ3世がポーランド王に即位したが、一方で一部の貴族たちから根強い反発もあり、事実上の摂政であるオレシニツキ枢機卿が実権を握っていた。
・リパニの戦い/ フス戦争の終焉
1434年、ボヘミアが荒廃すると、フス派の間では内部抗争が起こり、リパニの戦いで大プロコップと小プロコップが率いたターボル派が穏健派によって大敗し、ターボル派の兵士の7割が戦死した。その後、ターボル派の残党はヤン・イスクラをリーダーに据えると、北部ハンガリー(スロヴァキア)に落ち延びた。
・パバイスカスの戦い/リトアニアの内乱
1435年、ジーギマンタスがカトリックのリトアニア貴族と正教徒のルーシ貴族を同等に扱うという特権を公布し、シュヴィトリガイラ側にいる幾つかのルーシ貴族を自営に寝返らせた事から、シュヴィトリガイラはジーギマンタスに戦いを挑んだが、パバイスカスの戦いで、敗北すると、シュヴィトリガイラはクラクフへ逃げ、ワラキアに亡命した。その後、ジーギマンタスは、リトアニア=ルーシ大公に納まり、12月にはリヴォニア連盟結成に関する合意条約を締結した。更に、ポーランドも、ドイツ騎士団との間でブレスト=クヤフスキイ条約 を結んだ。
・ローマ皇帝アルブレヒト2世の死去/相続争い
1436年、皇帝ジギスムントは、ボヘミア貴族によって正式にボヘミア王位を認められたものの、翌37年にはチェコのズノイモで病死した。この為、一人娘エリーザベトの婿のオーストリア公アルブレヒト5世が後継者に指名され、ローマ皇帝アルブレヒト2世に即位した。
・オスマン帝国のスメデレヴォ包囲戦
1437年、オスマン軍はセルビアの首都スメデレヴォを包囲すると、ハンガリー王=神聖ローマ皇帝ジギスムントは、フニャディをカルパチア山脈、ドラーヴァ川、サヴァ川、ドナウ川が含まれるハンガリー南部に派遣した。その後、ジギスムントが死去し、娘婿のアルブレヒト2世が後継者に成ると、フニャディをセヴェリン侯し、共にオスマン帝国軍と戦い続けた。
・フィレンツェ公会議/公会議の分裂
1437年、ビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世は、オスマン帝国の脅威に対抗するため、教皇に十字軍遠征を呼びかけてもらうためにヨーロッパを訪問、東方教会との合同会議の機運が起こり、翌38年、エウゲニウス4世はイタリアのフェラーラへ公会議を移すと、反対派の公会議主義者らはバーゼルに留まった。一方、ビザンツ帝国内で、聖職者や国民らから大きな反発の声が上がり、東西教会の合同は現実しなかった。翌39年、公会議主義者等によって対立教皇フェリクス5世が誕生した。
・カザン・ハン国の建国/ルーシ遠征
1438年、ジョチ・ウルスのハン位を巡る抗争に敗れたウルグ・ムハンマドは、ジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルガール王国の故地に退き、カザンを首都として、カザン・ハン国を建国し、翌39年からルーシ遠征を決行した。
・神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世の死/相続争い
1439年、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世がオスマン帝国との戦争中に赤痢に罹り、ハンガリーのネスメーイで急死すると、ローマ皇位・ハンガリー王位・ボヘミア王位を巡って後継者問題が起こった。翌40年、アルブレヒト2世の息子ラディスラウス・ポストゥムスがオーストリア公とハンガリー王に就いた。
・プラグリーの反乱
1439年、フランス王シャルル7世は三部会で貴族の徴兵・徴税を禁止、国王が新たに徴兵・徴税することと、部隊の指揮を執る隊長は国王が指名することを勅令で布告した。9月、善良公はルクセンブルクを手に入れ、ブルゴーニュ公国の最盛期を迎えた。翌40年には、プラグリーの乱が起こり、(ブルボン公シャルル1世・アランソン公ジャン2世・デュノワやラ・トレモイユ)の貴族たちが王太子ルイを擁立し、各都市を略奪して行ったが、優秀なブルターニュ兵と砲兵を持つリッシュモン大元帥に鎮圧された。しかし、42年には、イングランドの捕虜に成っていたオルレアン公シャルルが、反乱勢力に担がれヌヴェールで謀議が行われたが、すぐに国王側に発覚して未遂に終わった。その後、政治から遠ざけられた。
・ジーギマンタスの暗殺
1440年、リトアニア大公ジーギマンタスはリトアニア貴族達の陰謀によって殺害されたことでリトアニア=ルーシ国家に帰還したシュヴィトリガイラは再び大公位を請求したが、リトアニア貴族たちは、ポーランド王ヴワディスワフ2世の次男のカジミェラス・ヨガイラタイティスをヴィリニュス城に迎え入れ、リトアニア大公に即位させた。これにより、ポーランドは猛反発し、リトアニアに軍事的圧力を掛けた。やがて、リトアニア貴族も、ポーランド貴族も、平等に扱われるように成った。
・プロシア連合の結成
1440年、ハンザ同盟の都市の指導の下、ドイツ騎士団に対抗することを目的としてプロシア地方の19の都市と貴族や僧侶53人が合同して自治領連合「プロシア連合」を結成した。
・ヴワディスワフ3世のハンガリー王即位/ハンガリーの内乱
1440年2月、ハンガリーの貴族身分はアルブレヒト2世の後継者としてポーランド王ヴワディスワフ3世を擁立した為、アルブレヒト2世の妻・エリーザベトが産んだラディスラウス・ポストゥムスと、ハンガリー王位を巡って争う。一方、選帝侯らは内オーストリア公フリードリヒ3世をローマ王に選出した。なぜなら、フス戦争で混乱に陥ったボヘミアをオスマン帝国から防衛する任を御しやすいオーストリア大公に託すという理由からであった。
42年、エリーザベトが死去したことで、ハンガリーの内乱は治まり、ポーランド王ヴワディスワフ3世のハンガリー王が決まった。翌43年、ヴワディスワフ3世は教皇エウゲニウス4世からの多大な援助を受け、トルコ人に対する十字軍を組織するようになる。
・クリミア・ハン国の建国
1441年、ジョチ・ウルスのハン位をめぐる激しい内乱の後、バシ・テムルの子・ハージー1世ギレイは、リトアニア大公国の支持を受けて、クリミア・ハン国を建国した。
・オスマン帝国VSフニャディ・ヤーノシュ
1441年1月、フニャディはセルビアのスメデレヴォでオスマン軍を撤退させた。翌42年、メジト・ベイの率いるオスマン軍がトランシルヴァニアに侵入すると、シビウ包囲戦で、フニャディはオスマン軍を敗走させた。これを機に、フニャディは、ハンガリー・兼ポーランド王ヴワディスワフ3世に「大遠征」を提唱し、更にアナトリア半島のカラマン侯国と同盟を結んだ。
・ヴァルナ十字軍/セゲド条約
1443年1月、教皇エウゲニウス4世はヴァルナ十字軍を結成すると、オスマン皇帝ムラト2世に宣戦布告し、ハンガリー王ヴワディスワフ3世とフニャディを中心とした十字軍は、ドナウ川を渡りニシュとソフィアへ進軍した。
ニシュの戦いで、十字軍のフニャディ部隊はカシム・パシャが率いるオスマン軍を破り、ニシュを奪還する。その後、カシム・パシャはブルガリアの首都ソフィアに居るムラト2世に合流し、オスマン軍は首都ソフィアから退却すると、代わりに十字軍のフニャディ部隊がソフィアに入城した。12月、十字軍はソフィアに集合すると、アドリアノープルに向って進軍し、ズラティツァ峠でオスマン軍と交戦し敗北した。
・スカンデルベグの反乱
1443年、オスマン帝国の支配下でアルバニアの軍司令官・スカンデルベクがオスマン帝国に反旗を翻し、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国やローマ教皇の支援を取り付け、アルバニアの北半を統一し、オスマン帝国軍を跳ね返した。
・ヴァルナの戦い/ヴァルナ十字軍
1444年1月、クノヴィツァの戦いでオスマンの追撃軍を破った。ここでムラト2世の義理の息子で大宰相チャンダルル・ハリル・パシャの弟マフムード・ベイが捕虜となった。その後、十字軍はハンガリーの首都ブダに帰還した。8月に、両国の間で和平交渉がまとまると、枢機卿ジュリアーノは和平条約を無視し、再び十字軍遠征の準備を進めた。その頃、ムラト2世はスルタンの地位を息子のメフメト2世に譲った。11月、ヴァルナの戦いが始まると、ムラト2世は復位して、十字軍を打ち破った。この戦いで、ヴワディスワフ3世はイェニチェリ親衛隊に殺された為、ローマ王アルブレヒト2世の息子・ラディスラウスがハンガリー王に即位した。
・トゥール条約
1444年、残るイングランド領は北のノルマンディーと南西のギュイエンヌだけと成った為、イングランドはフランスにサフォーク伯ウィリアムを送り、トゥール条約のもと、イングランドとフランスは和睦を結んだ。
その内容は、メーヌ・アンジューをフランスへ渡す代わりに、王妃マリー・ダンジューの姪マルグリット・ダンジューをヘンリー6世の王妃にすることだった。
翌45年、サフォーク伯は、ボーフォート枢機卿の甥・サマセット公エドムンドをノルマンディー総督に任命すると、ヨーク公リチャードを解任した。
・イェニチェリの反乱/オスマン帝国
1445年、エディルネでイェニチェリの反乱が勃発すると、大宰相ハリル・パシャがムラトに復位を要請した。翌46年にメフメトは帝位を返上し、領地のマニサに戻った。この為、メフメトはハリル・パシャに恨みを抱いた。その後、ヴェネツィア共和国の船舶を襲撃し、ネグロポンテなどのヴェネツィアの支配下にあるエーゲ海の都市や島を襲撃した。
・スーズダリの戦い/モスクワ大公国の敗北
1444年、カザン・ハンのウルグ・ムハンマドはニジニ・ノヴゴロドを自国へと併合する為、モスクワ大公国のスーズダリ公国及びリニジニ・ノヴゴロド公国と、緊密な関係を築き、冬にはニジニ・ノヴゴロドを占領し、更にムーロム公国を占領した。
翌45年1月、モスクワ大公ヴァシーリー2世盲目公が軍を率いてウラジーミルに向うと、ウルグ・ムハンマドはニジニ・ノヴゴロドに引き返した。やがて、ニジニ・ノヴゴロドもモスクワ大公に奪還された。7月、ウルグ・ムハンマドは自身の息子であるマフムードとヤクブ率いる軍勢をルーシに派遣し、スーズダリの戦いに臨み、モスクワ軍を破ってモスクワ大公ヴァシーリー2世を捕虜にし、スーズダリを陥落した。その後、莫大な身代金をもってヴァシーリー2世を開放した。
・ウルグ・ムハンマドの暗殺/カザン・ハン国
1445年、マフムーデクは、父ウルグ・ムハンマドを暗殺して、カザン・ハン国の第2代君主になると、弟のユスフをモスクワへと追いやった。また、大オルダ(ジョチウルス裔の国家)から独立した。
・ティムール朝の内紛
1447年、ティムール朝の第3代君主・シャー・ルフはイラン高原で反乱を起こした孫を討伐するため、ヘラートを出発し、途中のシャフレ・レイで病死した。その後、ウルグ・ベクが第4代の君主に成ったが、各地で王族たちの反乱が発生した。
・サフォーク公の台頭/イングラン
1447年2月、ヘンリー6世はトゥール条約が公になると、サフォーク伯に対する民衆の怒りが激しく成り暴動が起きると、グロスター公ハンフリーとヨーク公に、その罪をなすりつけ、グロスター公を投獄して殺した。また、ヨーク公をアイルランド総督へ転出された。更に、4月にはボーフォート枢機卿は病死した為、残ったサフォーク伯がヘンリー6世政権を牛耳る様になる。
・第二次コソヴォの戦い/オスマン帝国のバルカン制覇
1448年、ムラト2世率いるオスマン軍は、第二次コソヴォの戦いで、フニャディ・ヤーノシュ率いるハンガリー、ワラキア、モルダヴィア混成軍を打ち破った。バルカン半島のキリスト教国家を破った。その後、ビザンティン帝国を次第に圧迫して行く中、皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが死去した。翌49年1月、コンスタンティノス11世がモレアス専制公領の首都ミストラスで即位し、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスへ赴き、ムラト2世と平和条約を結んだ。
・黒羊朝の台頭/ティムール朝混乱期
1449年、ウルグ・ベクの長男アブドゥッラティーフがバルフで反乱を起こし、父との戦いに勝利した。やがて、ペルシア人奴隷を遣わして父を殺害したが、アブドゥッラティーフも、ウルグ・ベクの忠僕によって暗殺された。翌50年、アブドゥッラーがティムール朝の第6代君主に即位する。ティムール朝が混乱しているすきに、黒羊朝が勢力を拡大し、イランの西部から東部まで進出してホラーサーンの主邑ヘラートまで占領した。
・ノルマンディー攻防戦/サフォーク公の暗殺
1449年3月、イングランドのサマセット公はブルターニュ公フランソワ1世が弟ジルを監禁した事を口実に、ノルマンディーに近接するフージェールを奪うと、フランス軍はノルマンディー遠征に乗り出してフージェールを奪還。その後も、ノルマンディーの首府・ルーアンへ進軍し、サマセット公のイングランド軍を破った。そのため、フランスのイングランド領は、コタンタン半島北端のシェルブール及びノルマンディー北部のカーン周辺だけに成ってしまった。
翌50年、ヘンリー6世はやむなく、サフォーク公を追放したが、彼を乗せた船は英仏海峡で待ち伏せされ、5月に暗殺された。
・フォルミニーの戦い/百年戦争
1450年、ノルマンディー地方の喪失はイングランド王家にとって耐え難い屈辱で有った為、3月、ヘンリー6世はトーマス・キリエルが率いるイングランド軍を港湾都市シェルブールに上陸させ、ヴァローヌを突破し、カーンへ進軍した。途中で、クレルモン伯が支援した反英住民組織軍を破り、カーンとサン=ローとの中間地点・フォルミニーで駐留した。4月14日、フォルミニーの戦いが、クレルモン伯が率いるフランス軍とイングランド軍で始まった。翌日、リッシュモン軍がフランス軍に合流すると、イングランド軍は北のバイユー方面へ敗走したが、ノルマンディーの農民達によって虐殺され、司令官キリエルは捕虜に成った。
8月、フランソワ1世とリッシュモン大元帥はノルマンディー地方から、イングランド軍を一掃することに成功した。
・アキテーヌ遠征
1450年9月、フランス軍はギュイエンヌ遠征に乗り出し、都市ベルジュラックを奪った。翌51年、デュノワ伯ジャンのフランス軍はアキテーヌの都府ボルドーや、バイヨンヌを占領すると、ボルドー市民たちはイングランド国王ヘンリー6世に救済を求めた。
・アブー・サイードの乱
1450年、サマルカンドに投獄されたアブー・サイードはサマルカンド有力者によって救出され、反乱を企てると、ウズベクのアブル=ハイル・ハンの援助を得てマー・ワラー・アンナフルを征服し、翌51年には、サマルカンドを占領して、アブドゥッラーを処刑して、ティムール朝の第7代君主に成った。
・メフメトの二度目の即位/ルメリ・ヒサルの建設
1451年、父・ムラト2世が死去すると、メフメトはマニサからエディルネに直行し、スルタンに即位した。その後、弟アフメトを風呂場で絞殺させ、ハリル・パシャや宰相イスハク・パシャと対立し、ハリル・パシャを左遷させた。
その後、オスマン皇帝メフメトはヨーロッパの国々は停戦を求め始めた。その様子を見ていたアナトリア半島のカラマン侯国は和約を破棄し、オスマン領に侵入すると、ビザンツはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した。この為、メフメトはカラマン遠征を決行した後、ボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを建設することを命令した。
オスマン帝国のバルカン半島征服の始まり
・ヴラディスラフ2世のワキア公位回復
1451年、ヴラディスラフ2世は、再びヴラド3世からワラキア公位を奪還し、ヴラド3世をモルダヴィア公国に追いやった。更に、モルダヴィア公のボグダン2世が暗殺されると、ヴラド3世は従弟のシュテファンと共にトランシルヴァニアに逃れ、トランシルヴァニア侯フニャディに身を寄せた。
・ダートフォードでの実力行使/イングランドの内戦
1452年、ヨーク公はヘンリー6世に気に入られているサマセット公が王位継承にならぬ様、挙兵してラドローからロンドンに進軍した。しかし、ヘンリー6世の命令で都市の城門にかんぬきがかけられて封鎖されている事を知った。その後、ヨーク公はロンドンに連れて行かれ、そこで2週間の事実上の軟禁の後に、セント・ポール大聖堂で忠誠宣誓を誓うことを強いられ、ダートフォードの戦いに関係したヨーク公の配下を罰するために巡回裁判に乗り出した。
・カスティヨンの戦い/百年戦争の終焉
1452年10月、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットが率いるイングランド軍がボルドーに上陸し、フランス守備隊を追い出すと、ガスコーニュ地方の各地でも、イングランド軍を受け入れられるように成った。やがて、イングランド艦隊がノルマンディーとブルターニュに迫り、フランスのリッシュモン大元帥及びブルターニュ公ピエール2世軍と戦いを始めた。翌53年春、フランス国王シャルル7世は、アンドレ・ド・ラヴァルにボルドー遠征を命じると、アンドレが率いるフランス軍はカスティヨンを包囲し、7月にはシュルーズベリーのイングラン軍と激突した(カスティヨンの戦い)。その後、ブルターニュ公ピエール2世の援軍により、イングラン軍を大敗させた。10月、フランス軍はボルドーを陥落させると、シャルル7世はアキテーヌを始めフランス全土を平定した。その後、イングランド王ヘンリー6世は精神錯乱状態に陥った。
・カシモフ・ハン国
1452年、ウルグ・ムハンマドの子カースィムが、兄マフムードとの政争に敗れてモスクワに亡命すると、カースィムはヴァシーリー2世からメシチョーラの地を与えられ、モスクワの庇護の下、カシモフ・ハン国を建国する
・ビザンツ帝国の滅亡/中世の終わり
1453年、オスマン帝国の第7代スルタン・メフメト2世は、ハリル・パシャらの反対を押し切って、コンスタンティノープルを包囲すると、主戦派と反戦派に分裂したが、5月、メフメト2世はコンスタンティノープルの砲撃を開始し、陥落させて、ビザンツ帝国を滅ぼした。その後、メフメト2世は利敵行為を働いた罪でハリル・パシャを処刑した。
翌54年、メフメト2世はセルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否された。そのため、セルビア遠征に乗り出した。
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