思考の部屋

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有間皇子の歌二首にみる

2009年08月08日 | 歴史

 今朝は、万葉集に登場する有間皇子の歌二首を書こうと思います。戦前戦後とこの歌ほど歌の解釈が変わった歌わないのではないでしょうか。万葉学者の故犬養孝先生の本を参考に話したいと思います。

 西暦645年6月に飛鳥板蓋宮で有名な大化の改新の口火が切られ皇極天皇の弟の軽皇子が孝徳天皇となり難波に遷都します。大化の改新の立役者は皇極天皇の息子の中大兄皇子です。したがって孝徳天皇は天皇の地位にはありましたが、政治の実権というものは中大兄皇子が握っていました。
 
 難波に遷都してから9年目、やはり政治は飛鳥で泣ければダメだということで中大兄皇子は天皇に進言しますが聞き入れません。そこで中大兄皇子は孝徳天皇だけを難波に残しさっさと飛鳥に戻ってしまいます。
 
 それがもとで天皇はまもなく崩御されてしまいます。ここで本来ならば中大兄皇子が天皇になるのですが皇太子のままで政治の実権を自由にできることを希望し、母親である皇極天皇は再度、斉明天皇となります(重祚)。先に亡くなった孝徳天皇には、左大臣阿部倉椅麻呂のむすめ小足姫との間に有間皇子という皇子がおられました。
 
 斉明天皇は板蓋宮で即位しますが、間もなくこの宮は消失してしまいます。そのため今度は飛鳥川原宮に移ります。しかしここもまた消失してしまいます。仕方がないので中大兄皇子の父舒明天皇が政治をされていた飛鳥岡本宮に移り政治が行われました。中大兄皇子は性格がきつく、ワンマンのところがあり、さらに都建設のために大土木工事を行いました。大土木事業ということは東国をはじめ各地から人民を徴発しましたので、豪族をはじめ多くの人びとに反感をもたれていました。したがって常に神経をとがらせ、自分には向かう勢力に対し目を配っていました。
 
 有間皇子という方は頭もよく人望があるお方であったようです。そうなると中大兄皇子は気になって仕方がありません。
 
 西暦658年10月斉明天皇は中大兄皇子とともに牟婁温泉(和歌山県白浜温泉)へ養生に出かけます。留守を蘇我赤兄に任せますが、この赤兄が曲者で有間皇子に謀反をそそのかします。当時有間皇子は19歳、赤兄は皇子に尋ねます。「今の政治をどう思いますか。」有間皇子は頭の言い方ですから変なことをいうと殺されると察し「中大兄皇子の政治は大変結構だと思います。」と答えます。

 すると赤兄は「ほんとうに貴方はそう思いますか。私は中大兄皇子の政治には、三失があります。大いに倉をたってて、民の財を集め積む、これが一つなり。長く堀を掘りて、公の宝を損費す、これが二なり。次に、船に石を載せて、運び積みて丘となす(宮建設)これ三なり。」と中大兄皇子の政治を赤兄は批判します。そこまでいわれると有間皇子もつい「私も同感です。」といってしまいました。
 
 そこで作戦計画を後日赤兄の家で二人で立てますが、赤兄の家から有間皇子が自宅に戻ったところを、赤兄は有間皇子に謀反ありと部下に逮捕させてしまいます。これが658年11月5日ころの話で、有間皇子は11月9日には中大兄皇子のいる白浜温泉に連行されていきます。白浜の着いて中大兄皇子に質問されます。
 
 「なぜ謀反を起こしたのか。」と、これに対し有間皇子は「天と赤兄とが知る。吾全(われもは)ら解(し)らず。」と答えます。この答えに対し中大兄皇子は「帰れ」としかいいません。
 
 有間皇子は殺されると思ったのに気味悪く思いながらも帰っていきます。しかし中大兄皇子は追っ手を遣わし適当なのところで殺せと指示します。そしてついに有間皇子は藤白坂というところで「自らくびらしむ」(自分で首をくくる)自害してしまいます。

 有間皇子には教科書にも登場する有名な歌があります。11月9日白浜に向かうときに詠んだときの歌です。このときは白浜に着けば殺されるという心情にありました。

一首目
磐代の 浜松が枝を 引き結び
真幸くあらば また還り見む

二首目
家にあれば 笥に盛る飯を
旅にしあれば 椎の葉に盛る

一首目ですがこの歌は過去にも「むすぶ」という「やまと言葉」について書いています。松の枝を結ぶというと、枝と枝とを結ぶことを考えてしまいますが、そうではなくて幣帛のようなものを結んだのではないかということです。

二首目の歌ですが、この歌は時代ごとに解釈が異なる歌です。

太平洋戦争前は、「家におると食器に盛って食べるご飯なのに、旅に出ているから、椎の葉に盛って食べる。わが皇室のご先祖は、まことに質素であらせられて、食器もお持ちにならない。なんとまあ、畏れ多き極みではないか」

 戦後は、「家におると食器に盛って食べるご飯なのに、今はこうした大逆犯人としての囚われの身だから、たまたまその辺にある椎の葉を取って、ご飯をのせて、さあ食えといって突きつけられる。こんな飯が食えるかという心持ちだ。」と教えられました。

 しかし、昭和31年ごろ高崎正秀当時國學院大學教授が、道祖神に椎の葉に盛ったご飯を差し上げる風習があることを知り、神にお供えする歌であるという随筆を書かれており、その後犬養孝先生が調査してみると実際に、神様にお祈りする場合に葉などに団子などをのせお供えする古い風習があったということです。

 犬養先生は次のように解説しています。

 家におると食器に盛って神にお供えするご飯を、こうし旅に出ているから椎の葉に盛って神にお供えする。この土地の珍しい風習に従って椎の葉に盛ってご飯を差し上げることで、しみじみ我が身の逆境を感じる。「家にあれば」は順境、「旅にしあれば」は逆境の場合、ああ、蘇我赤兄の口車に乗らなかったなら良かったのになあ、という悔しい気持ちがしたことでしょう。

 直接自分が見聞きすることならば、その真偽をある程度確認することができるのですが、その場にいない過去のことや、離れた場所のこと、納得の行く意見をもってい見たいものだとつくづく思います


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2 コメント

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Unknown (ネアンデルタール)
2009-08-09 06:24:50
椎の葉に盛る……僕はこれを、を中西氏の解釈をそのまま踏襲していたのですが、まさしく上記の通りだと思いました。
中西氏は、そういう学会の事情をすべて知っていて、それでもただの旅のわびしさつらさのことだといいたいのでしょうか。
ただ、犬養氏も、「悔しい気持ち」というのは、ちょっと歌の味わい方が乱暴だと思います。この歌を聞くものは、椎の葉に盛る祈りの心細さと切実さが伝わってきて何かたまらない気持ちにさせられる、ということではないでしょうか。有馬皇子の性格や知性を考えれば、そういうことになるのではないでしょうか。
然り (管理人)
2009-08-09 12:11:23
 そのとおりだと思います。通勤時間帯車の中で犬養先生のCDを聞いています。先生は情熱の人で我が心の足りない部分をいつも思い出させてくれます。
 万葉歌はいろんな感情の引き出すものが多くあります。したがって自分が今いる位置でその味わいも変わってきます。戦争中兵士の持っていける本も制限されたのですが、持っていけるものの中に万葉集があったことはある面では救いであったかもしれません。
 コメントありがとうございます。貴殿のブログしかり見ていますよ。

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