思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

森の思想の根柢にあるもの

2014年11月26日 | 古代精神史

 ちくま新書の新刊に山下博司著『古代インドの思想』読んでいると「輪廻の教説はインドからアジア各地に伝わり浸透した。輪廻の教えが広がった土地は、森林に覆われ多神教的環境であったことも共通している。」(同p166)と書かれている。

 「インダス文明、ヴェーダ、ヒンドゥー教、ヨーガ、仏教をつらぬく「インド的なもの」とは?

を述べるのがこの著書です。先週の日曜日のEテレ「こころの時代」での宗教学者の山折哲雄先生が仏教伝来以前から悉皆仏性的な自然崇拝思想が日本列島には根柢にあるのだが、旨の話を話されて、落日の夕焼けに美しさを語っていました。実際にはそのような言葉を使ってはいませんが個人的な読み取りでそのように解されました。

 時々書くことですが、6・7万年前にわずかな集団でアフリカ大陸を出発した現生人類は1・2万年前に地震と火山の東方に至り、その後も旅の途中で分れた集団が東方を目指し海を渡り、南から北からまた朝鮮半島から日本列島に渡来してきました。むかしは帰化という言葉も使われましたが、今は渡来人と呼称するのが一般的になりました。

 過去ブログにも書いているところですが、個人的には「東方を目指す」その根柢にある希望の彼の地を思う志向性を考えると「帰るべき処」であったという意味で「帰化」の言葉が的を得ているように思います。

 民俗学的な伝承の中には旅の過程で学び会得した、生きる術があったに違いなく、「どこからきてどこへ去るのか」も自ずから身に付いて来たのではないかと思います。

 「森林に覆われ多神教的環境」

 日本だけに「森の思想」があるわけでなく過去に沙漠であった地にもその思想は産まれていたに違いなく、人類の実存に通底する根柢には自然という一体渾然とした「無くて有るもの」が現われるのではないかと思う。

 それは表現されると多くを語ることになりますが、美への観照、落日の美しさは身を持った体験として現われるのだと思います。哲学的な経験とは、純粋を付けるまでもなくリアルに「生(あ)る」を宣言するしかありません。

 リアライズ、わかるということはそういうことだと思う。

 「不生不滅」「不一不異

この言葉も旅の過程での会得なのかも知れません。