インターネット新聞JanJanに、小林和香子『ガザの八百屋は今日もからっぽ 封鎖と戦火の日々』(めこん、2009年)の書評を寄稿した。
>> 『ガザの八百屋は今日もからっぽ 封鎖と戦火の日々』の感想
イスラエルによるガザの大規模な空爆から半年が過ぎた。民間人を無差別に対象とする大量虐殺だった。ただ、攻撃は何の前ぶれもなく行われたのではなかった。1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構との間で結ばれた「オスロ合意」は和平合意のスタートではあったものの、交渉難航の末、ガザ地区はイスラエルに囲い込まれている状況である。さらには、2006年にハマスが政権を握ってから、経済制裁や自由の剥奪がエスカレートしている。すなわち、大量虐殺前より、ガザ地区は「巨大な刑務所」だったのだ。
本書は、そのようなガザに生活する人びとの様子を生々しく伝えてくれている。燃料や食糧が最低水準に届かず、いのちの危機に晒されている。攻撃に怯える人たちは心に傷を負い、幼稚園児は空爆の様子を絵に描いたりもしている。彼ら、彼女らは、今後いのちを奪われなかったとしても、どのように快復できるのだろうか。
私たちが想像力を働かせても届きようのない世界に違いない。ひょっとしたら、戦争体験のある方ならば、それを思い出すかもしれない。しかし、日本社会全体を見れば、この進行中の惨劇は、「向こう側の出来事」なのだろう。
ガザ空爆の直後、一部のネット上では、「日本人がイスラエルに反対すべきではない。なぜなら、日本人は自らが加害者になった戦争に関して充分に責任を取っているわけではないからだ」とする議論があった。しかしこれは間違いだ。
もちろん自らの責任は自らが負わなければならない。哲学者の高橋哲哉は、謝罪や金銭保証といった狭い枠にとらわれず、応答(response)する責任のことを責任(responsibility)と表現した。私には、さらには、市民レベルでの応答と共鳴こそに、このような国家によるパワーゲームを解体する力があるのだと思われる。時には、自分が属する国家の過去の罪について、自らとつながっているものとして応答すること。時には、過去のパワーゲームを超えて、市民として発言すること。
そのためには、大きな報道のみではなく、本書のようなナマの声(call)をそれぞれが受け止め、応答(response)に備えなければならない。「読んでも世界は変わらない」ではない。私たちには政治参加の機会も、声をあげる機会もある。そして日本の政治は、米国との関係や国際交渉を通じて、ガザと地続きなのである。