なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ209 SNSと驕奢

2019年05月05日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第209回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月5日、日曜日。

令和となりました。
今の若い者は何でもかんでもバカ騒ぎするんだと冷めた目で、逆に引いてしまって「如常」とつぶやいてみたりと、若干ひねくれたところがあります。
お祝いするにしても、粛々と心からというのが、この世界において元号を維持するこの国の、伝えていかなければならない態度であり意味でもあるように思います。
また、私も使っていますがSNSは、プチ自慢の披露し合いのような感じでこちらも冷めた感じを持っています。
どこに行ってきた、何を食べた、何を飲んだと、そんなに報告しなければならないですかね。
他を傷つけるような中傷誹謗の言葉ばかりをまき散らすよりはマシだとは思いますが、何気ないプチ自慢がひとを嫌な思いにさせることもあるのではないかと思っています。
例えば幼稚園児が連休明けに、「ボクはどこに行ってきた」「私はここ」と自慢し合っているのを聞いて、傍らでじっと耐えている子もいるだろうということです。
自慢は幸せの表現でしょうから「よかったね」と微笑ましく見ればいいのでしょうし、「こちらまで幸せな気分になる」と共感してくれる人もいるに違いないと思います。それは幸せな人です。
一方で、日々の暮らしに汲々としている人にとってはどうなのでしょうか。あるいは病気の人は。各地の被災者は。
みんなが幸せそうな様子を見るにつけ、置いてきぼりのように自分の境遇の辛さが際立って感じてしまう人もいるのではないかと思うのです。
まあ、そんな人がSNSを見るか、と言われればそうかもしれませんが。見るか見ないかよりも、自慢を拡散させる風潮が、慎みの心を失う原因になっているのではないかということです。

SNSというものがこれほど一般化する前は、どこに行ってきただの何を食べただのという報告は家族や友人程度の範囲であって、世界中に公開するような場はあり得なかった訳で、こういうものが発展して問題なのは、個人的な情報と公共の情報の区別があいまいになってしまったことだと思われます。
テレビなどと違うのは、遠くの赤の他人の情報ではなく、自分の知っている人々が何をしたかが逐一知らされるということです。
出所が身近であればあるほどうらやましさはつのるでしょう。
自慢というのは「どうだ、いいだろう」という気持ちが含まれているわけで、それは見る人に「うらやましい」という感情が芽生えることを期待していることでもあります。
そんな情報のやり取りが拡散されあふれるようになれば、そちら側に行けない人の挫折感を助長することにもなるだろうと思うのです。
幸不幸の格差が広がるような感じです。
それが、無意識の何気ない情報の一つ一つから起こるような気がするのです。
そんなこと流す側の勝手でしょう。見たくない人は見なければいいだけじゃない。遊びなんだからそんなに目くじら立てなくても、というのも分かります。
しかし、遊びも他を慮る慎みの心がなければ、思わずながら他を傷つけることにもなるかもしれません。

道元禅師はこのようなことを言っています。
「人それぞれに欠点はあるが、驕奢、驕り高ぶる心これが第一の欠点である。本人は高ぶる心はないのだが、何の心もなくふるまうと、近くにいる不遇な人の心を傷つけることがある。自分が富んでいると、その幸せにまかせて、不遇な人が見てうらやむのも気にかけないのを高ぶった人というのである」と。

そこまで他を気にする必要はない、というのが現代かもしれませんが、公共を意識する配慮がどんどん低下しているように思います。
個も公共の一部であり、個が公共の配慮をもって公共に臨まなければ公共の意義も失われてしまうでしょう。わがまま勝手言いたい放題が公共ではないはずです。
SNS時代に驕奢を慎むのは、矛盾するぐらいに難しいものなのかもしれません。


島津亜矢『誕生』


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。