なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ188 雪が積もっても

2018年12月09日 04時42分10秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第188回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月9日、日曜日。

昨日8日は成道会、お釈迦様お悟りの日でした。
檀家の方々と坐禅をして法要を勤めました。

そしてついに、雪が積もりました。
来るべきものが来たというところでしょうか。
でも、積もってしまえばそれはそれで腹が決まることでもあります。
雪国に住む者がそれ以外の人々より勝れているところがあるとすれば、この覚悟を決める決断の強さではないかと思うところです。
雪が積もるまでは、今年の雪はどうなのか、降ったらどうしようと気を揉むことはあっても、降ってしまえば、腹が決まり、その中でどう生きるかと気持ちを切り替えることができるように思います。
雪のために無駄な苦労をしているだけではなく、その中で生きることによって、知らず知らず身につけてきた能力もきっとあるはずです。
それが忍耐力と諦観、意識を切り替えることのできる力だと思うのです。
他所の人からは、どうしてそんな大変なところで生きているんだろうと思われるかもしれませんが、それが単に使命感やあきらめだけではなく、そこに住まなければ分からない、得られないことがあるからなのですよ。

6日木曜日の朝刊に気になる記事がありました。
「国民全体で『おわび』合意」(山形新聞)
旧優生保護法下の強制不妊手術による被害者救済法案に盛り込む文言として、反省とおわびの主体を「国」ではなく、「われわれ」として国民全体による謝罪と位置付ける、と。
またか、と背筋が寒くなりました。
国のねらいは、各地で起こっている被害者による訴訟への責任逃れということでしょうか。
以前にもここで話しましたが、敗戦の際の「一億総懺悔」から福島原発事故にいたるまで、国も政治家も誰一人責任をとろうとせず、「われわれ」という表現で国民全体に責任を押し付ける体制がまた繰り返されることになります。
記事では、それを決めた国会議員の発言として「国の責任を否定するわけではないが、旧法は国民の代表である国会議員の全会一致で成立した。主体は広く『われわれ』とするのが妥当だ」と述べたと。
その当時の国会が全会一致だから、責任の主体が国民全体にあるという論法が理解できない。
その当時の国や国会議員が間違っていたのかもしれないとは思わないのだろうか。
選挙で選ばれた国民の代表が決めたから国民全体の意見というのも無理があります。
選挙には反対票もあったはず、全会一致であっても国民全体とは言えません。
最近で言えば、これまで数々の重要法案が強行採決されましたが、世論の意見が多数ではない法律も決まってしまいました。
自分たちが決めた法律は自分たちが責任をとらなければならないでしょう。
世論にも耳を貸さずに決めたことを国民全体に責任を押しつけてしまうことがあるとすれば、それは責任逃れという以外にありません。
過去のことであっても、過ちを過ちと認めるところから以外に反省も改善も望めません。
国の過ちを国民の過ちに転嫁することで、被害者に対する痛みを感じる力は弱まり、反省の意識も弱まります。分母が大きくなってしまうからです。
そして、国民の国への信頼が薄れていきます。
まあ確かに、そんな国会議員を選んでしまったのは国民の過ちではあります。

雪が積もっても過ちを覆い隠すことはできません。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。