三連休の最後の日の今日は成人の日、朝から本格的な雪降りとなりました。積雪30センチほどになっています。正月も半ばで月の折目には各地で各種行事が行われています。厄年の厄払い、前厄、後厄に関係する人は密教系の寺で護摩焚で厄を落すことになります。
この三連休中で行われる地元の行事に「どんどん焼き」があります。写真は昨日(日曜日)安曇野市の中央図書館近くの駐車場で行われた「どんどん焼き」の別称の「三九郎(さんくろう)と呼ばれる子供たち参加の祭りです。
松本市内では薄川(すすきがわ)、女羽川(めとばがわ)等の河川敷などで行われ、安曇野平は田畑やこのような駐車場で行われています。
竹などを使い三角錐状(やぐら状)に組み、そこに正月の門松やしめ縄、旧年のお札やダルマなどを付け、燃やす行事である。その残り火で繭玉(まゆだま)という団子をヤナギなどの小枝に付けものを焼きます。この焼いた繭玉を食べると風邪を引かないなどと言われ、子供のお祭り色の強い行事です。
気持ち的にはこの行事が過ぎると正月気分も終了という感じがします。類型的な毎日のくり返しの生活の中で時折り各種の行事が行われます。1月は正月の三ケ日が過ぎると仕事始めの儀式で、これは1年単位の折目の儀式でやはり単調な類型的生活に精神的な「こと」に関わる行事が行なわれているとも見えます。
新鮮な気持ちで、精神性を新たにする通過儀礼的で現代社会では儀礼的要素が強くなってきているのですが、農業中心の古き時代には仕事の進め方の節目も重ねて楽しみを含んだ年中行事が行われていました。
年中行事の類型的慣行性の中で「時折」の特別な営みというわけです(和歌森太郎著『日本民俗学』清水弘文堂・p237)。
精神病理学の木村敏先生は「純粋経験は『こと』を知る働き」と言っています(『関係としての自己』(みすず書房・p231)。純粋経験とは直接経験でもあり、たゞ中の事実の全部を知る経験なのですが、形式的な儀式に真摯な自分が向き合っている姿があります。
人間はそういうことをすることで気分を一新する折目を付けることができるわけです。 分析心理学のユングは通過儀礼ということでその一新を語っています。洋の東西を越えて祭り、儀式はそういうことで共通しています。
「こと」に係わることで「言祝ぎ・言祝ぐ」という言葉があります。「後世、コトブキやまたはコトホギと濁る・言葉で祝う。祝いの言葉を述べて、長命や安泰を祈る。」(角川古語辞典)という意味で「ことほぐ」は上代の言い方です。
地元紙信濃毎日新聞にフランクルの『夜と霧』の新版の訳者の池田香代子さんのコラムがあるのですが先週の土曜(12日)付に「それでも新年を言祝ぐ」という記事がありました。
新年の「おめでとう」という言葉、まさに「言祝ぎ」であって、次のような解説をされていました。
「これは一種の呪術であり、言葉には呪力が宿るとする言霊信仰だ。急いで付け加えておくと、言霊信仰はヤマトの専有物ではない。およそ言語をあやつる人間集団なら、必ずこのいわば言語の古代形而上学とでもいうべき観念をもっている。」
新年のあいさつから、日常の「グッド・モーニング」と神の恵みの宣明があります。そのほか呪術的な言葉、真言などがあるわけでなるほどと思いました。
言霊信仰には「呪」もあり、その他に言葉の力に力点をおいて神に対する「静・沈黙」の姿勢もあれば「言葉そのものの力」を「動」的に現わす一元一体の面があります。
この「言祝ぎ」似た「言向け(ことむ・け)」という言葉にそれを見ることができます。「言葉の力で服従させること・征服すること」という古語ですが、意味からもわかると思います。日本語の「こと」という言葉にはその精神性に深い意味があるようです。単なる事実だけではないということです。
上記の池田さんの話の中に「予祝(よしゅく)」という言葉が合せて概念として語られていました。kotobank.jp「世界大百科事典 第2版の解説」によると、
【予祝】(よしゅく)
豊作や多産を祈って、一年間の農作業や秋の豊作を模擬実演する呪術行事。農耕儀礼の一つとして〈予祝行事〉が行われることが多い。あらかじめ期待する結果を模擬的に表現すると、そのとおりの結果が得られるという俗信にもとづいて行われる。小正月に集中的に行われ、農耕開始の儀礼ともなっている。一種の占いを伴うこともある。庭田植(にわたうえ)、繭玉(まゆだま)、粟穂稗穂(あわほひえぼ)、鳥追、成木(なりき)責めなど地方色豊かなものが多い。
説明されていて、池田さんは先の年頭の言葉もこの「予祝」であるとするもので「あらかじめ祝ってしまう」という意味に解していました。
上記に和歌森先生の『日本民俗学』に次のような記述があります。
・・・・・十五日正月は、小正月とよばれるが、大陰暦によって生活した時代には、正月といっても、満月の日を中心としたいわゆる小正月は最も重要なものであった。農家では、今もこの万が重視され、いろいろの行事を行なっている。それはいずれにせよ、農事の予祝祭の意味をもっている。ヌルデやヤナギの木を床の間や座敷に一本たて、その枝に餅や団子を小さくちぎってはたくさん付け、飾り物とすることをよく十五日に行ない来っている。
類感呪術ともいうべき呪術的儀礼である。これをマユダマというところがあり、養蚕の盛んであるよう祈るのだとする人もあるけれど、養蚕が農民の仕事として大きい部分を占めてきたのは近代のことであるから、それはあとからの説明で、もとは秋にとりいれる米などのゆたかなるよう祈る呪いとして起ったものと考えられる。
したがって、これをイネノハナとよんだり、米ノナル木というところもあるわけである。餅や団子をこの木につける以前には、ケヅリカケ、ケヅリバナと言って、やはりヌルデやヤナギの木を刃物でそり削り、しかもそいだものを落さずに、左右に花びらのように開き垂らしたものをつくり、この日飾ったり神に供えたりして、秋の豊収を予祝祈願した。
あるいは進んで、何につけてもなりもの、出来ものがよく実り成るようにとの気持から、その日のハレの食事たる小豆粥を炊くに使ったカユカキ棒で、子供らがどこかの新嫁の尻をたたき、彼女に早く子ができるように呪うことも行なわれた。
京都でのそういう行事は早く「枕草子」に出ているほどである。あるいは「なれなれ」と言葉をとなえるだけで、豊年の祈願をする行事もあった。なお十五日の予祝祭としては、もちろん田植の時季ではないのに、さながら田植をするかのように、田人、早乙女の姿に扮した村人が、しかも往々模型の牛まで曳いて、松葉でつくった早苗様のものを手にして種まきから、田植、収穫まで、ひとわたり稲作の過程を模擬的に演技することにより予祝する型もある。
これは一月二月の神社での祈願祭に随伴するようになったところが多いが、正月十五日頃のものもある。こうした模擬的呪術としてのオンダ行事(注:オンダとは. 御田植祭と総称される民俗行事)は、もとは大人の真剣なる営みであったけれど、最初の志から離れて、ただ芝居か踊りのような、遊びのような感じで見てくるにしたがい、ホイトというような貧しい遊芸人に頼んで行なってもらうとか、少青年らにかんりさせ行なわせるものとなってきた。・・・・・(以上同書p246~p248から)
民俗学ですから今に残るものは限られています、従って上記の内容もひと昔前と考えた方がいいと思います。「元来農業の順調を念ずる予祝行事は、農事開始の直前ぐらいに行われるのが自然であるから、これが正月十五日の小正月に集中するのは、暦法によって正月を方に引き寄せられたためではないかという考え方も成立する。」(『催事百話』ぎょうせい・p20から)などの記述もみられます。
「おめでとう」という言祝ぎが、予祝としての「あらかじめ期待する結果を模擬的に表現する」に重なるという話はなかなか興味のわく課題です。稲作は植物学から視点ですからそこにはおのずと科学的な必然性があります。生育させるための法則とくり返し、恒常性が伴い実りが成るということです。言祝ぎ、予祝は精神性の問題です。この二重性がパラレルではなく一体になっているのが催事なんですね。
それによって共同体の共同性も護られ、そのことは生活も保障される意味もあったということです。なぜ過去形にするかというとこの共同性は現代では希薄になっているからで、上記にも書きましたが歳時、催事、習俗、慣習を語る民俗学的遺産は生滅の道にあるからです。
池田さんは、今はとんと見かけなくなった万歳や春駒という話もされていますが、和歌森先生が語る芝居や踊り、遊芸者の類です。これらの人々は「幸運を売る人々」と呼ばれていました。上記の『催事百話』では次のように解説しています。
<幸運を売る人々>
昭和の半ばごろまでは、年の暮れから初春にかけて、各家の門口を訪れる一群の人々があった。年の瀬もおしつまると、まず節季侯(せきぞろ)と称する人たちが来た。かれらは二、三人が一組となってふれまわり、赤絹で顔とひざを覆った姿が多く「せきぞろござれや」と歌い、かつ踊った。江戸時代には婆等(うばら)という名の女たちが白木綿で頭を覆い、赤い前掛をつけて、手にカゴを持って物もらいにやって来た。
年が明けるとその数は一段と増してくる。芸を売りものとする、万歳、春駒、鳥追い、大黒舞、夷舞(えびす)、獅子舞、猿まわし」尺八を吹く虚無僧(こむそう)など、いずれも大道芸人と一括される人たちである。そして芸をしないで、ただ物もらいだけする人たちも年の暮れになると、何となく村村に入ってきた。明治生まれの老人たちの中にはそうした門付けの種類やら楽しい芸のいろいろをエピソードを混じえながら語ってくれたものだ。
以前はこういった人々を乞食だとして軽視する風が一般的だった。乞食の語は漢語であり、本来の語はホイトという。ホイトが門口で芸を見せるのは初春を迎えて、その一年が素晴らしいことを予告するところに一つの意義があった。年の暮れにきた節季侯もいよいよ幸運に満ちた新年が来ることを伝える役目を持っていたし、現在でもかならず正月の見世物となっている万歳師たちの芸も、祝言を唱える面白さが人気をよぶ。
民俗学上の解釈では、年の改まる時季に祖霊が子孫たちに祝福を約束して訪れるという信仰を基本に持つとしている。ホイトたちは、幸運をもたらす言葉、これを神の寿詞(よごと)というが、これを伝える、いわば神の代行者の性格を持つとされる。神に仕える人を祝人と書き、ハフリ、ホギビトと称したから、それが誰ってホイトとなったのではないかという推論も成り立っている。
今に見られる万歳は、万蔵と才蔵の二人一組となり、鼓をうちながら、家ぼめをして寿詞をのべたてるものである。一番有名なのが三河万歳で、愛知県碧海郡あたりを出身地とする。江戸時代に大きな勢力を持ち、江戸市民の間ではすっかりなじみとなった。江戸時代中期ごろに、三河万歳が唱える文句に「弥勒十年辰の年」というのがあった。これは災難多き年のあることを予言し、正月をやり直して幸運にきりかえることをすすめる内容で
ある。
東北地方には会津万歳、仙台万歳、秋田万歳など種類の多いのが目立っている。中世には、千秋楽万歳楽といい、つまって千秋万歳と称した。土御門家を支配頭とする集団で統制も行きとどいていたらしい。ちなみに千秋楽は、仏教上でいう理想世の弥勒世を迎えるための音楽でもあった。それをきわめて庶民化したのが万歳だが、かれらは明らかにユートピア実現を予知する使者でもあったのである。(以上同書p56~p57から)
上記文章では現在使用されない言葉が含まれていますが、ここには「聖と賤」「神聖と穢れ」という精神史にみられる課題があります。これは魏志倭人伝に書かれている「持衰(じさい)」という役目の人物に起源があるように思うのです。功利論的倫理学上の道徳的な問題点に関係するもので、この持衰という役目は、倭人が魏という国に朝貢に行く際の船に乗っていく特殊な役目をする人のことで、穢れを一身に背負う存在で、それによって神聖が保たれるという思想です。存在の視点から見れば、近世における工人にも関わるもので、神聖なる物作りには穢れを一身に背負う存在がなければならない、という思想です。
このことについてはこれ以上の言及はしませんが、功利論的倫理学上の道徳的な問題点は別な形で表れているのではないかと思うわけです。以前にも書いたオメラスの都の「犠牲」は誰か、という問題です。
言祝ぐ、予祝から別の視点に移りかけたのでこのくらいで今回の話題は閉じたいと思います。
※今回引用した文章は長文ですが、非常に資料的には貴重なものだと考え、メモとして残しました。