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やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ410 シャンティを退任

2023年04月02日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第410回。令和5年4月2日、日曜日。

4月に入りました。
クリスマスローズやクロッカスは咲きましたが、木花はまだですね。
三寒四温で、まだ霜が降りる日があります。
ようやく雪囲い外しを始めました。境内も春の装いを取り戻します。

3月は別れの季節で、それぞれに離任や退任があったことでしょう。
28日、シャンティボランティア会の総会があり、私の副会長退任が正式に決まりました。
総会後の懇親会で、各国事務所からのビデオメッセージとプレゼントが贈られ、気恥ずかしい思いでした。
長年の思い出を振り返り、役員から離れることに寂寞の情を感じない訳ではありません。
しかし、後進に道を譲ることも先を歩いた者の務めでしょう。
力強い新たな足取りで、けもの道をかき分けて行って欲しいと願います。

思えばこの会との出会いは43年前に遡ります。
カンボジア難民が大量にタイ側に流出した1979(昭和54)年、日本でも大きなニュースとなりました。
その次の年、曹洞宗は同じアジアの仏教徒の苦難を見て見ぬふりすることはできないとして、教団では初めて救援団体「曹洞宗東南アジア難民救援会議(JSRC)」を結成し難民支援活動を開始することを決めました。
若い僧侶のボランティア募集の案内に応募してカンボジア難民キャンプに赴いたのがその年の8月です。
初めて出会う「難民」に衝撃を受け、この苦難の現実の中に身を置き、苦しむ生身の人間に寄り添い、共に考え、共に行動する、それも和尚の役目なのだと気づいた時、そういう仕事ならやってみたいと、初めて自発的に和尚になりたいと思いました。
和尚は人が死んでからの仕事だと思い込み、お寺に生まれたことを不幸な星の下に生まれたと宿命を恨んできたのです。
なので、私は難民キャンプで出家したと思っています。

2か月間の現地赴任から帰国した次の年、JSRCが活動を停止するということになり、それではその活動を引き継ぐ団体を作ろうという動きを始め、81年12月に「曹洞宗ボランティア会(SVA)」が結成されました。
82年2月、事務所を五反田のマンションの一室に決め、私の部屋の家財、机、椅子、電話、冷蔵庫、本棚など使えるものは全て事務所に運び、私は永平寺に修行に向かいました。
次の年、修行を終えて山形まで歩いて帰ろうと決めた時、ボランティア仲間から「何悠長なこと言ってるんだ、永平寺の門前に車を横付けするから真っすぐ東京に来い」と電話が入りました。
修行を終えたら事務所に行くと約束はしていましたが「これだけはやらせて」とお願いして行脚させてもらったのでした。
松林寺に着いたのが83年4月11日、少し休んで東京に出たのが5月3日でした。
五反田の事務所では、学生のボランティアが数名事務所に出入りし、退職ボランティアOBのおじいさんが経理を担当してくれていました。
山口にいた事務局長の指示で、会員募集など組織の基盤づくりをしていました。
そのワンルームの事務所は、2年も経たないうちに手狭となり、事務所移転の必要が出てきました。
理事の紹介で巣鴨のマンションに移ることになり、引っ越し作業を終えて84年8月、私は山形に帰りました。
両親の辛抱も限界に達していました。
そこからしばらくはSVAとの関係が希薄になります。

寺で大きな事業があり、それに先立って結婚もしました。宿用院の住職にもなりました。
布教の勉強を始めて数年して、縁あって永平寺の講師に就任しました。
1996(平成8)年その勤めを終えて寺に帰った時、東京の事務所を手伝ってくれないかという連絡がありました。
週に何日か顔を出す程度でしたが、「参事」とか「参与」とかいろいろな役職名をいただいたと思います。
2000年、社団法人化を果たし団体名を「社団法人シャンティ国際ボランティア会」と改称しました。
その祝賀会の会場から、専務理事有馬実成師が、病気の悪化により真っすぐに病院に向かいました。
それを受け、祝賀会の途中で主だったメンバーが集まり、後任をどうするという相談になりました。
実はその役を望んでいた人がいたのですが、その人が専務理事になると会がおかしな方向に行ってしまうという周囲の懸念から、当て馬として私が押し上げられてしまったのです。
絶大な先任者の後任を、その能力もない人間が任される苦痛は並大抵のものではありませんでした。
針のむしろに座らされるような5年間でした。結局何も成し遂げることはできませんでした。
その間、父のパーキンソンの症状が次第に進行していきました。
「もう限界なんだ」とおぼつかない言葉で泣かれたことがありました。
それでも後任を据えるまでは途中で投げ出すこともできず、父と檀家に詫びながら、何とか期間まで勤めました。
人生においても、この時期が一番辛かったと思い起こされます。
専務理事退任後、常務理事を2年勤め、2007年に副会長に就任しました。
そして今年2023年まで、実に長い道のりでした。

海外の言葉もできない、ボランティアとは何かも知らない、組織に身を置いたこともない、ただの若僧が、寺への反発だけでボランティア活動に参加しました。
しかし結果的にそれが、和尚として生きる覚悟を決める原点となりました。
この活動にかかわることが和尚としてのアイデンティティでした。和尚として人間として、この会に育てていただきました。
その気持ちと覚悟はこれからも変わらないので、一会員としてかかわっていくことになります。

長くなりましたが、43年という人生の3分の2を投入した組織への区切りとして思いの丈の一部を語らせていただきました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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