Sightsong

自縄自縛日記

エリック・ドルフィー『At the Five Spot』の第2集

2011-05-04 12:24:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

エリック・ドルフィーのCDも随分手放してしまい、手元に残っているのは『Last Date』(Fontana、1964年)と『At the Five Spot』2枚組(Prestige、1961年)だけだ。それだけに愛着があってよく聴く。前者は、何しろミシャ・メンゲルベルグハン・ベニンクが参加している。

『At the Five Spot』は、1961年7月16日のライヴ一続きだが、最初に聴いて鮮烈な印象が残ったのが2枚目の方だったこともあり、いまだ1枚目よりも好きである。誰かがテーマのメロディーを口ずさみ、ざわざわした中でエド・ブラックウェルのお祭りのようなタイコからはじまる「Aggression」。ブッカー・リトルの火が付いたようなトランペットソロがすさまじい。下手すると演奏がぶち壊しになってしまうような、つんざく音をおもむろに差し挟む。皆驚かなかったのか、それとも以前からそうだったのか、それともそんなことで驚くような面々ではないのか。

エリック・ドルフィー(バスクラリネット、フルート)、ブッカー・リトル(トランペット)、マル・ウォルドロン(ピアノ)、リチャード・デイヴィス(ベース)、エド・ブラックウェル(ドラムス)という、今では考えられないメンバーである。マル・ウォルドロンの執拗に同じ和音を繰り返すソロは素晴らしい。そのマルも2002年に亡くなり、もはやリチャード・デイヴィス以外は鬼籍に入ってしまっている。

ドルフィーについては、1曲目のバスクラも当然良いが、2曲目「Like Someone in Love」のフルートソロが本当に美しい。『Last Date』での「You Don't Know What Love Is」、『Far Cry』での「Left Alone」など、ドルフィーのフルートは心に残る。


1999年にリチャード・デイヴィスにサインを頂いた

●参照
エルヴィン・ジョーンズ+リチャード・デイヴィス『Heavy Sounds』
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』


ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』

2011-05-04 06:07:43 | 思想・文学

ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』(青土社、原著2010年)を読む。スピヴァクがブルガリアで行った講演録である。

 

ここに登場する想像力には、おそらく2種類ある。ナショナリズムを支える想像力と、自らの心の拠り所を超えて、眼に見えないものを考える想像力である。ヨーロッパには「私」的なものがないとする点はわかりにくいが、ともかく、「公」をそれぞれ「私」に近づけ、それを拡大していく想像力をナショナリズムの原点に置く著者の主張は納得できる。常に近くにまで来ているユートピアを引寄せるためには、そのような想像力ではなく、心の中の所与の権力構造を解体し、すべてを等価(equivalent)なものとして見なすよう努める想像力を発揮するのだ、ということである(ユートピアは永遠に到来しない。近寄せ続けるだけである)。

ともかくも比較を続けること、それらを等価に置くこと。すべてを再分配し続けること。ネイションもひとつの虚構の物語であると意識すること。英語の利用をグローバリズムの象徴として捉えてはならないこと。国民国家という夢はナショナリズムの再コード化に他ならないこと(スピヴァクは、エドワード・サイードがパレスチナに関する二国家解決を拒否し、一つの国家のなかにパレスチナ人とユダヤ人が共存する「一国家解決」を説いたと称賛している)。そのような点で、スピヴァクの主張はシンプルかつ困難なものであり、だからこそ意義があるように思われる。

「ナショナリズム」について、いくつか思いだしてみる。

デイヴィッド・ハーヴェイ 新自由主義は、市場の自由を標榜しながら、実は逆に、ナショナリズムが効率的に機能する仕組になっている。(>> リンク
高橋哲哉 マジョリティ(民族的多数派)のナショナリズムはもはや「健全」ではありえない。それは必然的に暴力を孕み、排外主義を孕んでしまう。(>> リンク
村井紀 日本のナショナリズムを相対化する柳田國男らの試みは、実は、排他性が組み込まれたナショナリズムそのものであった。(>> リンク
加々美光行 孫文による、国境・宗教・民族などさまざまな要素を丸呑みする普遍的な「中華ナショナリズム」は、その抵抗的性格を失ってしまうと精神を失い、排他性を強め、自己を尊大視するものと化した。(>> リンク)(>> リンク
徐京植 「死者への弔い」が、たえず「他者」を想像し、それとの差異を強調し、それを排除しながら、「鬼気せまる国民的想像力」によって、近代のナショナリズムを強固にしている。(>> リンク