Sightsong

自縄自縛日記

ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別』

2011-12-18 09:17:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

風邪で動けず、といってあまり眠ることもできず、突然思い出して、ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別(farewell to philosophy)』(Point Music、1996年)を取り出して聴く。

このCDは3部構成から成る。第1部「チェロ・コンチェルト(哲学への決別)」は、チェロ奏者のジュリアン・ロイド・ウェッバーを前面に押し出したもので、ブライヤーズ曰く、「チェロのリリカルな特質に焦点を置いた曲」である。7曲あれど、テンポや曲調が特に変わることもなく、延々とチェロは抒情的なメロディを奏でる。何と言うべきか、ブライヤーズの曲はこちらの過敏な粘膜を血が出ないよう抑えながらずっと擦り続けるような感覚なのだ。気持ちいいような、やめてほしいような、痛いような、痒いような、そしてまたリピートする。

第2部はパーカッションのグループ、ネクサスによる抑制されたアンサンブル。ここでこちらの粘膜も神経も鎮静化させられたのち、第3部「By the Vaar」に突入する。フィーチャーされているのは何とチャーリー・ヘイデンのベースであり、それだからこそ当時CDを入手したのだった。

かつてブライヤーズ自身がベースを弾き、デレク・ベイリー、トニー・オクスレーとグループ「ジョセフ・ホルブルック」を組んでいた。その前から、ブライヤーズにとってヘイデン(オーネット・コールマンと共演)は特別な存在であったという。それだけに、ここでの3曲でのヘイデンはひたすらフィーチャーされ、透明になるまで調理された肉汁のグレーヴィを思わせるようなヘイデン独特のピチカートが大きな音で響く。これはたまらない。3曲だけでなく、CDすべてをこの世界で埋め尽くしてほしい。

●参照
フェリーニとブライヤーズの船
チャーリー・ヘイデンとアントニオ・フォルチオーネとのデュオ
Naimレーベルのチャーリー・ヘイデンとピアニストとのデュオ
リベレーション・ミュージック・オーケストラ(スペイン市民戦争)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン


黒木亮『排出権商人』

2011-12-18 08:16:34 | 環境・自然

先週、成田からバンコク、ムンバイと乗り継ぐ飛行機で、黒木亮『排出権商人』(角川文庫、原著2009年)を読む。新刊時にタイミングを逸し、文庫化されたら入手しようと思っていたのだ。

2年前にこの本を書店で手に取って開いてみると、自分が書いた排出権の本が参考文献として入っており、自分も何度も足を運んだ中国山西省の太原市で登場人物たちが同じホテルに泊まり、同じ寺を見物し、似たようなものを飲み食いしている場面が目に飛び込んできたりして、何だかヘンな気分になって棚に戻したことがある。確かに、「日本のシンクタンクが出した排出権ビジネスに関する本」をネタに解説する場面になると、何を言われるかと過剰反応してしまう。

もっとも、実際に読んでみると、排出権の創出に関わるさまざまな場面が紹介され、取材もしっかりとなされているようで、素直に面白い。もう少しターゲットを絞っていたなら、知的なスリリングさもあっただろう。中身はオビの煽りのような内容ではなく、誤解と偏見に基づいてはいない。登場人物は微妙にリアルで、例えば中国政府の人物として出てくる男性はすぐにモデルがわかるし(名字を変えただけで、描写されている風貌通り)、主人公の女性のモデルも勝手にこちらで想像してみたりする。

確かに、国際政治の歪みにより影響され、不透明なマーケットが出てくる分野ではあるが、それはどのビジネスでも同じ。そこから温暖化懐疑論に飛びついたりにわかナショナリストになったりするより、どんな中身であるかを見たほうがまともな判断ができるというものだろう。すなわち、本書のオビよりは本書の内容。

●本書に登場する山西省
浄土教のルーツ・玄中寺 Pentax M50mmF1.4(山西省)
山西省のツインタワーと崇善寺、柳の綿(山西省)
白酒と刀削麺


荒松雄『ヒンドゥー教とイスラム教』

2011-12-17 17:34:55 | 南アジア

ムンバイからバンコクに移動する飛行機で、荒松雄『ヒンドゥー教とイスラム教 ―南アジア史における宗教と社会―』(岩波新書、1977年)を読み始め、バンコクに居る間に読み終えてしまった。

同氏の『インドとまじわる』(中公文庫、原著1982年)は、まだ実際のインドを体験した日本人が少ない1950年代にインド留学した体験をもとに書かれたエッセイであった。滅法面白く、本書の古本をヤフオクで調達しようかと思っていたところ、今年、ちょうどアンコール復刊されていた。あとは、『多重都市デリー』(中公新書、1993年)も読みたいが、これは古本市場にしかなさそうだ。

ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの特徴や歴史をまとめるのではなく、両者がどのように併存してきたのかという視点で書かれた本である。本書前半はその意味で生煮えのようで、物足りないところがある。後半になってぐんぐん面白くなってくる。

○ヒンドゥー教は東南アジアの島嶼部にまで幅広く広まっており、インドの「民族宗教」と呼ぶには抵抗がある。
○インドへのイスラム教勢による軍事的侵入の第一は、8世紀、ウマイヤ朝の侵入であった。この後、インダス川下流域がインドとムスリムとの接点となった。第二は、10世紀後半以降、西北インドへのトルコ系民族の侵攻であった(ガズナ朝、ゴール朝)。
○しかしそれとは別に、インドへのイスラム教浸透は、非軍事的になされた。それは交易・商業活動であり、スーフィーの活動の影響であった。
○スーフィーは人間の多い場所に拠点を設けた(デリー、ラホールなど)。スーフィー聖者はヒンドゥーのインド人民衆に共感をもって迎えられた。ヨーガ行者を見慣れていたインド人たちは、スーフィー聖者たちにも素直に崇敬の念を抱いていった可能性が高い。
○一般のヒンドゥー民衆が個人的にムスリムに改宗することは困難だった。むしろなんらかの集団ぐるみの改宗のほうが一般的であっただろう。なかでも、カースト=ヴァルナ制のなかで下層民として被差別の立場に立たされていた人たちの集団が、平等観と同胞意識を掲げるイスラム教に改宗したことが考えられる。
○インドのイスラム政権(ガズナ、ゴール、ムガル)は、ヒンドゥーの社会や信仰や統治機構を大きく変えることなく支配するものであった。
○このような両文化の混淆はさまざまな面で観察できる。ムスリム建築であるタージ・マハルは、それ以前のヒンドゥー様式を含んでいる。ラヴィ・シャンカールの使うシタールは、西アジア起源の楽器である。
○寛容であったムガル帝国でも、六代皇帝オーラングゼーブの時代になると、その傾向が弱まっていった。
○社会的には自然に併存していた両文化に楔を打ち込んだのは、英国支配であった(「Divide and rule」)。
○従って、歴史的には、インドとパキスタンの分離独立(1947年)を宗教対立にのみ帰するのは軽率な認識である。

これらの見方は、現在も強くあるパキスタンとの対立や、インドにおけるヒンドゥー・ナショナリズムに向けられる視線にも色付けを施すものだろう。

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
中島岳志『インドの時代』
アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』(ヒンドゥー・ナショナリズム)
ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』(ヒンドゥー・ナショナリズム)
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの映像『The Last Prophet』(スーフィズムのカッワーリー)


マニット・スリワニチプーン『Protest』

2011-12-17 14:39:56 | 東南アジア

2週間弱ほどインドとタイに滞在した。もちろん仕事であるから余裕はあまりないのだが、空いた時間に、バンコク市内の写真ギャラリー「カトマンドゥ」に足を運んだ。シーロム通り、大きなヒンドゥー寺院の角を入った路地にある。名前の通り、ギャラリーのカードには、ネパール・カトマンドゥの寺院の特徴とも言うべき両目がプリントされている。

入ってすぐに、見覚えのある作品に気がついた。マニット・スリワニチプーンによる、アウトフォーカスでの仏教僧レプリカのモノクロ写真シリーズ『Masters』であり、今年の5月に六本木の「Zen Foto Gallery」で観たものだ(>> リンク)。それらは2枚だけであり、他にもタイの日常や事件を捉えたモノクロのスナップ作品が数多く展示されていた。

ギャラリーの店番に訊くと、これもマニット、あれもマニット、全部マニットの作品だよ、彼はバンコクに住んでいるんだよ、ここのギャラリーも彼が運営しているんだよ、との返事。多数常設されているのは当然なのだった。東京で観たんだけど、と振ってみると、すぐにそのときの図録を棚から取り出してきた。しかしそれよりも、スナップ作品のほうにより好感を覚えたこともあり、他の写真集『Protest』(2003年)を買った。


官僚にセクハラを受けたと主張し服を脱ごうとする女性。ノーファインダー撮影か。

これは2002~2003年に、バンコク市内で繰り広げられた様々な抗議活動を集めたものだ。タクシン政権の時代であり、ここに観ることができるものは、おそらくは経済成長を最優先させた政策と引き換えに奪われた生活や、価値や、自然である。巨大ダムに土地を奪われた人びと。外資による雇用の条件の悪化と首切り。仏教を国の基本に据えよとの声。学生たちの抗議。警官や機動隊の強面。

もちろんテキストとセットでの観賞ではあるが、写真そのもののクオリティは高く、プリントもしっかりしている。広角レンズで地面すれすれから座り込む人たちに迫る視線が良い。抗議はイノチガケでもあり、そのためもあるのか(と想像しかできないが)、ヤケクソでユーモラスでもある。官僚にセクハラを受けたと主張し役所の玄関前で服を脱ごうとする女性がいる。ダムのせいで魚が獲れなくなったと、座り込んで魚網を編み続けるパフォーマンスがある。タクシン首相を路上のランチに招こうとするパフォーマンスもある。自分のような環境の仕事も、ここにある無数の声とは無縁のところに位置していることに否応なく気付かされる。

ところでタクシン元首相に恩赦としてパスポートを再発行する件、どうなったのかと思っていたら、つい昨日に実行されていた。来月またタイに行くつもりだが、さてどうなっているか。

●参照
ゲルハルト・リヒター『アブダラ』、サイ・トゥオンブリー、ティム・ポーター、マニット・スリワニチプーン、フィロズ・マハムド


貝塚爽平『東京の自然史』

2011-12-05 00:38:16 | 関東

貝塚爽平『東京の自然史』(講談社学術文庫、原著1979年)を読む。紀伊国屋書店から出ていた「増補第二版」を原本としており、私自身これを持っているから文庫化されたからといって買う必要はないのだが、何しろ嬉しかったのだ。

大学二年生の時、地学の講義において、教師に「本当に面白い」と推薦された本である。実際に入手してみると夢中になってしまい、図版を白地図に写し、ここに書かれている東京の成り立ちを体感せんがため、1ヶ月間というもの、毎日10時間歩き続けた。その時からもう20年以上が経ってしまった。(なお、毎日のウォーキングにより10キロ以上も痩せてしまい、その後の太ったり痩せたりを繰り返す「デ・ニーロ」化の癖がつくことになった。)

東京は青梅から張り出した巨大な扇状地と、下町の沖積地と、多摩などの丘陵から成る。扇状地の形はいびつであり、川の流れと、関東平野が次第に沈んでいく「造盆地運動」とのベクトルを足しあわせた形となっている。それどころか、その東端、現在の山手線内部の台地はよりフラットであり、このことが、坂ばかりの山の手の面白い地形を生んでいる。

なぜか。そこには、川、造盆地運動だけでなく、気候変動による海進と後退(2万年前の最期の氷期には干上がってしまった)、そしてそこに降り注ぎ続けた富士や箱根の火山灰(関東ローム層の原因)といった、実に数多くのファクターがあった。

著者は、そのメカニズムを念入りに解いてゆく。具体的な事例をもとに、関東ローム層は1万年に1メートルの速度で降り続け、関東造盆地運動により中央部は1万年に10メートルの速度で沈降し、山手線以東の下町の沖積地はここ1万年くらいで形成され、縄文期以降の海岸線は100年に1キロメートル程度の速度で後退し、といったように、その視線と語り口にはダイナミズムが溢れている。これに比べたら、大地の記憶に人間の歴史をもっともらしく幻視してみせる中沢新一『アースダイバー』なんて、二次情報を都合よく利用する騙り以外のなにものでもない。


原本(1979年)

●参照
薄っぺらい本、何かありそうに見せているだけタチが悪い


G.F.フィッツ-ジェラルド+ロル・コクスヒル『The Poppy-Seed Affair』

2011-12-04 09:00:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

G.F.フィッツ-ジェラルドは初めて聴く英国サイケデリック・フォークのギタリストで、ロル・コクスヒルと共演している愉しそうな盤を見つけた。DVD1枚とCD2枚の3枚組である。

『The Poppy-Seed Affair』、すなわち『ケシの実事件』は、30分弱の映画である(1981年)。発見したVHSからの映像であり、当然汚い。しかしそんなことは気にならないほど、どうしようもなく下らない映画だ。相談を受けた探偵。パディントン駅で降りて、パンを埋めたり、銃で撃たれたり、追いかけたり、結婚した挙句にラリって殺し殺されたり。ロル・コクスヒルのサックスにロバート・ワイアットのドラムスという越境メンバーによるサントラだけが嬉しい。

音源の1枚は、コクスヒルとフィッツ-ジェラルドとのデュオ(1981年)である。それぞれソプラノサックスとギターとに専念していて、はっきり言ってどこを切っても同じ(笑)。コクスヒルは、相変わらず緊張感皆無のだらだらしたソロを取り続けている。口を緩めてベンドさせた音も、口癖のようにずっとやっていると、脱力しかできない。スティーヴ・レイシーの筋金が入ったソプラノとは雲泥の差である。

・・・しかし、コクスヒルを聴くたびに思うのだ。別にいいじゃないか、と。しゃべらせときゃいいじゃないか、それがその人なんだから、と。何だか勇気が出てくるコクスヒルの癒し効果か。

音源のもう1枚は、フィッツ-ジェラルドの60年代後半から70年代にかけてのソロ演奏集だ。アナログのサンプリングは頭を適度に揺さぶってくれるようで愉しい。コクスヒルとの共演もこの路線でやってほしかった。

●参照
ロル・コクスヒル、2010年2月、ロンドン
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集


フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』

2011-12-03 10:18:05 | ヨーロッパ

フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』(1997年)を観る。プリーモ・レーヴィ『休戦』を原作とする映画であり、奇妙に抒情的な邦題となってはいるが、原題はやはり『休戦』である。VHSの中古を入手した。

1987年に映画化が企画されたとき、レーヴィは「人生の暗黒の部分に一筋の光を当てられた」と喜んだというが、その1週間後、彼は自死を選んだ。これが直接の原因であったかどうかわからないものの、アウシュビッツでの無意味な死をまぬがれ、長い苦しい時間を経てイタリアに帰郷するという、おそらくは何にも代え難い個人史が、資本と既成システムに乗ることのインパクトは大きかったに違いない。

レーヴィを読んでしまった後で劇映画を観ると、無関係な自分にとっても、やはり複雑な気分は拭えない。ここで映画とテキストとは別だとする原則論を持ちだすとすれば、それはそらぞらしいものとなる。

映画の出来は悪くない。想像しがたいほどの苦痛と苦悩が薄い描写にとどまっているのは不満ではあるが、生きるということの猥雑さを示してくれている(但し、上品に)。問題は映画というメディアの既成の枠にあるのであって、飢餓も、痛さも、性欲も、女性が身体を売って生きていくということも、終戦後ミュンヘン駅でドイツ人が帰還者に向かって膝をつき頭を垂れることの意味も、すべてが短すぎて要素の紹介にとどまらざるを得なくなっている。

レーヴィ役のジョン・タトゥーロの呟きは、映画に力を与えている(これを無粋だと言う向きもあろうが)。神はなぜこのような試練を与えるのかと嘆く仲間に対し、レーヴィは「神は存在しない、収容所が存在する限りは」と応える。また、その仲間が、かつてナチの親衛隊員と関係を持たされていた女性を罵ったとき、レーヴィは彼を止めて「ナチが我々にもたらしたものは、飢餓でも死でもない。我々の魂を奪い、憎悪を植えつけたのだ」と言う。ナチの罪そのものではなく、明らかに、原罪のようなものこそを意識しているのである。

●参照
プリーモ・レーヴィ『休戦』
徐京植『ディアスポラ紀行』(レーヴィに言及)
徐京植のフクシマ(レーヴィに言及)
『縞模様のパジャマの少年』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
アラン・レネ『去年マリエンバートで』、『夜と霧』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)


ソニー・フォーチュン『In the Spirit of John Coltrane』

2011-12-02 07:00:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

ソニー・フォーチュン『In the Spirit of John Coltrane』(Shanachie、1999年)は、最初に日本企画盤『コルトレーンの魂』として出されたのだったと記憶する。当時悪くない印象を持っていたが、手放してから長く、ふとディスクユニオンで中古盤を見つけて入手した。

文字通り、ジョン・コルトレーンのフォロワーとしての演奏集である。コルトレーン作曲の「Ole」と「Africa」以外はフォーチュンの手によるとあるが、聴いてみると、悪い冗談かと言いたくなるようなコルトレーン・ライクな曲だ。ピアノのジョン・ヒックスも何だかマッコイ・タイナーを演じているように聴こえてしまう。

例えば「Hangin' out with JC」を2回演奏しており、これは「Countdown」そのものに近い(解説では、「Countdown」と「Moments Notice」を意識しているとある)。しかし、自分はこの演奏が何とも嬉しく、ビリー・ハーパー『Live - on Tour in the Far East』(Steeplechase、1991年)において演奏した「Countdown」の熱気を否応なく思い出させてくれる。

「For John」という曲でのみ、ラシッド・アリ(ドラムス)、レジー・ワークマン(ベース)と組んでいる。アリの蛇のように絡みついては離れるパルス、ワークマンの焦燥感あふれる不穏なベースはやはり素晴らしい。

それでも、フォーチュンは何をやってもフォーチュン、突き抜けるところのないサックスおやじである。『A Better Understanding』(Blue Note、1995年)をわりと愛聴してきたが、これも結局は心地いいBGMに落ち着いてしまう。マッコイ・タイナー『Sahara』(Milestone、1972年)は突き抜けたと思っているのではあるけれども。


1997年、新宿ピットインでサインを頂いた

●参照
マッコイ・タイナーのサックス・カルテット
ラシッド・アリとテナーサックスとのデュオ


伊志嶺隆『島の陰、光の海』

2011-12-02 00:54:13 | 沖縄

伊志嶺隆という写真家を知ったのは、2008年に国立近代美術館で開催された『沖縄・プリズム1872-2008』においてだった。そこには、『光と陰の島』という写真群から、西表島、石垣島、鳩間島の写真が数枚ピックアップされていた。二眼レフで撮られたスクエアフォーマット、モノクロ。無機的でも激情的でもない、その合間に息遣いとともに存在するような印象を持った。

2011年になって、『けーし風』に、伊志嶺の個展の宣伝が掲載されていた。『島の陰、光の海』と題され、那覇市民ギャラリーで開かれるというのだったが、残念ながら沖縄に足を運ぶことはできず、再度、『プリズム』の図録をめくった。未來社から刊行されている沖縄の写真家のシリーズに伊志嶺隆もラインナップされているが、なかなか出ない。実はネットで探してみると、『島の陰、光の海』の図録が入手できるのだとようやく気が付いた。

この写真展は、『光と陰の島』(銀座ニコンサロン、1988年)、『72年の夏』(那覇市民ギャラリー、1990年)、『海の旅人』(未発表)の3部で構成されている。

この中でもっとも古い作品群は『72年の夏』であり、70年代の沖縄の風景が、おそらくは高感度フィルムと号数の大きいフィルタでプリントされたものだ。それは『プリズム』で記憶に擦音を残したものとはまったく異なっていた。フォロワーとしての「コンポラ風」ではないものの、強い陽光を網膜だけでなく印画紙にイコンとして残そうという苛立ちのようなものさえ感じられる。とは言え、苛立ちは何かを物語として残そうという欲望からきたものではなさそうであり、あくまで「風景論」、写真家としての意はどこかに深く鎮められているようだ。逆にメッセージ性が強いのは、主に90年代に撮られた『海の旅人』である。ここでは写真はヤポネシア的な神話に従属する。

そして、やはり理由がよくわからないながら強く印象に残る作品群は『光と陰の島』なのである。露出を抑えめにしたフィルムを使い、号数の少ないフィルタで焼いているように見える。焦げるように焼き付けられたイコンとは異なり、このグレーは写真を取り巻く世界との間で粘液のように振る舞い、視た瞬間にぞっとさせられるアウラを発生させている。あざといほどに静謐をアピールするような写真であっても、これらの写真には、それを受け容れてしまう魅力がある。

伊志嶺隆の転機は、40歳のとき、高梨豊の助手を務めたことにあったという。この、テキスト性が常に先走る写真家の影響が、『光と陰の島』よりも後年の『海の旅人』にこそ神話物語へのはめ込みという形で色濃く出ているのだと考えてみれば、それは面白くはないことだ。

未來社から出る写真集はきっと四千円以上と高く、だからこそこの千円の図録を入手したのではあるが、『光と陰の島』の奇妙な魅力をより多くの写真で感じるためには、やはり未來社版を観ておきたい。それに、『プリズム』でハイコントラストだと感じたプリントと、この図録でのグレートーンとの差を確認したい。


『光と陰の島』より

●参照
沖縄・プリズム1872-2008
高梨豊『光のフィールドノート』