朔子が湖に素足で入り、波間が輪状にどんどん広がって行くあのシーン。確かに美しい。そして物語も静かで何もないはずなのに、日常性の反世界を、薄暗くまるで悪意があるかのように奏で始める波紋、、。
この劇映画風でない茫洋としたドキュメンタリー風とでも言うべき撮り方は韓国の映画作家ホン・サンスにどこか似ていると思う。ごく近くの自然光景が題材であることも親近感がある。この作品は何気ない日常を映しながら、その実人間世界の悪意がちまちま見え隠れしてるような仕掛けを施している。
決してきれいな映画ではない。むしろあの波紋の下に隠れているどろどろした現実を観るのは、観客としてはやるせない気もしてくる。
若い時から外国の実情を勉強し、今や立派にそれを仕事にしている叔母。日本のことには何ら関心がないくせに、外国のことに関してはやけに入り込もうとするその姿勢。そして自分は文化人だと思いこんでいる。
その実人間の営みにはえらく疎く、まともな男と付き合えない。(本人は男選びが下手と自嘲はしているが)血縁関係がないとは言いながら、姪と一時的であろうと生活を共にしながら二人の男とくっつき合うその姿勢。
まあこの辺りはさらりと映像で言わせているだけだから厭らしくならないのも深田の長けたところではある。
文化人といえば教養高いはずの大学准教授ものこのこ叔母についてくるし、しかも行く先で教え子の女性を買ったりする始末。授業光景・内容が立派なだけに実にあんぐり状態になる。
知り合いの高校生が福島電力の関係で疎開しているのを目をつけ、反原発のリーダーの男のために無理やり高校生を騙す少女。疎開高校生がみんな同じ考えを持っているなんて言う単純なものでないことを、僕たち観客に鋭くぶっつける。その鮮やかさ。
等々、ちょっとめくれば人間社会は臭気漂う汚らしい世界なのだ。
題名は何か印象派の絵画を目に浮かべてしまうほど美しい予感が漂うが、この映画の読後感は実に現実的だ。朔子を我々観客の目線に置いてむしろ客観的に設定しているから(どちらかというと彼女は黒子扱い)茫洋と人の営みを観ることができるのであるが、実はこの映画、ある意味ペシミズムに溢れているのである。
そして朔子の周囲の人間を観て朔子は逆に成長することになるというラストなのだが、深田はうまく劇映画としてまとめている。前述したホン・サンスはこれほどのやり切れない人間を前面に出している作家ではない。やはり違うかな、、?
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