思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「あの日の星空」の汝の声について

2019年03月22日 | 思考探究

前回のブログで、3月11日にNHKで放送された3.11東日本大震災ドキュメンタリー番組「あの日の星空」という番組について少し触れました。

2011年3月11日の東日本大震災は未曽有の災害をもたらしました。地震それによる津波という自然災害に遭遇し家族の生命を奪い、財産を押し流され、どうしようもない憤りと深き悲しみの只中で、被災者が見た星空の話です。全人間的な宗教体験であったのか、われと汝の対話のような実際に起きた不思議な出来事です。

 津波と揺れによる災害で電力送電が停止し人工の光が失われた夜、空を見上げると満天にきらめく星々、それを「きれい」と言葉で表現するのは不謹慎と思われたが心を揺り動かす記憶に刻まれる光景であったといいます。

 娘と孫を失った老夫婦、今もあの空を忘れません。孫の夢を見る。「お母さんは?」と聞くと「そばにいるよ」と答えたといいます。「あの満点の空の星が娘と孫が天国へ行く案内人としてあったのではないか。」と老夫婦はそのように話されていました。

 小さな星まですべての星が輝いていた星空、「全戸停電で人工の光がないからよく見えただけだ。」と言われても、そんなことでは納得できない心を動かす何かがありました。アプリオリに「きれい」と感じてしまう体験、純粋経験です。経験知識からわかるのではなく、魂の根底からわき出る感情認識に思われます。

 NHKには、番組を見た多くの方々からレビューが寄せられ体験者の「悲しいくらい星がきれいだ」と表現をする方の言葉もありました。


 「悲しいくらい星がきれい」

 被災地に住んでいたわけではないのですが、この言葉の意味を共有できるように感じました。ありとあらゆるものを破壊する自然現象、人から見れば破壊に違いないのですが、そこに破壊の意図を持つ主がいるわけでもなく総じてそうなるべくして現象が起こっているだけの話です。

 しかしそのような現象により発生した悲哀の感情の中で、なぜ「きれい」と感じてしまうのでしょうか。問いの相手のない話で、不謹慎と思いながらも心の底の汝が語るようにそれは「きれいだった」のです。

 この番組を見て伊勢湾台風当時の記憶として「夕焼けがきれいだった」ことを思い出し感想を書き込んだ方もおられました。
 この夕焼け空で思い出すのが、有名な『夜と霧』の著者である実存分析精神科医のV・E・フランクの体験価値の話です。人間は人生から期待されている存在であり、人生に意味を求めて生きている。実体験の中で意味転回を与えられるような出来事があり、生きる意味が失われそうなその時にその苦難に手をさし伸べてくれるという話です。

 人生に意味を与える価値には、創造価値、体験価値、態度価値の三つがあり、「悲しいくらい星がきれい」という体験は、その中の「体験価値」というものに当たると思います。

フランクルは著書の中で、その体験価値は次のように語られています。

 体験価値は世界(自然、芸術)の受動的な受容によって自我の中に実現される。これに対して態度価値は、ある変化しえないもの、ある運命的なものがそのまま受け容れられねばならない場合に至るところで実現されるのである(フランクル著『死と愛』霜山徳爾訳 みすず書房p120)。

事例としては、彼の著書の中に語られています。

<夕焼けの風景>

 若干の囚人において現われる内面化の傾向は、またの幾会さえあれば、芸術や自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、われわれの環境とその全くすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。

アウシュヴィッツからバイエルンの支所に鉄道輸送をされる時、囚人運搬車の鉄格子の覗き窓から、丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれのうっとりと輝いている顏を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片づけられてしまっている人間の顏とは、決して信じ得なかったであろう。

彼等ほ長い間、自然の美しさを見ることから引き離されていたのである。そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍で苦役に服している仲間に、丁度彼の目に映った素晴しい光景に注意させることもあった。

たとえばバイエルンの森の中で(そこは軍需目的のための秘密の巨大な地下工場が造られることになっていた)、高い樹々の幹の間を、まるでデューラーの有名な水彩画のように、丁度沈み行く太陽の光りが射し込んでくる場合の如きである。

あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。

 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。

感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞えた。(霜山徳爾訳『夜と霧』みすず書房p126~p127から)

そして、次のような話も書かれています。

<死に逝く女性の言葉>

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。

「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」

と言葉どおりに彼女は私に言った。

「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」

その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。

「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」

と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。

「この樹とよくお話しますの。」

と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女はせん妄状態で幻覚を超しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。

「樹はあなたに何か返事をしましたか?-----しましたって!-----では何て樹は言ったのですか?」

彼女は答えた。

「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-----私はここにいる-----私-----ここに-----いる。私はいるのだ。水遠のいのちだ・・・・・。」(上記書p170~p171から)※せん妄状態とは、軽度や中等度の意識障害の際に、幻覚・錯覚や異常な行動を呈する状態のこと。

 体験価値という概念は、そのような機会があるという話ではあるのですが、自然は、災害という悪で人の心を蹂躙する一方で、一変してその姿を別感情で受ける作用をします。

津波で押し流された瓦礫化した山、その向こうには陽の光を受けきらめく波と青々とした海の光景があり、夜になると街灯やネオンの灯などの人工の光は消え、満天の星が「悲しいくらいきれいに光っている」という自然の日常が見えているだけなのにそこから問いかけられるものがあるのです。

 今まさにその瞬間に開かれる意味転回の場です。それは知識や経験に先だつ体験で純粋に「きれい」の体感です。ある人は娘や孫の案内人としての星の意味取りを行い魂の安らぎを得ます。まさに悲哀の真中(まなか)に、生きる意味を投げかけられた瞬間の「かなしいほどのきれい」だったのだと思います。

「あの日の星空」が多くの人々が共有できる意味の場でもありました。何事かへの敬信の発芽の場と捉える人もおられるかもしれませんし、私は、我がとらえる内なる汝の声のように思えました。


「壁ドン」から思うこと

2019年03月13日 | 思考探究

 今回もシルバー川柳(ポプラ社)の印象に残ろ一句を話のタネ、ネタにします。

「壁ドンし 伝って歩く トイレまで」

 東京在住の79歳の男性の句。思わず笑ってしまいます。しかし深刻と言えば深刻で、今現在自分自身がそのような状況下にない、切実なる悲哀の中にいないから感じないのかもしれません。

 若者の愛の告白のまさに壁ドン。「壁ドン」という言葉、誰が最初に発したのでしょうか。

 もともとはアパートなどで近隣がうるさいときの壁を叩く様子など、どちらかと言えばネガティブ的な言葉が、壁の背にした女の子に向き合う男性が壁に手を「ドン」とつけ告白するONEシーン。そのうち辞書にも掲載されるでしょうねぇ。

 悲劇と喜劇、これは決して相反するものではなく両合わせの感情のようなもの。あまりの悲しさに笑ってしまう。映画の一画面ではありませんが、最近も大震災の記憶の中の番組で、悲惨な津波被害の中で、夜空に輝く星を見つめ、その美しさに驚いた話が語られていました。

 宗教学者の山折哲雄さんが、震災後現地で見た海の青さ、輝きのすごさに圧倒されたことをある番組で語っていたのを思い出します。目の前には津波で押し寄せたがれきの山、その向こうに白波を立てながら青く光り輝く海、美的感覚でいうところの「うつくしい」光景なのです。

 山折さんはその際に「自然というもの」について「自然現象を含めた自然の姿は、人間の目からすれば残酷なこともあり、また美しさを感じさせるものだ」と語っていました。

 冷酷の反義語は温厚ですが、残酷の対義語は何なのでしょう。
仏教では縁起と相依関係の中の話に、

愛と憎しみ
という言葉、漢字二文字で「愛憎」が出てきます。国語で言うなら対義語、反対語ということになります。

 反対語というと感覚的には、プラスマイナスの逆転のように感じられます。愛情がなくなると場合には憎しみが生まれてきます。愛するがゆえに憎しみが倍増する、などという人もいます。愛の絶頂点が逆転すれば想像もできないような事態が発生しそうです。

 愛を求めて求愛行動に出て拒絶されると憎さ百倍の行動に出て殺人までに発展することも周知の事実です。

 悲哀の反対語は歓喜
 残酷の反対語は情け深い
 悲劇の反対語は喜劇

 震災後の海、震災後の天空の星々の輝き、自然というものは人間が考えるような反対語や反義語の情景を作り出しているわけではなくあるがままがそこにあるだけです。
 しかし人間は相互依存の存在として、依るべき言葉に支えられています。救われるべき人には救われない人が反対の場におかれています。喜びの場は、反対の場の悲しみがあるからこそ引き立つ感情の感覚として現れます。

 「壁ドン」からかなり離れた話に移っていますが、ここで「理性」という言葉を考えてみます。この反義語は「感情」とどんな辞書でも、それぞれの知識からもそう思うに違いありません。

 「理性で高ぶる感情を抑える」などと表現しますが、理性の反義語は感情なのでしょうか。

 理性というものは、意味の場を持つ言葉で、共通感覚的を持てる世界観をないと、別の世界観で生きる人々にはその理性的判断は理解できません。
「すべきことはしなければならない」「守るべきことは守らなければならない」

このような命題に従うならばアイヒマンの機械的従属状態であった彼の行動も理性的な行動になってしまいます。

 当然、感情の反対語は理性と出てきます。一瞬、無感情ではないかと思い冷血的な様相を思います。

 アイヒマンの行動が冷血極まりないものであったことは、それは彼の理性的判断による選択と行動であったわけです。

 海の青さ、星々のきらめきは感情を揺り動かす光景。

 そういう時に理性などは出てきません。唯々あるがままの光景がそこに、むこうにあるだけです。

 迷惑行為に対する警告の「壁ドン」も今ではその意味が大きく変わっています。

 今回上げたシルバー川柳「壁ドン」悲劇ですが喜劇に反転し、笑う私を作り出します。


シルバー川柳で聞いてみる

2019年03月11日 | 思考探究

国会中継を見ていると質疑応答の様子、周辺から聞こえるヤジなどその騒々しいあり様を「だれもがいつものこと」と思うに違いありません。

 これが突然、静寂に包まれ、誠実な質疑応答が行われたならば、「どうしたのだろう?」と私は思ってしまいます。いつものような騒々しい、喧騒の風景が国会の意味の場と思うに違いなく、国会の持つ「空気」はそういうもので、議員はそういう空気に触れ、その場のにおける当たり前の「私」を作り上げているのかもしれません。

 最近はどんなことを言われても「バカヤロ!」と叫ぶ方もなくなり、空気感も変化するようですが大きな変化はないように見えます。

 話は変わりますが、川柳と言えば「サラリーマン川柳」が有名ですが、「シルバー川柳」もかなり有名でつい最近「第8巻 書き込んだ予定はすべて診察日」(ポプラ社)を進められました。進め気くれた人はカラオケ友達の70歳は超えていると見えるおばあさん(女性ですので年齢は聞いたことがありません)、誰かに話したくてバックに入れてきて見せてくれました。

 実におもしろい。いきなり面白い。

「朝起きて 調子いいから 医者に行く」

埼玉県の77歳の男性のもの。本の次項には水彩が掲載されていて、この川柳に合わせた「バス停の椅子に座ったバスを待つ一人の老婆」が描かれています。

 この面白さに生来の思考好きが動き出します。たぶん誰もが面白い、可笑しいと思うに違いありません。

 共有できるこの「おもしろさ」「おかしさ」は同じ次元の「意味の場」にいるからでしょう。これは確かに善しの世界です。しかし、

「歳をとればみじめなものだ」

と思う人もいるかもしれません。そういう人は、この本を読もうとも思わないし、私のように借りればいいものを購入するようなことはしないと思う。

 この川柳の中に次の一句がありました。

「siriだけは 何度聞いても 怒らない」

というのがありました。東京都に住む32歳の男性の句で、最初意味がさっぱり解りませんでした。「siri」って都市伝説なんですね。私が呼びかけたら「私はアシスタントですよ」と怒られたような気がしましたから「怒らない」は誤りだとは思うのですが、暇な一日iPhoneに話しかけている老人が想像できます。

 「何度聞いても」

「siri」を解説すると闇に吸い込まれそうなので止めますが、何度たずねても可。予想もしない応答があります。

 多分怒らせるようなことはしないほうがよいかもしれません。

 誰が言い始めた都市伝説かは知りませんが、「空気」ですね、「風」ですね・・・とこういう話を書くと「水」をさす人が必ず現れるに違いありません。

 このシルバー川柳は、あっという間に読める本ですが途中でやめます。閉じる頁には

 「くたびれる 何もせんのに くたびれる」

 という東京都の83歳の男性作品でした。

※「siri」についてはご自分で調べてください。


「意味の場」から「空気を読む」について

2019年03月09日 | 思考探究

長いこと思考題材としてマルクス・ガブリエルの「新実在論」が頭の片隅に置かれているのですが、その中で日本人の行動形式に関係した駅の改札口における自然な日常行動についてガブリエルが「日本人の場合は客観的な面を気にした上で、体面を保つための道徳行為だったりするのかもしれないね。」と語っていることに多くの思考課題を与えられたように思う。

彼の言動に日本人は自律的、自立的でないように言われているように感じ、ドイツ人の彼から見ればそのように見えるという意味で非常に参考になります。

彼が「新実在論」で語る「意味の場」、個人、家族、地域、自治、国、世界と思考視点の置き場を移行すると、それぞれの場における自分自身の「在り様(よう)」が創造され、個性が現れてきます。

上記の改札口は、「意に沿わないシステムだから」と使うことを拒否できることでもなく、切符を購入し列車に乗るという一連のシステムがより合理的なシステムにバージョンアップしただけで、考えて見れば近い将来には個人識別カード常態保持、個人認識システムなどによりシステムが違えども今のドイツのような素通りになっていくのは確実です。

 見える現象に自律的、自立的を読み取ろうとしたことが、こうなるとそう考えようとすること自体が現れてきません。

 過去の改札口からすれば、合理的なシステムにおけるその素通りは「当たり前」「当然」で、「当たり前」「当然」という言葉さえ合理的システム構築後の新人には現れてこない言葉となります。

 世の中に自己に見える相異の状態も、それぞれの意味の場の時代推移によって相異のない日常になるわけで、変わりなき空気、変わりなき水がそこにあるだけです。

 日本人には独特な「空気」があると語ったのは山本七平さん、ある意味彼のもつセム的一神教からの思考構造が『空気を読む』になるのかもしれません。彼が語る日本人独特な「臨在感的把握」、社会学者の大澤真幸さんは「何かプラスアルファの力がモノや記号の背景に宿っているという感じ方」と要約しています。

 空気を読む、雰囲気を読む、そして忖度と確かに日本にはだれがそのようにするのが当たり前と個人の意志でもないのにその雰囲気に従うことが善しとするところがあるように見えます。

あなたがそう決めたのでしょうと問うたところで、忖度の二語に問いは消えます。そういう空気に触れ、そういう水に流され、そういう風が吹くと、ひとはなびく。

善し悪しの次元を超えた「意味の場」がそこにあるように思います。

 その場から離れた別の「意味の場」から見れば恐ろしい事態かもしれません。

 最悪の事態という現象は生命・財産への侵害としてあるもの。そのような現象との遭遇から現れる思考に「そうならないための工夫」があります。

 そうなった「意味の場」から問いとして提案されます。これは一つの光、希望として放たれる矢ですが、その「意味の場」においては「とどめ的(まと)」はありません。

 この「とどめの的」については以前ブログにも書いていることですが、『空気を読む』に事態の回避策についての言及がないように「意味の場」が異なるからでしょう。


人生を見つめる審美眼

2019年02月26日 | 思考探究

テレビ東京の番組に「開運!なんでも鑑定団」という骨とう品を扱う番組があります。長野県は放送が1ヶ月遅れで放映され、先週正月3日の番組がありました。

 “開運!なんでも鑑定団」のお正月スペシャル!”ということで「今回は「目利き選手権」と銘打ち、芸能界の「目利き」を集めて、クイズ形式の内容でした。ゲストは、美川憲一、片岡鶴太郎、前田日明、山口恵以子、小島瑠璃子の5名でそこへ司会の今田耕司が加わり6名でその真贋を競うというものでした。

『真贋』を小林秀雄先生は書かれていますが、骨董の世界ではニセ物とは言わず、二番手、ちと若い、ショボたれているというのだそうですが、本物か否か小林先生ならば真贋を見分ける目は確かのように思えますが、実際はそうではないようで、鑑定してもらうと「いけません」が多く、「以後これに懲りて他人に鑑定を依頼したことはない。」ということでした。

 「自分の審美眼を信じて書画、骨董のいくつか手許に集まったが、真贋の程は当然の事ながら定かでない。」ということで、番組も6人の「審美眼」がよく表れていたように思います。

 中でも一番面白かったのはタレントの小島瑠璃子さんで骨董については全くの素人、それでも勘を頼りにかなり良い正解率でした。いま勘と書きましたがいわゆる第六感のことです。問題の中に「J・フォートリエのデッサン」の本物はどれか、というのがあり、その時の彼女の審美眼の言葉が印象に残りました。描き方等の特徴をあれこれゆうのではなく、自分には本物を見極める能力がないので「描かれている紙が作者のアトリエに合う」と答えていました。

参加者の中には俳優の傍ら絵を描き書道をたしなむ方、実際に骨董商になろうと勉強している人、当然司会の今田さんは長年番組を担当し骨董に対する知識は豊富、小説家の方もそれなりに芸術に対する審美眼があるようでした。

その中で小島さんの特異に感じられたのです。

「描かれている紙」は確かに日本画の和紙のようにその時代に作られてものでなければ明らかにニセモノ、しかし彼女には紙質の時代評価の知識はないはず。他の作品の紙と比較してのまさに直感なのでしょう。

 判別のための思考視点を紙の比較に置くところは私の発想にはありませんでした。それは雰囲気というほとんど感にたよるもの。その結果は大正解でした。

知識に頼り、審美眼を信頼し判定を下す。結果誤りを招く人もいる。長年の知識から誘発された直感かもしれませんが、錯覚というものを招くものは何なのでしょう。

芸術的センスで何者かが描いたもの。

そのセンスがわからない場合はどうしたらいいか。

最も近いところに少しばかりの勘が働く。

実におもしろいと思うのです。武田鉄矢さんが紹介していたふろむだ著『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』(ダイアモンド社)、これによれば人間は錯覚するように作られているようです。

 見た目が美しい男女(ひと)は、性格も頭もよさそうに見えるもの。そうでないと思ったところでそれなりに接し方が違ってくるものです。

 勘違いとは勘の錯覚でもあるわけです。

柔和な指導者はすべてが品のある行いに見えてくる、しかし実際は極端に偏向的であったりすることもあります。

人生を見つめる審美眼、その人固有の能力、それを育てるものも社会からの影響もあるかもしれませんが、おのずから、みずから作り出して成る、のでしょう。


思考の転回の只中で思うこと

2019年02月23日 | 思考探究

 「人間の尊厳」という言葉を聞いて、おぼろげながらもその意味するところが「分かる」とはどうどういうことなのか。

 既にブログに書いた話ですが、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルが語るドイツ国民のコンセプトについて、彼は次のように語っています。

 「カントによる人間の解釈は、ドイツ憲法の最初の一文にあります。「人間の尊厳は不可侵である」これがドイツの憲法であり、「人間の尊厳」はカントが僕たちに与えてくれたコンセプトです。(『マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書・p172)

 ドイツ人の日常行動には内的な倫理的・道徳的な基本的原則、貫かれ骨格として「人間の尊厳」があると語っているように思われました。

 日本の駅の改札口を見たガブリエルさんは、

 ドイツ人の主観はまさに「ドイツ観念論」で掲げている通りに働く。人々は自分自身を「定言命法」(条件なしで「○○すべし」という命令)にさらす。客観的な視点なんて気にしない。すべてのメカニズムは内なる観念を元にしているんだ。つまり、道徳的行為というものは客観的判断ではなく主観的な判断で有無を言わずに行うべき、しないという選択肢はないというのがドイツ人は持っている。それに対して日本人は客観的な面を気にした上で、体面を保つための道徳行為だったりするのかもしれない。(同上記書p33)

 ガブリエルさんが見た駅の改札口は、日本人には見慣れた自動切符改札口、人々は切符投入口に切符を入れ通過するだけの風景です。日本のあたり前の日常の光景、中には不慣れな方もいるかもしれませんが、特別違和感を覚えるようなものではありません。

しかし、ガブリエルさんはその駅改札システムを通過する人々を見て「日本人は客観的な面を気にした上で、体面を保つための道徳行為だったりするのかもしれない。」ということを読み取るのです。

 共通の一形式の履践を従順に行う人々、そこに他者の「まなざし」「疑いの眼(まなこ)」のような自己の不正義の抑制を他者の力に頼る行動スタイルと、ガブリエルさんは見て取っているように思えるのです。

 ドイツではこのような改札口は必要ではないからこのようなシステムは存在しない。この「不必要」の理由は「人間の尊厳」という理解の仕方にもあるように思えます。鉄道会社が「信用しているから」といったような第三者が許容する以前の、徹底した定言命法が、ドイツ国民には備わっている、そうするのがドイツ人である、したがって疑念の起きようがないとからだと言っているのです。

 ガブリエルさんが直接このような解釈をしているわけではありませんが、実に面白い話です。

「人間の尊厳」には当然、個人の尊厳も含まれるわけで、実存する個の主体は、存在としての自覚をまさに顕現しています。

 私個人の話ですが、「私を馬鹿にしているのか」と、ののしられた言葉に反応し、「尊厳を傷つけられたから」と思うよりも、「卑下されたから」という憤りの感情が先に立ちます。

「辱めを受けた」と言葉を変えてもいいかもしれません。「卑下された」「辱められた」には、確かに他者のまなざしがあり、世間にさらされている私があるように見えます。

ガブリエルさんは都会の主要駅の改札口を見た時に、そのような発想を得たわけです。しかし、都会人は他者の目を気にしている人は、田舎ほどいないと思うわけで、人々はいつものように、これこそ「なすべき実践」を履行しているだけであって、ガブリエルさんの発想は、「自動改札口」の存在そのものの違和感がそう発現させたということになりそうです。

「もの」「こと」の存在や現象が放つ矢は無数にあり、人々の内心を射止めます。

 今回は「人間の尊厳」という言葉を聞いて、おぼろげながらもその意味するところが「分かる」とはどうどういうことなのか。

という書き出しで始めましたが、評論家の小林秀雄さんは「“わかる”ということは知ることだ」と言っていました。知れば知るほど読みの足りなさを実感します。


著名人の醜態からの問いかけ

2019年02月18日 | 思考探究

安倍総理も「人間の尊厳」という言葉を使ったようです。オリンピック水泳競技女子選手の病気に対する大臣発言について「大臣はそのような人ではない」という意味で使用したようです。
 人間の尊厳を傷つける人、そういう人は人格者ではないと一般的には考えます。その行いから人権擁護者、愛溢れる人格者のように見える人々、実際あったわけではないのですが一部を見て、その人の全体をイメージしそのように結論づけます。
 最近の報道記事に、著名なフォトジャーナリスト(75歳)から性暴力やパラハラを受けた計5人の女性被害者の証言を受け、写真誌を発行する出版社の代表取締役でもあった同人を同社が解任するという内容のものがありました。

 彼は、チェルノブイリ原発問題やパレスチナ難民問題の報道で有名な方ですが、女性たちの証言に対して「指摘の経過をたどって性交渉に至ったとの記憶はない」「これまで性交渉をした女性とは合意があった」と文章で回答しているとのこと、こういう言葉から彼の下半身は自由気ままな愛欲を謳歌したようです。

goo辞典によると、「謳歌」とは、
1 声を合わせて歌うこと。また、その歌。
「或は之を諷詠し、或は之を―し」〈柳河春三編・万国新話〉
2 声をそろえて褒めたたえること。
「世は名門を―する、世は富豪を―する」〈漱石・野分〉
3 恵まれた幸せを、みんなで大いに楽しみ喜び合うこと。
「青春を謳歌する」「平和を謳歌する」

という意味で、彼の性生活は、それぞれに「大いに楽しみ喜び合う事」であったことが彼の証言からも推測されます。

 でも実際は、彼が思っていたのとは異なり相手をした女性は謳歌どころではなく屈辱的な辱めであったのでした。お互いの愛欲のなせる性(さが)ではなく一方的な強制力による片欲であったようです。当事者間で行われた行為の状況を過去に戻り見ることはできませんし、秘め事ですからそもそも不可能なことです。

 第三者の立場でこのような報道に触れ、一筆書くに至る私は間違いなく、好き者です。

 他人事なので好きなように書きますが、事実をありのままに報道する写真家が人格者に見える。巨大な力によって弱者が押しつぶされていく姿をこのままにしておけない、万人に知らせる義務がある、人としての責任を感じる人のように見える。そういう人を人格者と呼ばずして何と呼べるのでしょうか。
 何か尊い優れた功績があった人。ユング派ならば、人なるが故の影というかもしれません。
 人類の世界的な繁殖をみれば性行為は決して影ではありません。原生動物でも何でもかんでも死亡の分裂複製が無ければ種を継続できないような仕組みになっている以上、人間の感覚の中に愛欲の感情、衝動と言葉で表現するような事の成り行きが組み込まれている。

 性癖というものは、癖の中には強制を好み、従属を好む人もおり実に多様です。

 そのような出来事が実際に有ったか否か、先に書いたように私にもわかりませんが、紙上をにぎわすこれは何だ、と思ってしまいます。
 己の生きざまを考えさせてくれる一つの指標、現象は常に私に期待しているようです。
 私の過去には無かったこと、起こさなかったこと、と公言できるだけでも幸いです。名誉も地位もない私には残り少ない人生においてこれまでと同じように起きることはないように思う。しかし、灰になるまで・・・という格言もあることから自覚意識が衰えぬうちは自己を失わないようにしたいものです。

「さらす」という言葉があります。「晒す」「曝す」という漢字で、

〇外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。
〇布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。
〇人目にさらす。

という意味があるように、今回のこのあり様は取りようによっては精神の浄化への期待なのかもしれません。そう理解するのは75歳の彼ですが。

 彼が代表取締役を務めていた出版社は写真誌の売る上げが不振であることから休刊し、3月20日に性暴力の検証記事を掲載する最終号を発売する予定とのこと。代表を務めていたという自著出版社の検証とはどういうものなのか。最近はやりの第三者組織ではないことは確かです。


共通認識できる同一計測器を持つことができるのだろうか(同一理性)

2019年02月17日 | 思考探究

 「新実在論」を語るドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさん日本語訳の書籍も出版され「哲学書がこれほど売れることはなかったのではないか」という書店の方の話が関係番組の冒頭で放送されていました。

ある女性は「英語はよくわかりませんが家に飾りたく買いました」と言いながら翻訳本ではなく原本を購入する姿もありました。ある男性は「多様性と言われる世の中で、苦しさを覚える人もあり、(この本が)何か新しいものを教えてくれるのではないか」と話されていました。

 「多様性」という言葉が際立つとき、総括統合された、一律的な全体は成立するのだろうかと単純に考えればそれは不可能であると考えたくなります。

 個々の倫理観、道徳観もまた「観」と漢字がつくところからもわかるように脳裏に浮かぶ、浮遊する思考し生れ出るような産物でそこに個性が現れるのは当然のことに思います。

 個々それぞれに意味の場があり、思考はその意味の場で働き、個の存在場所の意味の場はさらに意味の場を加え、一歩外に歩み出れば世間の意味の場が現れてきます。

よく「平和な日本を壊すのか」という言葉を聴きますが、ここに帰れば貧困に悩み、借金に悩み、病苦もあれば・・・・心の安寧はそれぞれの場においてなければ全体の平和は見えません。そこには大きな矛盾が隠され、それでも矛盾のままが全体を問題なしの平衡にあるように思わせてしまいます。

 人々が同一の倫理観、道徳観を持ち生きるならば、良いのではないか、そうなれば平和で貧困もない、誰もが幸せに生きられるのではないかと希望したくなります。

 しかし、勘違いもあれば、違和感を覚えることもあり、何から何まで多様性に翻弄されてしまいます。最低限法治国家ですから法順守でと他人か決めた条文条項を徹底して守り抜いたならばよかろうと思うのですが、思想的な教条主義ならば異端者は除名でもすればよいのですが、犯罪がない日は無く、セレブ生活をする人から路上に生きる人などがいたり、子どもを虐待死させる親もいれば子を支える親もいます。

 勘違い、違和感は己の内の尺による選別衝動かと思うのですが、争い無く折り合いの中で安寧を願うのですが、色メガネとも思われる識別はなぜに在るのでしょうか。

 理性的でありたい、と思ったところで個々の尺度、多様の色彩(複雑な色合い)のレンズによって観るしかない私自身も能動的な根源からにじみ出るものがわかりません。

 「理」とは「ことわり」で、「そういうこと」のそういう「ところ」がつかめません。その点ドイツの「人間の尊厳」という憲法の前文に記載されている言葉、具体的にこういうことだと意味を語れませんが「私を含めて傷つけないで!」的な宣言を感じます。この言葉は、「貧しきものに愛の手を!」「すべての人が平等でありますように!」のような言葉と何かが違うのです。

 言葉で何事かをつかもうとしまう。人間の尊厳ですから同一生命体の他の動植物の尊厳を考えてしまいます。昨年日本政府の国際捕鯨委員会からの脱退決定が報道されました。 「同委員会に於ける捕鯨の考え方について日本側と全くそぐわないことからこれ以上、この団体に所属していてもしようがないという結論に達した」からのようで個人的には過去にクジラ肉を食したことはありますが、無ければないで食べたい思いは出てきません。

 「クジラ肉を食する文化を守れ!」よりも、世界は「鯨の尊厳」というかクジラの「命」の尊厳を最優先すべき流れになっているようです。そう言いながらも世界中では牛や豚や鳥などの動物が食され、そこに「命」の尊厳は現れません。肉によっては宗教による選別はありますが、それは別の意味の場における事の現れです。このような事柄は別角度から考察すると同一の重さのある話ではなく、そもそも同一計測器にのせる話ではないのです。

 全体は部分の集合体であり、多様性はの言葉は部分を表していること。同一の計測器といいましたが「平衡」のとれる場がそもそも存在するか、と疑問に思ってしまいます、均一衡量を作れることができるか、と個々に異なる現れに思ってしまいます。

 文化放送の毎朝放送されている「武田鉄矢の三枚おろし」、今週は「勘違いさせる力」と題してふろむだ著『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』(ダイヤモンド社)をネタ本として話されていました。

 その書籍や番組を紹介しようということではなく、「勘違い」という言葉に注目していたことから共時性を感じたわけです。一部を見て正しいと思う。すると全体も正しいと思うことはよくあります。

 電車などで老人に席を譲る人、思わず「道徳的な人だ!」と感動し私生活もきっときちんととしているのだろうと定かでないのに思ってしまいます。部分を見て全体を見た錯覚に陥る。全体そのものは無く確証性のないことです。

 細胞のごとくに消滅と生成のくり返しのようで、思考も否定と肯定のバトルのようです。平衡で止まるものではなく流動の営みの中で、ひたすら人間とは「そういうこと」と錯覚する性(さが)体のように見えます。

 


「冬隣」から思うこと

2019年02月12日 | 思考探究

 「ちあきなおみ」という名を聞いて昭和世代なら「あの人のこと」と分かる人が多いかと思いますが、平成生まれの人になると知る人も少ないかと思います。 

 歌手を引退されてからは「ちあきさん」がメディアに登場することはありませんが、まだ活躍されていたころのお顔と歌唱だけは今も見聞きすることがあります。
 最近YouTubeで歌謡曲を聴いていたところ彼女の唄う『冬隣(ふゆとなり)』を見ることができました。冬隣とは季語で、言葉の意味するところは、
 「立冬を目前にして、冬がすぐそこまで来ていることを表す。四季それぞれに、「隣」の一字をつけて季題とした。「冬隣」は寒く厳しい季節に向って心構える感じがある」

とサイト検索すると解説されていました。曲は、作詞吉田旺 作曲杉本眞人で同曲を歌っているのは「ちあきさん」の他に作曲家の「すぎもとまさし」も歌っています。
 歌詞の内容ですが、愛した男性があの世に行き残された女性が心の内を語るというもので、「ちあきさん」ご本人の境遇、心境を語っているようです。

 境遇とは、愛しうる人との別れの運命

 心境とは、残されものが味わう悲哀

と思うわけで心境だけでいいのでしょうが、実際ご本人が夫に先立たれ、それが引退の引き金となったこと、そのような境遇に見舞われる彼女におとずれた無情の運命を詩(うた)に感じたからです。
 歌謡曲と限定するわけではありませんが、詞を語る主人公がそこに登場し、その語り人の性別がある場合があります。この冬隣は女性の語り歌で普通は女性が歌い手になります。

 しかし、実際には男女の別なく吉幾三さんなどは女性の心情を歌う曲が多くあり、聞いていても違和感を覚えません。今回取り上げた『冬隣』は作曲家の杉本眞人さんも唄っています。

 違和感の有無、これも場の持つ空気感、空間の雰囲気で、それは個人のみの特殊な場合もあれば、小集団、多集団内での一般的に共有できるものです。

 一般的な対話の中で男性のオネエ言葉に出遭うとびっくりしますが、唄の場合は「あたし」という言葉を男性が使っても驚くことはありません。

 実に不思議な話で、特に『冬隣』という曲は愛する人(男性)の死を題材にし、そこで語(女性)られる想いの吐露は性別の分節(男女別)を超えるのでしょうか。

 どうでもよい個人的に不思議さを感じるわけで、不思議とは、「なにゆえ」という問いを投げかけられていると思うわけですが、思考に思考を重ねたところでこれといった答えは出てきません。

 命にかかわるような危機迫る大事でもなく、「そういうこと」と簡単に片付けるのも得策ですが思考好きの私は何事かを語りたくなるわけです。

 歌うことに関してもう一つ、歌を唄ているときに身振り手振りをしながら唄う方がおられます。私もその一人です。一五木ひろしさんはすぐに拳(こぶし)を想いだします。力を込めて言葉の強調、リズムをとっているように思えます。
女性ならば舞の姿を見ることもできます。

 アリストテレスは「理性がわれわれの手をして手たらしめたのであって、その逆ではない」と言い西田幾多郎先生は「しかし私はさらに一歩を進めて、理性をして理性たらしめたものもまた手であるといいたい(形成即理、理即形成)」(池田喜昭著『西田幾多郎の実在論』(赤石書店p63)と言っているようです。

 私は、この場合の「理性」は客観的に見た「善悪」の分節的なものではなく生命の奏でる理のように理解しています。

昔の歌手の方で直立不動の姿勢で歌を唄う人もおられましたが、それもその人の表現なんでしょう。

鉄拳を高々と掲げ大衆を扇動していた人、手かざす人・・・それぞれにまた言葉とともに世界を作ります。


個人空間の誕生に思う

2019年02月08日 | 思考探究

 NHKの歴史ヒストリアで銅鐸の歴史が語られていました。古代に興味があることから見たところいきなり古美術商の銅鐸1センチ100万円の話から始まり7000万円で文化庁に売った話が語られました。その時脳裏に浮かんだのがボランティア活動をする尾畠春夫さんの姿。年金一か月5万円少々の中、切り詰めながら人のために命を削るその姿です。

 このように語る私自身の精神の内は、古美術商に近い存在でこの世に現れているように思います。65歳に間もなくなり年金では暮らしていけないので平日は事務系の仕事を365日の1年間暦のとおりの生活をしています。休日は好きな歌謡に興じ、妻には知らないうちにご迷惑をかけているかもしれませんが、極力他人には迷惑をかけないように心がけています。
 勤務先自体が利潤追求する会社でないこともあり、与えられた仕事を時間内に終了すればよく利益という「欲」は生ずることはなく「欲」が生ずることがあるとすれば早めに効率よく仕事を消化し好きな本を読むとか音楽を聴くなどがあるかと思います。

 経済的な面があり、食生活はもちろん家を持ち、車を持ち等で生じる減価償却に対応するには働けるまで働くが当然のように感じ、65歳で後進に道を譲っても、別な仕事をするつもりでいます。

 このように考えると人はそれぞれの個性において生きているということができます。これは私の空間であるともいえ、また守備範囲ということもできます。現象学的地理学者のイーフー・トゥアンは著『個人的空間の誕生』の中で空間の分節化ということを語っています。マルクス・ガブリエルの全体の世界は存在しないという哲学を別視点から哲学者ではないものが語る話です。
 人類誕生から考察すれば家族は人間の小さな集団です。子どもは小さいときには家族と堅く結びついたある意味より所として権威のある独立した存在です。
 その後は一族的な小集団に人は属し、権威のある独立した中で役割をもって生きることになります。
 これを現代において考えるならばまず家の空間は、子どもの視点で考えると成熟するにしたがって自分自身を意識の中心として自覚するに至れり、おのずと単純に家族に属しているわけではなく芽生えが出てきます。

青年期の人間は、ときどき家の中で家族から遠ざかる必要性を感じ、子ど部屋があればそこが彼らの空間になり、外出という行動にも出ます。

幼稚園、小学校の入園、入学時よく泣く子を見かけます。母親から離れることに悲しくなり、別空間にいる人々に不安を感じているのかもしれません。個人的には過去を振り返れば、母から離れたり、家以外での空間に不安を持っていたように思います。

 個人空間は狭義の空間もあれば広義の空間もあるように見えます。断っておきますがイーフー・トゥアンがそう述べているわけではなく、空間の分節という話から問いを受け、私の思考で思いつくままに記述しているだけです。
 自己空間というものは、視点を内と外、主観と客観の思考視点でみるならば、空間は分節され、統合され、また分節というようにくり返すように思われます。

 生きる空間を決めるのは何か。空間と定義するから何かと説いてしまいますが、日常そのような空間は意識することはありません。雰囲気を感じながら淡々と息づいているだけです。

 文頭で語った古美術商と尾畠さん、客観的な視点からそれぞれの空間があり、雰囲気を感じます。実際に会ってみると違うかもしれませんが、まぁとにかく感じるわけです。

 個々の倫理観、道徳観と「倫理」「道徳」という言葉で「観」(見方)を語る時、内と外、主観と客観という思考視点でこれまた自己の脳裏に浮かぶイメージで分節し語るわけですが、これもまた空間の分節にあるわけで、多様はこのように現れ、自己の選別と固定化で話すわけです。

 これもまた「観」という空間の分節にあるわけで、そしてそれは古物売買の物語となり献身的な救助救済の物語として語られるわけです。
 部分があり、全体があり、それは無いようでもあり、また有るようでもある。

ということで今回も個人空間を語ったわけです。