なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ458 出張縄のれん

2024年03月10日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第458回。令和6年3月10日、日曜日。

3.11が近づいてきて、東日本大震災関連の報道が増えてきました。
特に今年は能登半島地震との関連で報じられることが多いようです。
被災された方には、忘れたい、思い出したくないと思っている人もいるはずです。
犠牲になった愛する人のその時の思いを想像することが、どれほど辛いことか。
その日が近づく度にフラッシュバックする痛みに、やり場のない苦痛を味わっているのではないかと想像します。
それでも、どれほど想像しても、当人の痛みなど他人に分かろうはずがありません。
でも、分からないのは分かっていても、それでも、その痛みの半分でも万分の一でも分けてもらえたらと思う人もいるのです。
ボランティアとして支援に駆けつけたいと思う人々は、そう願い現場に赴くのです。
被災された人々の邪魔にならないように、心の痛みに触れないように、体でできることだけを淡々とこなして帰るだけです。
そして、自ら語りたくなるのを待って話に耳を傾けます。語ることによって痛みを吐き出すこともできるからです。

被災された方が絶望から立ち上がることができるのは、ボランティアの力ではありません。被災者自身の力によってです。
自ら立ち上がろうとした時の支えとして膝や肩を貸すだけ、ボランティアの存在はそのきっかけに過ぎません。
それを「ボランティア触媒論」と言います。
化学反応の速度を促進する物質のことを「触媒」と言いますが、この物質自身は化学式の中で反応にかかわることがありません。
被災された方が自ら立ち上がることを促す存在、ボランティアは、その触媒に過ぎないのです。
そして、その人が自らの力で立ち上がることができた時、手を握り合い、肩を抱き合い、喜びを共感することもあります。
その時にボランティアは、無上の喜びを感じるのです。自らの行為に自ら喜ぶことができる。
それが人々をボランティアに駆り立てる理由です。

ボランティア活動に限ったことではありません。
日常生活の中で、人に親切にすることで自らがうれしい気持ちになることはあるでしょう。
たとえば、道端で知らない人に挨拶したら相手からも挨拶を返してくれた。自分から声をかけることができたことがうれしい、とか。
つらい話を聴いて一緒に涙を流したら笑顔になってくれた、それがうれしい、とか。
自分ができることで相手に喜んでもらうことができたことを、自ら喜ぶことはあると思います。
道元禅師は「みずからが所作なりというとも、しずかに随喜すべきなり」と教えています。
自分の行為であっても、自分で喜んでいい、褒めてもいいというのです。

他の痛みを感じて自らの心を痛め、何とかならないかと思う心はどなたにもあるはずです。
それを「慈悲心」と呼びます。
ただ、その心は時間や慣れによって萎んでしまうことも事実です。
テレビなどの報道を見て感じた他人の痛みも、何度も見ているうちにだんだん薄れてくることはあるでしょう。
そのうちに見たくないと思うかもしれません。
慈悲心は誰にもありながら、慣れによって薄れていくのです。ありながら、なかったことと同じなってしまいます。
慈悲心を行動にすることによって、自らに「こんな心があったのだ、こんなことができるのだ」と気づきます。
行動によって慈悲心に気づき、それを養い維持していくのです。
誰かの痛みを感じたなら、躊躇しないで行動に移してみましょう。
慈悲心を行動に移したのが菩薩行です。
その行動が広まれば慈悲心の社会化とも呼べるでしょうし、世界の平和にもつながると信じます。

ということで、明日11日から能登半島に出かけます。
シャンティ国際ボランティア会の現地支援事務所が輪島市門前町にあり、そこから「来てくれないか」という要請がありました。
私が行っても何かができるわけではありません。
おそらくは、支援活動をしているスタッフ、ボランティアの慰労をしてくれということだと思います。
被災地に身を置いて連日人の痛みを受け取っている者は、時折被災地を離れるか息を抜かないと精神的に厳しくなります。
私はその息抜きの役目でしょうから、酒とご馳走を車に積んで出かけるつもりです。
出張縄のれんです。
こちらが飲まれないように気をつけてきます。
阪神淡路大震災の時、大阪のデパートの地下ののれん横丁で串カツを喰いながら独りカウンターに突っ伏したことがありました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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