インドから帰ってきた気分が抜けきらないまま、ロベルト・ロッセリーニ『インディア』(1958年)を観る。ロッセリーニにとっては、イングリッド・バーグマンとの諸作品の評判が振るわず、数年間ののちに撮った作品である。20年くらい前、蓮見重彦の影響でロッセリーニだぜ観に行こうと誘う友人Sと一緒に、早稲田にあったACTミニシアターでのオールナイト上映で観て以来だ。Sは番組製作会社への就職とともに姿をくらましたが、どこで何をしているのだろう。
映画はボンベイの雑踏で始まり、ボンベイの雑踏で終わる(なお、ムンバイとなった現在も、古くからの住人はボンベイと呼んでいる)。その間に4つのエピソードが挿入されている。象使いが結婚する話、人海戦術でのダム建築に携わった男の独白、森に暮らす老人の話、熱波で主人を失った猿の話。
それぞれ、語り手は登場人物(を装ったナレーター)であり、4つめの話に至っては猿(を装ったナレーター)である。その意味で、映画はドキュメンタリーとドラマとの間を彷徨い、視線も誰が誰に向けたものなのかも曖昧なままだ。そこが、いつも何かが曖昧なロッセリーニの魅力なのかも知れないが、主体は不在であり、インドにもどこにも足を踏みしめることのない作品だとも言うことができる。
こんなものより、ちょうど何気なくチャンネルを変えたときに放送していた、『谷村新司・ココロの巡礼~「昴」30年目の真実』(BSジャパン、2010年9月18日、>> リンク)の方が馬鹿馬鹿しくて面白かった。
谷村新司がインドを旅する。タージ・マハルでは、何の感慨も抱かなかったことを、「生きている世界にこそインドがある」ともっともらしく解説する。鉄道(テレビでもなければ一等車に乗っているだろうに)の中で買った卵サンドを食べて、「卵とパンの味がします」(!)という感想を述べる。そしてほどなく下痢と高熱に襲われ、数日の休養の後、へろへろでカメラの前に姿を見せる。曰く、「熱があったので夢を見た。その中に青いシヴァ神が登場した。そういえば、「昴」では、「青白き頬の頬のままで~」と歌っていた。これは何かある。」 ・・・もうヤケクソとしか思えない。
そして番組の最後に、谷村は川の桟橋に立ち、ひとり「昴」を唄う。背後では、意に介することなく沐浴を済ませた人たちがマイペースに着替えている。こちらは緊張感に耐えられず、肋骨が痛くなってくる。ツマと一緒に歯を剥き出して爆笑しながら観た。あれもインド、これもインド、どれもインド。