なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ472 広島で何食った

2024年06月16日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第472回。令和6年6月16日、日曜日。

 

12日、東北管区教化センター資料作成委員会の会議で仙台泊。

懇親会の後、外に飲みに出る力は残っていませんでした。体力が落ちています。

 

今日は広島、呉に来ています。

昨日の夜、神応院さんの仏教講話会に呼ばれてのことです。

コロナで3年休みましたが、18年ほど前から毎年呼んでいただいています。

今は「四無量心」の話を5回にわたって話し、今回が最終話でした。

過去のレジュメを繰ってみると、挿入に同じような話が出てきます。

一人の人間に経験談や知識が無尽蔵にあるわけではなく、回数を重ねれば同じような話になるのは仕方のないことです。

それを怖れることはありません。聞法者も全てを正確に記憶している訳でもないでしょうし、繰り返し聴くことで話者が大事に思っていることが伝わるということもあるでしょう。

例えば、「親父から何度も聞かされた」というような話は、親父という人間性、信条が分かる事象であり、その理念が家族子孫に伝えられていくことにもなるでしょう。

繰り返すことで心に染みてくる、それ自体に意味があるものと言えます。

母が元気だったころ、帰る度に決まって「広島で何うまいもの食ってきた?」と聞かれるのでしたが、どこかで食事ということはなく、お寺で手作りの夕食と終わってからの懇親でこちらも手作りの料理をご馳走になるのが常でした。

それはどれもおいしくいただいて来ましたが、母親の聞くような広島だからといっていわゆる名物のお好み焼きだとか牡蠣だとかを食べることはありませんでした。

それに対して私は「観光しに行っている訳じゃない」とつっけんどんに答えていましたが、母親が聞きたいのは食べ物ではなく、「あんなことがあった、こんなことがあった」という話を聞きたかったのでしょう。

どこに行って帰って来ても何か話すわけでもなく憮然としているだけなので、話の糸口として食べ物のことを聞く以外になかったのだと今は思います。

まことに、親を喜ばせることのできない息子でした。いや、何を求めているのかは気づいていたと思います。しかしそれに応えることが億劫というか、面倒くさいというか、甘えていたのだという以外にありません。

ひとは、その心が分かるのはいつも亡くなってからばかりですね。

 

『なぜヒトだけが老いるのか』という本を興味深く読みました。

生物学者小林武彦の『生物はなぜ死ぬのか』の続編のような著書です。

『なぜ死ぬのか』では、生物は「変化と選択」によってたまたま環境に適応したものだけが命をつないできた、という説明でしたが、『老いるのか』では、ヒトだけが獲得した「老後」の意味について語っています。

かいつまんで言うと、ほとんどの生物は生殖能力がなくなると死ぬ。いわゆるポックリと。なので「老いる」という期間はない。

ではなぜヒトだけが「長い老後」を獲得したのか。

ここにも「変化と選択」という仕組みがあるというのです。

ヒトが二足歩行を始めてから、産道が狭くなり未熟児のまま産むことを選択した。すると子育てをするとき、一人では手がかかり次の子どもを産むまでに時間が必要だった。

そこにその母親、おばあちゃんがいた場合子育てに手を借りられて子どもを産みやすくなった。

そのようにして多くの子どもを産むことができたヒトが多く生き残ってきた、おばあちゃんの存在が有効であり寿命が延びた。という仮説です。

ではおじいちゃんはどうか。

ヒトは一人では生きられない。集団で社会を形成して生きている、というのが前提です。

その社会においては、様々な問題が起こった時の対処法として、豊富な経験と智慧を持った存在がいる社会が問題解決に有効で永続できた。

つまり、子育てに関わりはしないけれど、社会をまとめる「知識」としての存在がおじいさんの存在意義だった、というのです。

そして、85歳を過ぎたあたりから、欲が支配する世界から超越した「老年的超越」という心理状態になるというのです。

おもしろいですね。

その他さまざまな示唆に富む好著でした。二冊合わせて読むことをお勧めします。

 

今週の一言。

「老いには意味がある」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 


サンデーサンライズ471 頑張れ体

2024年06月09日 05時05分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第471回。令和6年6月9日、日曜日。

 

先週の集中講座は大変楽しく過ごしました。

泣いて笑ってうなづいて、命の洗濯ができたと思います。

来場者も喜んで帰られたことが、その表情から読み取れました。

打ち上げもいつものことながら、乾杯からMAXの盛り上がりで、65名が爆発したようでした。

来場者には申し訳ないことですが、ある意味打ち上げのために講座をやっているようなもので、これがなければここまで続けてこられませんでした。

興奮冷めやらぬまま、徐々にクールダウンしながら次の日程へ進んで行きます。

 

5~6日は、永平寺布教師会孝順会に呼ばれて松島で講演でした。

大御所の先輩布教師方の前で、震災支援の経験などを話させていただきました。

終ってからの懇親会は布教師会だけあってみんなよくしゃべり、聞いている人がいるのかと首をかしげるほどでした。

松島は観光客も大勢いて、どこも賑わっているんだなと改めて感じました。

ホテルの露天風呂からは松島の島影と波間に浮かぶ白い船が見えて、芭蕉ならずとも訪れてみたくなる景観であることは間違いありません。

ただ、そぞろ歩く観光客からも露天風呂は見えて、こちらは景観がよろしくないことでした。

立ち上がるのは控えたいと思いました。

 

そして昨日は松林寺の大般若会と護持会総会。年に一度の檀家の祭りのようなものです。

100名近くが来場、敬虔に祈禱法会に手を合わせていました。

終って午後からと本日は、教区内寺院の本堂落慶、晋山結制、退董式が挙行されます。

日程がかぶってしまいどうかと相談しましたが、連続してできないことでもなさそうなのでそのままやることにしました。

なかなかハードな日程で、何とかこなすことはできるのですが体がついてきているかが気にかかります。

少し心配な検査結果も出てきています。

更に7月第1週まで予定がいっぱい入っていて、何とかもってくれこの体、と祈っています。

 

ということで、今週は短めですがここまでとします。

また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ470 家庭内の平和

2024年06月02日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第470回。令和6年6月2日、日曜日。

 

マザーテレサに次のような言葉があります。

「自分の家庭の外で人々にほほえむことはたやすいことです。

あまりよく知らない人をお世話することは、実はとてもやさしいことなのです。

あなたの家の中で毎日会っている家族を、

思いやりをもって、やさしく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいことです。」

実にそう思いますね。

他人に対しては遠慮もあり、よく見られたいという欲もあり、関係をこじらせたくないという配慮も働いて、ほほえみを以てやさしく接する。

あまりよく知らないからこそ、その場限りの大人の接し方ができる。

なのに身内に対しては、遠慮なく素の自分が出てしまう。

いい面もあるのに嫌な面ばかりが心に残っているから素直にやさしくも親切にもできない。

甘えているのでしょうね。

そしてそれがストレスにもなる。

他の人は自分の思い通りにはならないなど百も承知でありながら、身内に対しては思い通りにならないことにイラッと感じてしまう。そうではないですか。

考えてみれば、自分自身も自分の思い通りになりません。

こんなこともう止めようと思いながら、その側からまた手を出してしまう。

自分のことも自分で思い通りにならないのに、身内には「何故私の言っていることが分からないのだ」と怒ってしまったりもするでしょう。ねえ。

自分も自分の思い通りにならないように、相手も自分の思い通りにならないと思っているに違いない。

だとすれば、「そうだよねえ」と許してしまった方がストレスにはならないですね。

できないところばかりではなく、それ以上にいい点もあるはず。

なのに、なかなかいい点は見えづらく、欠点ばかりが気にかかってしまう。

それも身内だからですね。

本当に「家の中で毎日会っている家族を、思いやりをもって、やさしく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいこと」なのです。

マザーテレサはこうも言っています。

「平和も戦争も家庭から始まります。もし本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家が相互に愛し合うことから始めていきましょう。」

世界の平和は家庭から。

自分の家庭が平和にならない限り、世界の平和はなり得ないのです。

さらに仏教は、平和は一人ひとりの心の平和からと教えています。

それが「シャンティ」の意味です。

「平和」とも訳しますが「寂静」の意味が強いようです。

ひとりひとりの心が寂静、静かで穏やかであれば、争いが生ずることはなく、その心が広まれば世界は平和になるだろうというアプローチが仏教的平和の捉え方です。

 

本日は集中講座の当日です。

昨日までに大まかな下準備は終了し、本日はそれぞれの担当スタッフに委ねます。

この講座の収支は私が管理しています。

16回目ですが途中コロナで3年間休んだので19年前、私が他所の法話や講演などでいただいた謝金を収入に補填して営むという計画でスタートしたものです。

ただ、私の財布とカミさんの財布はドラえもんのポケットのように底でつながっていて、一度入ったものはなかなか出たがりません。

いくらスタート時点の趣旨を説明しても、出金の申請が通らないのです。

私は心から平和を望んでいるので、静かに穏やかに交渉を続けたいと思います。

思いやりをもって、やさしく、ほほえみを忘れずに愛し続けたい、と思っているのですが、、、なかなか思い通りになりません。

そんなこともすべて忘れて、打ち上げでは心の底から楽しみたいと思います。

明日あるかどうかも分からないのですから。ましてや来年など。

 

今週の一言

「平和も戦争も家庭から」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ469 遠慮せずに楽しめ

2024年05月26日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第469回。令和6年5月26日、日曜日

 

22日、何ということもなく誕生日も無事に過ぎ、満68歳となりました。

自分の寿命は60歳だと想定していた頃が懐かしいです。若かったのでしょうね。

年齢は一つの目印であって、年齢によって老人だとか、定年だとか決めることではないはずです。

若い体で若い考えを持ちどんどん動けるうちは若いのであって、70歳であろうが80歳であろうがそれによって何かを規制する必要はないでしょう。

何歳まで生きようが何歳で亡くなろうが、その人の人生はそれで評価されるものではありませんから、あまり気にする必要はありません。

ですから、誕生日だとか、何歳になったとかはあまり意味を感じません。

世間並みのことを口にしてみただけのことです。

 

20~22日、東京の曹洞宗本庁で布教師検定会がありました。

今年度検定委員を務めることになり、上京しました。

布教師を目指して真摯に検定に臨む若い僧侶の姿は、やはり熱いものを感じ刺激を受けます。

少し年齢を重ね経験も重ねた人間は、自分の得たものを惜しみなく後人のために施さなくてはなりません。

そのようにして人間は原始から智慧と知識を受け継いで来たものでしょう。

なるべく多く伝えたいと思うし、また訊ねてももらいたいと思います。

お互いに生きている間です。

 

東京に行くといつも思うことですが、なぜみんな歩くのが早いのだろう。

毎日散歩はしているし、それほど足に自信がない訳ではありません。

それなのに、街を歩いているとみんな追い越していくのです。

自分より年齢が若いと思しきお兄さんやお姉さんに抜かれるのは当然のこととして許せますが、自分より年齢が上だと思われるおじ(い?)さんやおば(あ?)さんが、スタスタと横をすり抜けていくと、多少なりともイラッとして焦りを感じます。

みんなどうしてそんなに足が速いの?

そりゃあ歩幅も違いますよ。キャリーケースを引いてはいますけど。それにしても、どんどん追い抜かれて置いてけぼりになるような焦燥感はあまり感じのいいものではありません。

老いというよりも体に沁み込んだ田舎の時間が都会に合わなくなってきているのだと思われます。

まあ仕方がない。田舎で生きればいいだけのことです。

年齢とともに田舎が心地よくなってきました。あれほど嫌っていたことがウソのようです。

体が田舎仕様なことに意識が馴染んできたのでしょうね。

時間も空間も空気も匂いもちょうどよく感じます。

 

来週に迫った第16回集中講座の第2回実行委員会が23日にありました。

住職は様々に下準備はしますが、当日運営するのは実行委員のスタッフです。

実行委員長、司会、受付会計係、駐車場係、会場係、音響担当、FM担当、会場誘導係、楽屋対応(台所)、門前市担当、記録係、控室担当、打ち上げ担当等、それぞれ役割分担で動いてくれます。

さらに住職は当日の午前に教区寺院の大般若会があり、毎年準備が整ったところに帰ってくるという状態でスタートしています。

回を重ねるごとに頼りになるスタッフ陣です。

今回のスタッフは東京からの参加も含めて総勢38名になります。

それにミュージシャンと気仙沼、金山町、白鷹町からのお客さんで、打ち上げは64名の予定です。

祭りは見るよりもやる方が断然面白い。

その面白さは打ち上げに極まると思っていて、この打ち上げを大事に力を入れています。

その爆発を想像しながら準備を進める時間は私にとって至福の時間です。

来場者が何名というよりも、スタッフが自分の役割として楽しそうに動いてくれることの方が何倍もうれしく、それだけでこの催しを始めて良かったと自己満足しています。

今では、ウチの子どももスタッフにしてくれと連れてくる親スタッフも出てきました。幸甚の至りです。

さて、どんな打ち上げになるか今から楽しみです。

 

今週の一言

「楽しめる時は楽しめばいい」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



 


サンデーサンライズ468 なんだか寒い

2024年05月19日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第468回。令和6年5月19日、日曜日

 

五月寒というのか、田植えの時期は田んぼに水を張るせいか気温が下がります。

水鏡のような田んぼに逆さ富士ならぬ、家並や木々が映り、それはそれできれいです。

先週あたりから田植えが始まっています。酒米の田植えも昨日無事に終えました。

水面に小さな苗が震えるようにひとり立ちしています。仲間とバラバラになり心細そうにも見えます。

大きくなるんだよ。

寒い日も暑い日も風の強い日もあるかもしれないけど、しっかり根を張って子孫を増やしてね。

やはり当地の農業は稲作が基本だと思うのですが、米作りには数々の農機具が必要で、その購入費用が農家の経営を圧迫し、買い替え時期をもって稲作を止める農家が続出しています。

稲作の機械化は、結局農機具メーカーのためのものであり、農家の農家離れを促進してしまったのではないかと思ったりします。

換金作物の多様性も必要かと思いますが、基本の稲作が敬遠されることは果たしてそれでいいのかと疑問を感じたりしています。

稲作農家は規模を拡大し、農機具に見合う面積を確保しなければならないということなのでしょう。

和尚はただぶらぶらと肩身を狭くして散歩をしながら、愚にもつかない思いを巡らしているのです。

 

もう一度集中講座の告知です。

6月2日(日)午後1時30分開講。

毎回だいたいの来場者は200名弱になりますが、何とか全員座ってもらっています。

篠笛の田村優子さんの演奏を生で聞くのは初めてです。

彼女を紹介してくれたのは大学時代のサークルの後輩で、新潟の加茂で寺の住職をしている飛田正玄君、彼もギターでサポートしてくれます。

どんな音色でどんな演奏を聴かせてくれるのか楽しみです。

遊花師匠は2回目ですが、前回はまくらでうけにうけて、なかなか本題のネタに入れないという口演でした。

同じ東北の日常のあるあるネタは、同じ経験をしている人が多いと見えて、腹を抱えて爆笑の渦でした。

東北弁落語の本領爆弾が炸裂でしたね。

今回はどんなネタで笑わせてくれるでしょうか。こちらも楽しみです。

私の講話「行雲流水その2」は父親の話をまとめて語ってみようかと思っています。

あれほど嫌っていた父親の印象が、亡くなってからじわじわと変化してきています。

父の人生を物語としてみたその心情を思うと、愛おしく感じられるようになりました。

どこまで話せるか。時間が足りなければ来年へつづくとしましょう。

連絡をいただけば前売り券を確保しておきます。

 

先々週告知してまだUPされていませんでした私の法話ビデオがようやく視聴できるようになりました。

プロンプターを読んでいることが明らかに分かります。

それに何ヶ所も切り貼りの編集をしたので、手の位置が一定しません。撮り直ししたくとももう手遅れです。

更には顔は編集しようがありませんが何とも無様です。

それでも観たいということであれば以下からどうぞ。無様なところを見たいというのは悪趣味ですね。

30分ものですが、何かしながら声だけ聴く分なら映像に邪魔されずに聴けるかもしれません。

やっぱり法話は、一期一会の臨場感がないとだめですね。

智慧と慈悲の実践 (youtube.com)

何だか寒い。

 

今週の一言

「この命を引き受ける覚悟」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ467 出会いの不思議

2024年05月12日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第467回。令和6年5月12日、日曜日。

 

5月8日は月遅れの釈尊降誕会、花まつりでした。

毎年恒例の花を1本ずつ持参してのお参りです。

季節の流れによって年ごとの花が変化します。椿やチューリップ、桜がある時もありますが、今年は季節が早くつつじやボタン、石楠花やスズランなどが混ざりました。

そして今年は、珍しいお客様が参加。京都からとアメリカからの二人の女性です。

どういうつながりかといえば、話せば長くなるのですが、京都の森島さんとは40年前に縁がつながりました。

永平寺からの行脚の日記「行雲流水」を松林寺の寺報に連載して、それを毎月無著成恭先生に送っていました。

その連載が終わった時、先生はそのことを京都の新聞にコラムとして書いてくれました。

それを読んだ森島さんが、「その寺報を読みたい」と手紙をくれたのが縁の始まりです。

コピーを送った後の寺報も毎月送っていました。森島さんからは毎年正月前に昔ながらの手作りのお菓子が正月用にと一斗缶で送られてきました。

更につながりが強くなったのは東日本大震災で、森島さんの知り合いが気仙沼にいるということでその安否を伝えたり、物を届けたりして連絡が密になりました。

その頃から、連絡の窓口は私ではなくカミさんになり、ラインなどでしょっちゅう連絡を取り合っているうちに、京都に来てとか山形に行くとかの話になったようです。

一昨年松林寺の旅で比叡山に参拝したときに、嵐山まで来てくれて一日行動を共にしました。その時が、森島さんとの初対面でした。実に38年にしてようやくの顔合わせだったのです。

そして今回、以前からの山形に来たいという思いが実現しました。

アメリカのジェーンさんは、森島さんの息子さんがアメリカにいた時にお世話になった方で、今回息子さんに会いに来るのに合わせて山形まで同行しようということになったようです。

アメリカでは車と飛行機は使うけれど、列車に乗ることはまずないということで、新幹線と在来線を乗り継いで立小路駅までの移動がとても楽しかったようです。

到着した時間が花まつりの最中だったので、一緒にお参りして焼香と甘茶をかけてもらいました。

その晩はカミさんが作った山菜料理を囲み、どれも旨いと喜んでもらいました。

焼きたけのこ、たけのことアスパラの天ぷら、アスパラ肉巻きのフライ、茹でアスパラ、ワラビとアスパラの一本漬け、ワラビ炒め、蕗炒め、キウイと生ハム、チーズと味噌粕の和えたもの、たけのこの味噌汁などなど。

アスパラとたけのこだけじゃないか。食材は地元の限定的なものですが、色々アレンジしてテーブルを飾ってくれました。

特に焼いた笹竹のたけのこが気に入ったようで、何本も皮をむいてマヨネーズ味噌を付けては食べていました。

カリフォルニアには日本食レストランがあって日本酒も飲んだことがあるようで、「hot sake」がいいというので熱燗の盃を傾け楽しく過ごしました。

翌朝、坐禅もしてみたいと5時30分からの坐禅と朝課更に散歩まで、私の朝のルーティンにつき合ってくれました。

二日目は、カミさんと三人で蔵王温泉まで出かけて一泊し、最上川舟下りを楽しみ、夕方回転ずしにも挑戦してもらいました。寿司がレーンをシュッとやって来るのを目を丸くして子どものようにはしゃいでいました。

蔵王では気温が2度まで下がり雪もちらついたようで寒かったとのことですが、舟下りは暖かい陽射しに恵まれ楽しめたようです。

11日、4日間の別れを惜しみながら山形を後にしました。

次はカリフォルニアでと言われても、無理でしょうね。

 

出会いはどんなことから始まるか知れません。この出会いの始まりは一本の手紙でした。

以来、40年で二度しか会ったことがないのです。

一つのつながりを大切にして精一杯過ごせば、また新たな出会いを連れてくるでしょう。

花まつりの持ち寄り花ではないですが、その時の美しい一本を持ち寄れば全体として絶妙な生け花となります。

その後のことを計算に入れず、その時その時精一杯。それしかないですね。

 

今週の一言

「楽しい出会いは別れても温かい」

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 

 


サンデーサンライズ466 プロンプター

2024年05月05日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第466回。令和6年5月5日、日曜日。

 

早や5月に入りました。

世の中は連休ということで、移動したり楽しんだりで、季節もいいし、経済効果にもなることでしょう。

ただ、日本国民全員が休んでしまえば世の中は回らないわけで、いつもと変わらず働いてくれる人がいるからこそ休めるということも頭の片隅に置いておくべきだと思います。

以前ほどではなくなりましたが、お寺も連休はそれなりに忙しい期間となります。

連休を利用しての里帰り、併せて先祖の供養をするというのは、ただ遊ぶよりは意味があり連休の使い方としては好ましいことと思います。

 

体調を崩す前の4月15日、東京でビデオ撮影がありました。

YouTubeに流すビデオ法話の撮影です。

曹洞宗管長のお言葉「布教教化に関する告諭」が毎年年度初めに発布されますが、それを全国の檀信徒に伝えそれに因んだ法話を行うというのが特派布教師の任務です。

今年度2年任期で32名の布教師が任命され、それぞれの任地が決められ巡回することになります。

32名の中で私が最も古株ということになり、代表して公式なビデオ法話を任されたのでした。

コロナに入ってからそのような布教の方策がとられ、これまでも何人かが務めてきました。

私はそういうのに向かないと思っていてこれまで辞退してきましたが、最古参となれば責任も感じますし受けざるを得ないと観念しました。

本庁の研修道場にはビデオカメラと機材がセッティングされていて、ハイどうぞという段取りでした。

カメラの前にはプロンプターがセットされています。

政治家の演説などで見るようなものではなく、カメラと一体となったもので、その画面を真っすぐ見て文字を読めばそのままカメラ目線になるというものです。

今ほとんどのテレビニュースはこの方式だということでした。

公式な法話を下を向いて原稿を読むようではいけないでしょうし、かといって面と向かって言い間違いだらけでも具合が悪いだろうと思案していましたが、これであれば問題がないように思いました。

ただ、ニュースと違って法話は聞法者と相対して、対話のように話を進めていくものなので、間違えずに文字を読めばいいというものではありません。臨場感が必要なのです。

プロンプターを読みながら臨場感を出すのは難しいことでした。

どうしても文字が流れてしまえば、それを間違えずに読むだけで精一杯で、表情も手の動きも固まったままということになってしまいました。

しかも、それすら噛み噛みの読み間違えだらけで、何度も撮り直しをさせてしまいました。

編集で切り貼りしてくれるのだろうと思いますが、どのような出来になったか心配です。

だからこういうのは嫌だと思っていたのです。向いていません。アナウンサーの技術の高さを思い知りました。

本来5月1日に視聴可能になる予定だったようですが、今月中旬にずれ込むとのこと。きっと編集に苦労しているのだと思います。

何なら顔も編集してもらえばよかったと後悔しています。

他の布教師さんの法話も視聴できますし、私のものもどうしても観たいということであれば以下のリンクから視聴することができます。

曹洞宗ビデオ法話

 

4月30日は特派布教協議会で今年の任地の一つ島根県に行ってきました。いわば打ち合わせです。

島根県は都合4回目になります。

平成29年の前回と今回はその中の隠岐の島の巡回です。島のお寺さんを6カ寺回ります。

どちらも少ない檀家さんでお寺を大切に維持してこられたことが分かりました。

8月初めの巡回ですが、今回はどんな出会いがあるか、今から楽しみです。

 

今週の一言

「法話は対面がいい」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ465 まいったたぬき

2024年04月28日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第465回。令和6年4月28日、日曜日。

 

先週は失礼しました。

UPするだけまでに下書きを完成させていたのですが、何故かすっかり消えてしまっていて、苦し紛れに流した情報でご心配をかけることになってしまいました。

若い頃麻雀をしていた時に、

「まいったなあ、まいったたぬきは屁で分かる」とか

「そうはイカの筋肉質」だとか

意味のない慣用句を口にしながら打っていたことを思い出しましたが、facebookにたくさんの皆様からご心配のお声をかけていただき恐縮しました。

皆様、弱った者に優しいことだと思いました。

自分もそうなので、お言葉にまでしなくても静かにご心配いただいた方もあったのではないかと推察します。そんな全てのお気遣いに、心より御礼申し上げます。

お陰様で、軽口が叩けるまでには恢復してきました。

しかし、今回の不調の原因は何だったのか未だに分かりません。

体の節々が痛くてだるく、起き上がるのも寝返りを打つのもやっとでした。

普段は足を布団から出して寝るほど温かいのに、足も体も冷えて足裏を腿の内側にくっつけていたりしました。

熱も咳ものどの痛みもありませんでしたが、コロナを疑って試薬で検査しても陰性。インフルエンザも考えにくいです。

食欲がなく、5食を抜いたら二日で2キロ体重が減って、これはよかったことです。

その後も以前の豚のような食欲がなくなり、できればこれを維持していきたいと願っています。

願うって、自分の意思の問題なのですが、食べたい欲を抑えられないので太っているわけで、何とかしてほしいと誰にともなくすがる気持ちになってしまうのです。

「腹部膨満感」というのだそうですが、常に腹が張って苦しい感じがあります。5食抜いても同じだったので調べたらそういう症状で、ガスがたまっているからかもしれません。

確かにまいったたぬきのように屁は臭いし絶えずげっぷが出る傾向にあります。

悪玉菌を減らし善玉菌を増やす対策法なども書いてありました。

原因の一つとして、早食いによる「呑気症」ということがあると。

早食いは充分に自己認識しています。

軍隊や修行道場経験者に多いと思われますが、食事を短時間で済ますことが求められる環境にいるとそれが身についてしまうのです。

呑気症というのは、食事のときに空気も一緒に飲み込んでしまって膨満感になるというものですが、その原因がストレスや早食いだというのです。

ストレスという原因は考えにくいのでやはり早食いでしょう。

そうです。腹が出ていると見えていたのは実は全て空気だったのです。違います。

これを機会に早食いの改善を図りたいと思います。

 

いずれにせよ、今回は「休め」の合図だと受け止めています。

これまでと変わらぬ動きをしているつもりでも、疲れ方がこれまでと同じだとは限らないということでしょう。

東京から続けて仙台に行きました。花の鶴楯の作業下見で山にも上りました。

それぐらいでと思っていましたが堪えていたのかもしれません。

休みたくても休めない人もいるでしょうから、休めることはありがたいことです。

でも、休めないというのは、命を犠牲にしても休めないことなのかと考えた方がいい場合もあるかもしれません。

体のサイン、休めの合図に素直に従っていきましょう。

 

今週の一言

「前を向いて休め」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ464

2024年04月21日 05時09分15秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第464回。令和6年4月21日、日曜日。

 

コロナではないのですがどうも風邪をひいたみたいで、体がだるく節々が痛いので寝て過ごしています。

食欲もなく、金曜日の昼から食べていません。

今日はだいぶ良くなってきたので起きようかと思っています。

このブログの原稿も書いていたのですが何故か全て消えていて復活できません。

今から書く気力もないので、今週はここまでとします。

また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ463 悩みを食べる

2024年04月14日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第463回。令和6年4月14日、日曜日。

 

桜が咲き始めると急に春が動き出した感じがします。

冬の間だらりんとしていた男たちの顔つきがキリッと真剣な面差しになって、働く農家になってきました。

和尚も負けじと、睡蓮と蓮の植え替え、植木に施肥、池の掃除、メダカと亀の外への引越しなどなど、いかにも忙しそうにパタパタと動いています。

いつもそうなのですが、作業が終わってから参考資料を見たりして、「ありゃ、違っていた」と気づいても後の祭り、今年は花が咲くかどうか。

池の鯉は、昨年鯉屋さんが亡くなって廃業したため、冬越しに預かってもらえなくなりました。

池が雪に埋まってしまうことと、イタチがやって来て鯉を引きずっていくと聞いていたため対策を考えていました。

鉄工所と相談して、アングルで枠を作り金網を貼って籠状のものを作ってもらいました。

これならば雪にもイタチにも大丈夫だろうと池に沈め一冬を過ごしました。

初めてのことなので、鯉は無事かと心配していましたが、先日籠を上げて無事を確認してホッとしました。

狭い所に押し込めていてゴメンね。掃除の時に泥水を飲ませてしまってゴメンね。

試行錯誤しましたが何とかきれいな水に戻り、気持ちよさそうに泳いている姿を見るとこちらも気持ちが良くなります。

来年はもっといい方法を考えたからねと、独り言ちしていました。

蓮や鯉のように手足を伸ばし、人間も新たな動きをしなければなりません。

 

朝の散歩の折り返し点は、2キロ先の東善院さん馬頭観音です。

観音堂に上がり、賽銭を入れ、真言を唱え、祈願をします。

今は「ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナ紛争の早期解決、国民避難民の身体堅固、能登半島地震・台湾地震の被災地早期復興、被災者各々身心安寧」を祈っています。

祈るだけでいいのか、という問いもありますが、祈ることができるのは人間だけの能力です。

他の痛みを我が痛みと感じ、何とかならないかと考える心、それが祈りとなります。

祈らずにはいられない、それが人間らしいということではないか、と思います。

 

馬頭観音は、言葉の通り頭の上に馬の顔が載っている、あるいは頭が馬の顔になっている姿の観音様で、六観音、三十三観音の一つです。

多くは憤怒の相をしています。

なぜ馬頭なのか、なぜ馬なのか。

馬は足が速く、口が大きいという特徴から来ています。

つまり、人の苦しみを観じていち早くその人の元へ駆けつけ、その悩み苦しみを大きな口でムシャムシャと食べてしまう、そういう願いが込められた相なのです。

憤怒の相は、不動明王などと同じで、人々に悪をさせないという慈悲からの叱りの相です。馬頭観音の場合は苦しみを放っておかないという強い意志を表しているものと思われます。

富沢馬頭観音堂向背の二本の柱には、見事な筆致で「衆生被困厄 無量苦逼身」「観音妙智力 能救世間苦」という聯が掛けられています。

正に馬頭観音の祈りを表しているものでしょう。

私がお参りをするときには、大きな線香立てにいつも一束の線香が供えられています。決まって同じ場所に。

同じ人が、毎日線香を上げてお参りされているのでしょう。

その人にどんな思いがあるのか、祈りがあるのか知りません。

しかし、毎朝ここに足を運んで掌を合わせているのですから、馬頭観音様がその祈りを聞き入れてくれないはずはないと思います。

 

日本人が住むこの国の各地に、様々な仏閣があり、仏菩薩が祀られています。

その仏像にどんな意味があるのかを知らなくても、そこに参り、掌を合わせる行持を続けることに意味があります。

人には、祈りを受け止めてくれる存在、その対象が必要です。そのために仏菩薩は祀られてきたのです。

もちろん、家の仏壇もその対象です。

そこに在りながら、近くに在りながら、素通りして掌を合わせないのは真にもったいないことです。

祈ることで、自らの慈悲心に気づき、智慧を育てていくことができます。

今までは問いません。今日、今からです。

 

今週の一言

「菩薩様に苦しみを受け取ってもらえばいい」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。