なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ211 大人の子ども

2019年05月19日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第211回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月19日、日曜日。

今日は広島からお送りしています。
昨晩は、毎年恒例の呉神応院さんの講話会でした。
今日はこれから帰って宿用院で12教区護持会総会の法話です。

自分の過去のブログを振り返って読んでみて、時折、いいなあと思うものがあります。
これは5年前に書いた記事ですが、今読み返してもなかなかよくまとまっていると思ったので改めて紹介したくなりました。

2014年4月26日、タイトルは『あぶらっこ』。

子どものころ「あぶらっこ」という言葉がありました。
子どもが遊ぶのは屋外であり、誰かと集団で遊ぶのが遊びというものだと思っていました。
遊び場には同年代ばかりでなく、大きな人も小さな人もいて、それらがまざって遊ぶものでした。反対にいうと、まざらなければ遊べないものでした。
小さいころ、大きな人と遊ぶのは怖いことであり、怒られないように、いじめられないように気を遣いながら遊んだと思います。もうそれは、社会でした。
そこで、年齢差のある子どもたちが同じ遊びをする場合、どうしてもまだ一人前(子どもとして)の仲間になれない小さな者は、「あぶらっこ」と呼ばれ、あぶらっこのルールが適用されるという決まりでした。
たとえば、野球の一塁ベースが少し近かったり、缶蹴りの鬼にはさせない、というような特別扱いをされるのがあぶらっこの存在でした。
それは子どもにとってうれしいことではなく、まだ一人前の子ども扱いされない惨めさを感じるものでした。
それでも、まぜてもらえなければ遊べないので、泣きながらでもついていくのでした。
ここで言いたいのは、あぶらっこ側の問題ではなく、どんな小さなものでも仲間はずれしないで一緒に遊ぶことになっていた「大人の」子ども社会のことです。
ルールを変えて特別扱いしても一緒に遊ぶ、という許容量の大きさが子ども社会にもありました。
もう少し以前には、福祉もましてやボランティアもありませんでした。
村社会は、村の仲間を社会の一員として仲間はずれしないで生きてきたので、福祉という隔離政策や、ボランティアのような「善行」が必要のない、「当たり前」のことでした。
「ボランティア」という言葉が日本語になりにくいのは、そういう概念すらこの国には必要なかったということだと思います。
もちろん、障がいや老人に対する対応が、必ずしも優しい社会ではなかったと思います。
でも、隔離せずに一緒に暮らしていれば、そういう人も社会にはいるのだということを知って育ったことは間違いありません。
福祉やボランティアという行為が声高に言われるのは、仲間はずれしない社会が崩壊した現れなのかもしれません。
SVAシャンティ国際ボランティア会の初代会長、松永然道現名誉会長が初期のころよく口にしていたのは、「我々は我々の団体が必要なくなるためにやっているんだ」という言葉でした。
けだし名言だと思います。
元々(本来の意味は若干違いますが)いわゆるボランティア活動は、非日常の状況での活動であり、日常的には、特別な人が特別な行為をしなくても、みんなが助け合って支え合っていける社会が本来であり、その社会の実現のために我々は行動しているのだ、という思いであったでしょう。
この地に、いつからあぶらっこがいなくなったのでしょうか。
この国に、ボランティアが必要のない社会をとりもどすのはもう無理なのでしょうね。

うーん、本当にそう思いますね。自画自賛ですが。
先週ここで「大人はもっと大人になろうよ」という話をしましたが、以前はこの記事のように「子どもですら大人だった」と思います。

以前カンボジアに行った時も同じような光景を見ました。
田舎の村を案内してくれたスタッフが一軒の家に入っていきました。
家とも呼べないような、隙間だらけのあばら家で、暖かい国だからこれでもいいのかと思いました。
そこにはおばあさんが一人で暮らしていました。
生活保護などの社会保障はあるのかと聞くとないと言います。
ではどうやって暮らしているのかと聞くと、こう教えてくれました。
このおばあさんが市場に行くと、知っている人が「おばあさん、今日は何が欲しいの」と声をかけておばあさんが必要なものを買ってくれるのだと言うのです。
必要なものといっても、冷蔵庫があるわけでなし、2・3日分の米や野菜や小魚などでしょう。
それが当たり前に行われているのだと知りました。
そういうことで、この日もわずかなお米をおばあさんにあげるためにスタッフは私をここに連れてきたのでした。
おばあさんは一人暮らしだけど、村では一人ではないという社会でした。
行政の社会保障というのは、見て見ぬふりをしてもいい社会をつくってしまったかもしれませんね。

それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『ホームにて』高畑充希の唄でどうぞ。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。