なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ249 お母さんのお骨

2020年02月09日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第249回。

2月9日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
2・3日なあむの会で瀬見温泉泊。
4・5日シャンティのイベントで上京。シンポジウム「災害支援のこれから」出席。
5日松林寺葬儀。
6・7日仙台、東北管区教化センター資料作成委員会。
8日ニラ小屋集会。
そのような1週間でした。

おはようございます。
雪が降りました。そんなことも報告しなければならないぐらいこの冬は雪が降りませんでした。
全く雪がなかったため、たかだか20センチほどの雪でもたくさん降ったように感じてしまいます。
雪不足で夏の災害が心配、などと言っていましたが、降れば降ったで「やっぱりないほうが楽だよね」などと簡単に前言撤回してしまっています。まことに勝手なことです。

4日上京の際、お骨を持参しました。
カンボジアのお母さんのお骨です。
1980年、タイのカンボジア難民キャンプでお母さんの家族と出会いました。
お母さんの名前はニャン・サン。夫はトン・バン。男の子が二人ハッチとホッチ、双子の女の子マーチとモッチ、それに親を殺された男の子ブン・ラーが里子として一緒に暮らしていました。
サケオ難民キャンプは約3万人が収容されていて、高床式の床とコンパネで三方を囲い屋根をつけただけの建物で、お母さんの家族7人は6畳間ぐらいの1間で寝起きしていました。
私たちが毎日のように訪ねるようになったある日、「今晩うちに来て夕食を食べませんか」と誘われました。
難民の人たちが週2回配給の食材を七輪で煮炊きして食べているのを知っていましたから、その食事をいただくなどということはとても考えられずお断りしましたが、それでもどうぞどうぞと何度も誘われて、断るのも失礼なのかもしれないということで、その晩4人のボランティアが訪ねていきました。
限られた食材を工夫して作ってくれた料理であることがありありと分かります。
調味料もなく正直おいしいとは思えませんでしたが、「チュガニ(おいしい)」と言いながら、冷や汗をかきかきひきつった笑顔で何とか飲み込みました。
食事が終わったとき、お父さんがこう言いました。
「カンボジアでは友情の証として食事をごちそうするんだ。あなたたちを友だちだと思いたいので食事をしてほしかった。来てくれてありがとう。食べてくれてありがとう」。
お母さんはこう話してくれました。
「私にはこの子たちの上に、兄が一人姉が二人いたんだけどポル・ポトに殺されてしまった。だからお前たちは今日から私の息子だよ」と。
それ以来私は、二人を「お父さん、お母さん」と呼んできました。
その家族がその後難民として日本にやって来ることになります。
日本で抱き合って再会を喜びあってから35年。親子として、子どもたちとは兄弟としてつき合ってきました。
27年前、お父さんが亡くなりお骨はお母さんと弟ホッチと一緒にカンボジアまで行って納骨しました。
8年前に亡くなったお母さんのお骨はしばらく預かっていてほしいということで松林寺で預かっていました。
それがようやくカンボジアまで持って行けそうなのでということで、4日に東京で妹マーチに届けてきたのでした。

お母さん、40年前に食事をいただきました。
後から聞いたことでしたが、あの時の食事は私たちにごちそうするために、何日も前から配給を少しずつ少しずつ蓄えておいてくれたんだそうですね。
そんなことが本当にできたのかと、今でも思います。
そして、私たちが食べるのを見て「よかった食べてくれた、おいしいって言ってくれた」と笑顔で喜んでくれた子どもたちの顔を忘れることはできません。
豊かさというのは、お金や物をどれだけ持っているかではなく、自分のものをどれだけ人に分け与えられるかだと思います。
お母さんたちは、自分の食料さえ配給に頼っている状況だったのに、それでもそれを分け与えようとしてくれました。それは最も豊かな心だと思います。分け合ったのは、命にも似た心でした。
逆に、どれだけお金や物を持っていても、それを自分のためだけに使おうとする人を貧しいというのでしょう。日本人は豊かなのか貧しいのか。
私は、豊かさとは何かをお母さんたちから学びました。
私がこれまでいただいた食事で、いやこれから先も、あれが最も貴重な食事でした。生涯忘れません。ありがとうございました。故郷のカンボジアでゆっくりお眠りください。
徳実誠信居士、徳風妙薫大姉、お父さんとお母さんのお骨の一部はこれからも松林寺で預かります。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。