ターの発する言葉の翻訳が男言葉なのがまず気になったが、英語でもそういうニュアンスがあるのだろうか。この映画の違和感ははまずそこから始まる。
設定が今までの映画ではなかった華やかなクラシック界の裏の世界である。冒頭から高尚なクラシックのお話がターと司会者との公開討論で語られる。私も結構クラシック好きだが、それでもかなりの高度で語られているのが分かる。
それは通常の人はもういい加減にしてと言わんばかりの内容の濃さである。世界的音楽学校の秀才学生とのバトルも続いて描かれる。学生の馬鹿さ加減も極めて面白いが、しかし彼女の高度な芸術性と人間的嫌みが痛烈に伝わる部分でもある。
そんな緊張感もターの日常に入ると、ことあるごとに同性の女性に性をターゲットにしている本能も見せつけている。彼女は家族を持っていて、家ではパパである。なるほど、だから男言葉をあえて使っていたのか、と納得させられる。
それからはターの音楽界へ登ろうとする野心性とそれと反比例する躓きの描写が続く。映画的にも面白い部分だが、実に嫌な人間描写でもある。取り巻く人間関係描写が世俗的で、いかにもの俗物感が漂う。
いうなれば、この映画、ターが女性であること、それがゆえにぎりぎりの努力をして這い上がらねばならない世界、失敗も仕方のないことなどが描かれるにつれ、何のことはない、ターが男であれば普通の音楽界(経済界)での出来事に過ぎないと私は思う。
映像も黒を基調にメリハリの利いた映像で、一流の仕上げであることを堪能させている。ケイトの演技もこれ以上のないほどの至上の仕上げぶりである。また、音楽、衣装、調度品美術に至るまで、映画界での最高度の設定である。現代における最高の水準を持って制作された映画であると言える。
でも、私の心に跳ね返って来ないのはなぜか。主人公が男であれば、別にどうってことのない映画なのだ。女だから、こうして映画として鑑賞に耐えられるが、主人公が男だったら急速に半減する代物であろうと思う。
こういう映画ってどうなんだろうなあ。自分の中に何も入って来ないけれど、映画の作品としての出来はすこぶる秀逸。となると、この映画の主題一体全体何なのか? いやな映画なんだけど、集中してみてしまう映画でもあります。
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