肉眼で見るのは初めての長塚圭史作品。東京まで行かず大阪で見られるというのもなかなか贅沢。6000円は安い。
真夏の暑い大阪の午後2時開演。近くのコーヒーショップで十分冷気に当て観賞までの準備は完全。さて、楽しみの幕が開く。
舞台は総勢15人ほどの若い俳優たち。特に女優が多く、しかもみんな相当美人。目移りもしよう、さらに一人の役柄を代行という名の下、女優たちが複合的に演じており、また席も後方であったので役を顔で判別するには困難な位置で、それらがそもそも難解な作品に余計拍車をかけることになる。
目玉をなくしてしまった女性の目玉を探す話である。見た目は十分目玉はあるのだが、実際目玉がないという。出だしは何か別役作品風だが、以降はそうでもない。現代に生きる荒野をテーマに彷徨う人たちの心象風景を表した演劇だと思うのだが、不思議と演劇風でないのだ。
この作品、僕は散文で書かれた意識の流れを現代文学のように舞台から感じてしまった。これは演劇というより散文だ。こんなことを言うと長塚に怒られるかもしれないが、この途方もない漂泊の人生を演劇という媒体で小説を語る必要があるのか、と問ってしまう。
ただ、席が俳優の表情の分かるもうちょっと前だったら、こんなに全体を悠然と見ているわけにもいかないないから、違った感想が書けたのかもしれないとも思う。長塚のこだわりをすこぶる感じる演劇であった。
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