思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

田舎に残された「孝行猿物語」と碑

2011年06月19日 | 江戸学

(写真「孝行猿の碑」『拓本の信濃路』(信濃毎日新聞社編から)

 哲学者の梅原猛先生は『梅原猛の授業 道徳』(朝日新聞社)の中で、とぎのようなことを言っています。

・・・・・それはともかく、明治以後も、江戸時代の道徳が遺産として残っていて、エリートはどこかで儒教の道徳を持ち、庶民はどこかで仏教の道徳を持ちつづけてきたと思います。

 明治以後にいろいろな思想家が出ました。たとえば農業経済学者で教育家でもあった新渡戸稲造という人がいます。近代的な思想家ですが、儒教の道徳、特に武士道の道徳を背景に持っている。あるいはキリスト教のうえに立った内村鑑三というすぐれた思想家がいますが、彼のバックボーンをなすのもキリスト教であるよりは儒教だったといわれます。そういう儒教道徳、仏教道徳が日本人の心にきちんと残っていたんです。

<以上同書p22~p23>

と「明治以後も残った江戸の道徳遺産」の中で述べています。日本人全体の道徳心のマヒを訴える梅原先生、私もそうですが江戸学的な道徳教育に非常に関心を持たれています。

 江戸時代の道徳的な教育、民の段階では、「想いの記」さん(ご住職)がアップしているブログ、

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その20)─敬愛─[2011年06月18日]
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2749.html

に書かれておられるように、寺子屋等で今の学校のような教育がなされていたようです。この点についても、過去に、

「応無所住而生其心」と悟っている話[2010年02月11日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/9dbe5e8d0f5c45316598baba4b964510

などで江戸学について関連記事を掲出してきました。

 梅原先生は、そのような江戸学的な道徳心はその後も潜在的に継承されていたが、現代社会では道徳心がマヒしてきていると訴えて来ているわけです。

 戦後のイデオロギー闘争、最近では教育現場における「君が代問題」などがありますが、内心の自由という問題を主に、「嫌なものは嫌だ」という個人の自由意志を尊ぶ傾向が、ある種道徳心をマヒ的な状態を醸成しているのではないかと思われるのですが、それも日本の歴史の必然的な流れ、挙国一致に意思の疎通ができる共同場がない限り解決不可能なことでもあるように思います。

 そんな戦後の教育現場、信州の南の小さな村に「孝行猿物語」がありました。平成の大合併で今は長野県伊那市長谷という地籍になっています。この村にはこの物語を後世に残すための碑「孝行猿の碑」今はない伊那里(いなさと)小学校にありました(今は別の場所にあります。詳細は下記に)。

 「孝行猿物語」、どんな話かと言いますと国土交通省中部地方整備局 三峰川総合開発整備工事事務所のサイトの「三峰川資料館」のページに「孝行猿物語」について歴史等も含め掲出されていますので、このサイトはどうも将来的には閉鎖されそうですので、引用し、紹介したいと思います。

国土交通省中部地方整備局 三峰川総合開発整備工事事務所
「三峰川資料館」「孝行猿物語」
http://www.cbr.mlit.go.jp/mibuso/siryou_kan/05saru.html

孝行猿物語

 長谷村 「孝行猿物語……過去→現在→未来へと伝 わる親を思う心」

○ 孝行猿物語

  長谷村には昔から次のような民話…孝行猿物語が伝わっています。
  村に勘助(かんすけ)という腕利きの猟師が住んでいました。冬も近付いたある日、勘助は火縄銃を手に猟に出たが、その日は不猟で兔(うさぎ)一匹捕れま せんでした。諦(あきら)めて帰ろうとしていた時、木の上に大きな猿が一匹居眠りをしているのが見えました。気が進まなかったが、他に獲物もないため手ぶ らで帰るよりはよいと思い、一発でこれを仕留めました。後ろの山路で悲しげな猿の声が聞こえましたが、あまり気にも止めないで家路へと急ぎました。家に戻 り、仕留めた猿の両手両足を縛って囲炉裏(いろり)端に吊(つ)るすと、皮は翌朝剥(は)ぎ取ることにして、夕食もそこそこにして寝てしまいました。

  夜中に物音に気付いて目を覚ますと、隣の部屋との隙間(すきま)がかすかに明るく見えます。戸の隙間から覗(のぞ)いて見ると、どこから入って来たの か、囲炉裏の周りに子猿が三匹います。一匹が囲炉裏の火で手をあぶっては、四つん這いになった二匹を踏み台に、吊るされた猿の傷口に手を当て温めていまし た。勘助が撃(う)ち殺した猿の子供たちが、親猿を何とか生き返らせようとして、囲炉裏と親猿の間をしきりに行き来していたのでした。

  「ああ!昨日帰りに鳴いた猿は、この子猿たちだったのか!」どうにかして親猿を生き返らせたいと、夜中に一生懸命に手当している子猿たちを見ていると健 気(けなげ)に思えてなりませんでした。「私は、生計を立てようとして、何故(なぜ)こんな情けないことをしてしまったのか」と先非を悔いました。子猿た ちは、夜明けとともに山へ去っていきました。

  親子の愛情に深く心を打たれた勘助は、夜が明けると、親猿を背負って裏山に登り、大きな一本松の木の根元に葬(ほうむ)って手厚く母猿の霊を慰(なぐ さ)めました。また、祠(ほこら)を建ててせめてもの心尽くしとしました。勘助は、猟師として生き物を殺してきた過去の非を後悔して、猟師を廃業しまし た。そして、頭を剃(そ)って一心不乱の念仏者になり、諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出たといいいます。

(「長谷村誌」などによ る)

○ 孝行猿の 話の原文
  今から250年以上も昔に、信州の入野谷(いりのや)村(現在の長谷村)に伝わる孝行猿の話が、紀州藩(現在の和歌山県)に住む学者 神谷養勇軒の耳に 入りました。神谷は、藩主徳川宗将の命を受けて説話集『新著聞集』全18巻を書いていたので、
  この話を第2巻「慈愛篇」の中に入れて紹介しました(寛延2年・1749年)。江戸時代半ばに、この本で紹介されたことがきっかけとなり、この話が日本中へ広がっていったらしい。新著聞集の原文には次のとおり載っています。

 猿子 親を療して人心を感発す

  信州下伊那郡入野谷村の者、冬の日、猟に出、不仕合(ふしあわせ)にて帰る道の大木に、大猿の居たりしを、これ究竟(くっきょう)の事なりとて討(うち) けり。夜に入(いり)、宿につき、明日皮を剥(はが)なん。凍(い)ては剥(はぎ)がたしとて、囲炉裏(いろり)のうへに釣(つり)おきぬ。深更(しんこ う)に目をさましみれば、いけておきし火影みえつ隠れつするを不審(いぶか)しくおもひ、能々(よくよく)うかがひみれば、子猿親の脇下(わきした)にと りつき居けるが、一匹づつかはるがはるおりて、火に手をあぶり、親猿の鉄砲疵(てっぽうきず)をあたためしを見るより、哀(あわれ)さかぎりなくて、我い かなれば、身一ツたてんとて、かかる情なき事をなしつと、先非悔(くい)て、翌日、頓(やが)て女房にいとまとらせて、頭をそり世をのがれ、一心不乱の念 仏者となり、諸国行脚(あんぎゃ)に出(いで)しとなん。

○修身の教 科書に載った孝行猿
 孝行猿の話は、やがて時代も下ると修身の教科書にも教材として採り入れられました。明治時代に編集した「脩身口授用書」は、「猿子 親ヲ療シテ人心ヲ感 発ス」という題目で原拠に「新著聞集」を挙げています。
 
  その後、文部省が大正7年に発行した「尋常小学修身書 巻一」には「オヤヲタイセツニ」という題目があるが、それは絵だけのものでした。
  また、昭和11年に修正印刷した「尋常小学修身書 巻一」には、絵だけでなく文章も次のように載っています。

 オヤザル ガ、ウタレマシタ。
 コザルガ、タスケヨウ ト オモッテ、
 ロ デ テ ヲ アブッテ、オヤザル ノ
 キズグチ ヲ アタタメテ ヰマス。

  敗戦後に、修身科は廃止されて修身書もなくなりました。しかし、孝行猿の話を自主的に選んで、道徳教育の教材とした先生もいました。こうして孝行猿の話 は学校教育の始まった明治時代以降、教材として採用されてきました。

○孝行猿の 舞台となった地元の様子
  孝行猿の話の舞台となったのは、秋葉街道から東に外れた標高約1,100mの地点にある、長谷村市野瀬区の柏木という10戸程の小さな集落です。市野瀬 集落の手前から三峰川を越えて東側の山の急坂を車で10分程登って行くと、山頂に出て広野が広がっていますが、ここが柏木集落です。
  
 孝行猿の話に出てくる勘助の家は現在も存在しています。勘助の子孫である高坂誉光さんがこの家に住み守り続けています。高坂家の入口の上には、「孝行猿 の家」と書かれた額が掛けられています。この家の一部は「孝行猿資料館」となっていて、親猿が吊された囲炉裏や狩猟道具・修身書等が展示されています。見 学者には無料で開放しています。

 ここから山道を30分程登ると、勘助が親猿を弔ったとされる小さな石の祠(ほこら)があります。軸部の正面には、「山神宮」と刻まれています。この祠の 向かって左には、「孝行猿の遺跡」と標示した記念碑も長谷村によって建立されています。また、この辺りにあった親猿を葬った松の木は、やがて古木となり枯 れ、昭和36年の大嵐のため倒れてしまったといわれています。


『拓本の信濃路』(信濃毎日新聞社編から)

○孝行猿の 碑
  孝行猿の碑は、市野瀬にある生涯学習センター「入野谷」の前に建っています。しかし元は、昭和41年3月に、伊那里小学校PTAが中心となって伊那里小 学校の玄関前に建てられていたものでした。この碑の建設しようとした動機は、「伊那里小学校沿革誌」(昭和43年発行)に次のように記されています。
  
 建設の動機 
 「年寄が忘れ去られて邪魔者扱いにされ、青少年の不良化が叫ばれるこの時、わが郷土に言い継ぎ語り継がれてきた三匹の子猿の親思う故事を像にして、子ど もらに贈り、子どもらに親しんでもらいたいと考えた。また山国育ちのこの土地の者は、とかく人の出世や幸福を・・・えせんだりおとしめたりする短所があるので、幼い時から人を立て人の幸福を喜ぶ素地を養い、人間愛を育てたいという願いをこめての贈物としたいと思った。」
 
  碑石は、高さ180cmの大きな川原石で、中央部には孝行猿の説話を具象化したレリーフ(浮き彫り)を銅版で作って石にはめています。裏面には、「私た ちの郷土に、うつくしき故事ありて、永遠に愛と平和を祈りつつ、心をこめて、このレリーフを贈る。昭和四十一年三月 伊那里小学校PTA 製作者 藤澤古 實」と書かれています。
  
  製作者の藤澤古實は箕輪町出身の優れた彫塑家であり、アララギ派の歌人として有名な島木赤彦の門下生で、歌人としても活躍しました。この碑には藤澤古實 が詠んだ短歌を3首彫り込んでいます。
  
 ①けだものの 猿といへども 親を思ふ そのまごころは 人におとらず
 
 ②息たえし 親を生かさんと かはるがはる 傷あたたむる 三匹の子猿
 
 ③とこしへに 語りつたへん 信濃路の 孝行猿の 子の心あはれ

○ とこしえ に伝える取り組み
 3首目の短歌にもあるように、孝行猿の話を永久(とこしえ)に伝えるために、長谷村内では次のようなことに取り組んでいますので、ここに紹介します。

<中略>

  長谷小学校での取り組み
 旧伊那里小学校と旧美和小学校が統合した長谷小学校においては、親猿が打たれた日に因(ちな)んで10月10日を「孝行猿の日」とし、この日の前後に毎年 小学3年生が孝行猿に因んだ歌や演奏やオペレッタ等を全校生の前で上演しています。このことより長谷小学校の卒業生は孝行猿の話が記憶に残り、受け継がれ ていきます。昭和60年度から始めているこの行事のテーマは「生命を大切に」ということです。

 紙芝居グループ「糸ぐるま」での取り組み
 長谷保育園保母の久保田文子さんを中心とする、村内の若手女性達が集まって始めた紙芝居のグループ活動です。長谷村が大切に守り伝承してきた孝行猿の民話を始め、村に眠るたくさんの民話を掘り起こし、それを紙芝居にして多くの人に伝えていきたい。そして、故郷を大切にする心・自然や人を愛する優しい心を育てていきたいという願いからグループを結成しました。手作りで切り絵紙芝居を制作して、各地へ伝え続けています。
 
<以上サイトから>

 戦前の修身の教科書にも掲載されている話なのです。

 ということで、今朝は小さな集落のひっそりと残されている「孝行猿の碑」の「孝行猿物語」でした。

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