鶴見俊輔『北米体験再考』(岩波新書、1971年)を読む。
鶴見は、「かりものの観念による絶対化を排する」という。また、「体験はいつも、完結しないということを特長としてもっている」という。体験の「不完結性・不完全性の自覚をてばなさない」ことが、たとえば、ベトナム戦争に向けられた鶴見の視線を形作っている。
かれは1930年代にアメリカに留学し、無政府主義者と疑われてFBIに拘束されている。そして日米の両国で生活した者として日本の敗戦を迎えている。それらは、変に抽象的・観念的でなく、またシニカルでもなく、現実の断片をもって思考する鶴見の出発点であったにちがいない。
本書には、たとえば、黒人の公民権運動のことが書かれており、実に生々しい。これを通常の通史ととらえるのは間違いなのであり、人間の頭はそれほど自由にできてはいない。鶴見は書いている。北米留学生の中には軍国主義を批判し続けた者もいたが、黒人、先住民、南米諸国民から北米をみる目は育たなかった、と。
また、ゲイリー・スナイダーについても、ある種の驚きをもって、しかし淡々と書き連ねている。なんとこの時代にあって、ウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバーグの『麻薬書簡』を引用してもいるのだ。なんという幅の広さだろう。確かに最初の邦訳は本書刊行に先立つ1966年に出されているようなのだが、『ヤヘ書簡』と訳していることからも、おそらくアメリカで1963年に出されたものを読んで思索のための断片としたのだろう。
鳥瞰図的に構造や立ち位置が解ることを意識した思索ではない。この態度にはあらためて驚かされる。
●鶴見俊輔
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』(1991年)
鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』(1960-2006年)