思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一神教の論理・正しさ・正義

2011年06月19日 | 宗教

 今朝のEテレ田上太秀先生の「こころの時代・ブッダの最期のことば」の三回が放送されました。「無上の道とは」と題しこの上ないとうとうお釈迦様の教え「八正道」のお話でした。



 人がブッダになれる道

 涅槃・ニルヴァーナに至る道

 すなわち心やすらぐ道

の話でした。

 これ以外には<道の人>なるものも存在しない。

 真理の体現者のさとった中道とは、それはじつに<聖なる八支よりなる道>

 正しい見解

 正しい思い

 正しいことば

 正しい行い

 正しい生活

 正しい努力

 正しい念(おも)い

 正しい瞑想

の八つの教え、これ以外に仏教の教えはないとまだいわれるものだと言われています。

 怠らず悪いことをしないように努める修業、私にとっては日々の生活なのですが、その中で「正しさ」を求め、「正しさ」を実行することは現段階では「正義とは何か?」の希求でもあります。

 サンデル教授の「ジャスティス・正義」の話に出会うことができ、政治哲学の視点からの共同体における哲学的な「正義論」は非常に興味のあるところです。

 哲学者はこの「正義」についてどのように考えて来たのか、これを知りたい。

 そんなことを思っていたところ『正義論の名著』(中村元著 ちくま新書)が6月10日付けで出版されました。

 プラトンからサンデル教授まで28著が紹介され解説されています。

 「人類が正義について、考えてきたこと。」

 残念なことにその中に仏教典はありません。西洋哲学の関係から関係性でキリスト教は名著中に言及されるわけですが、お釈迦様の「正しさ・正義」を「こころの時代・ブッダの最期のことば」を聴講し自分の頭で掴んでみたいと思います。

 そんなことも知らないのかと言われそうですが、「真っ新(まっさら)で受ける」も道と考えます。なぜなら宗教は、教であって現時点では間接証明による手法で伝授されます。

 したがって直接、釈迦さまの言葉を聞くことはできず、解説は宗派の教祖様の一神教的な「あなたが幸せになる、心にやすらぎを持つことができる」の教えですから、仏教学者の解説の中から、自ら見つけたいと思います。

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 故河合隼雄先生が『書物との対話』(潮河出版)の中で、宗教学や民族学のなかで、人類の宗教は、多神教から一神教へと「進化」してきたと考えることが支配的だったが、現代はそのような考えに強い疑問が提出されている事実があるとして、「一神教の影」と「多神教」の中で、デイヴィット・ミラー著『甦る神々 新しい多神論』を引用しながら次のように語っています。

<引用>

一神教の影
 デイヴィッド・ミラーは本書の第二版の序に、彼が一九七四年に本書の初版を世に出したときに、「思い切って『多神論』という言葉を使い、それを擁護した」と述べている。かれが「多神論」という言葉を用いるのに、どのくらいの「思い切り」を必要としたか、日本人にはわかりにくいかもしれない。

一神教の支配的な社会のなかで、しかも、彼自身がキリスト教の神学者であり、大学の宗教学科の教授なのである。あまり比較にはならないが、わが国の地方自治体の首長が昭和天皇の戦争責任についての発言をした場合などを思い起こしてみるといいかもしれない。

 ミラーが予想したような反撥もあったようだが、彼をもっと驚かせたのは、本書と「宗教以外の広範な分野の本との間に、考えられないほどの類似を発見したことで」あった。

それらについて、彼は第二版の序のなかで述べている。そのなかのひとつ、シオランからの引用に次のような文がある。

 「自由な民主主義の中には、潜在的な多神論が在る(それを無意識的な多袖論と呼ぼう)。逆に、あらゆる権威主義的な制度には、偽装した一神論の気配が感じられる。奇妙なのは、一神論的な論理のもたらす影響である。つまり異教徒は、いったんキリスト教徒になると、不寛容に傾く。専制君主の影で栄えるくらいなら、気のいい神々の大群もろとも沈没するほうがましなのに!」
 
 これらを見ていてわかることは、彼らが攻撃しようとしているのは、一神教の宗教そのものではなく、「一神論的な論理」なのである。もちろんそのような論理を、背後から意識的、無意識的に支えているのは一神教の宗教であることも事実なのだが。

 ミラーは、近代科学についてあまり言及していないが、筆者は西洋に発達した近代科学も、キリスト教という一神教の支えなしには考えられないものと思っている。近代科学は、人間の自我がある事象からまったく切り離されたものとして、その事象を客観的に観察することによって、その事象における因果関係を把握し法則化する。その法則は観察者の人格と関係のないこととして、普遍性をもっている。つまり、「普遍的法則」を見出すことができるので、それをどこにでも適用することができるのである。

このような「普遍的法則」は、唯一の真理(ミラーの言う大文字のTではじまる真実=Truthということ)と考えられる。唯一の真実の存在は、唯一の神の存在と呼応している。

<同書p228~p229> 

 実に重い指摘です。原子力も安全神話であったころは「一神教的な論理」で大半の人々は飼い馴らされていました。しかし神話が崩れると人々は「絶対的な安全」の「一神教的な論理」をもちなります。

 「正しさ」は常に真実の中にある。

 排他性の強い一神教的な論理に「正しさ」をどう求めたらよいのだろうか。論理学的な話は別にして、善きに生きるは、個人が個人の力でその妥協点を探りしかないように思います。

 内田樹神戸女学院大学名誉教授は『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』(バシリコ)という著書を出されていますが、『こんな日本でよかったね』的な茶化しの論理も現代社会には多くなっています。

 「茶化す」とは「ひやかす・なぶる」ことです。

 改めて私自身、厳に慎みたいと思います。

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