Sightsong

自縄自縛日記

マノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』

2011-06-12 11:47:29 | ヨーロッパ

録画しておいた、マノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』(2003年)を観る。オリヴェイラ95歳の時の作品である。

レオノール・シルヴェイラ演じるポルトガルの歴史教師は、娘を連れて、インド・ボンベイ(ムンバイ)に滞在しているパイロットの夫に会うため、豪華客船での旅に出る。この機会に、歴史の舞台となった地を訪ねながら行こうという思惑である。バスコ・ダ・ガマら大航海時代の船乗りに想いを馳せながらリスボンを出発し、フランス・マルセイユ、イタリア・ナポリ、ギリシャ・アテネ、トルコ・イスタンブール、エジプト・カイロと地中海を東進し、スエズ運河紅海を経てイエメン・アデンへと至る。そこでテロリストが客船に仕掛けた爆弾により、船はインドへと着くことはない。

物語の設定は「9・11」より前の2001年7月、構想はもっと前だったという。アデンでは、オリヴェイラ得意の固定カメラにより、スークの路地しか写されない。この地だけは現地ロケではないように見える。恐らくは、アラビア=テロ、という典型的な図式にオリヴェイラさえも陥った、とする観方は間違いだろう。そこに、ポール・ニザン『アデン、アラビア』にも顕れる、あるいはアルチュール・ランボーの破滅的な到達地を視るときの、オリエンタリズムを否定はできないとしても。映画の中でオリヴェイラが繰り広げる会話は、そのような政治さえひとつの人間活動として置いているように思える。

映画は、さまざまな地とそこが持つ地霊のようなもの、さまざまな国籍と言語を抱える人びとが、複層的な世界を創りだし、すぐに記憶を残して雲散霧消させる。幕間は、水面を切り裂きながら進む客船の切っ先であり、港という境界であり、語り手不在のまま都市を見つめる視線である。カイロでは、ルイス・ミゲル・シンドラが本人役で登場し(やはり陸と海との境界で撮られた『コロンブス 永遠の海』でもそうだった)、ナポレオンのエジプト遠征やスエズ運河の開発をポルトガル語で話す。客船の中では、船長役のジョン・マルコヴィッチが英語で、実業家役のカトリーヌ・ドヌーヴ(フランス人)、モデル役のステファニア・サンドレッリ(イタリア人)、女優・歌手役のイレーネ・パパス(ギリシャ人)が、それぞれ母国語で話し、グローバルという言葉とは対極にある場を形成する。素晴らしい映画、すべてがオリヴェイラである。なぜ日本公開時に観なかったのだろう。

オリヴェイラは、この映画を撮っているときに、次のように語っている。これは<女性>という偉大な存在の映画でもあったのだな。

「・・・私が多いに興味をそそられて調べたのは人魚伝説だ。確かめたかったのは、伝統的に女=魚という人魚はユリシーズの時代には女=小鳥だったということだ。女=魚だった国によって後に変えられたんだ。」
―――今日人魚はいますか?
今日世界はもっと現実的だよ・・・・・・それは政治の形のなかに見ることができる。」
『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』(エスクァイア・マガジン・ジャパン、2003年)

●参照
マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』
マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』
『夜顔』と『昼顔』、オリヴェイラとブニュエル


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