詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ゼレンスキー大統領演説

2022-03-17 13:42:22 |  自民党改憲草案再読

 ロシアのウクライナ侵攻に関連して、ウクライナのゼレンスキー大統領が、オンラインを利用し米議会で演説した。読売新聞によれば「軍事支援の強化を訴えた」(03月17日朝刊、14版=西部版、3面)
 日本でも、ゼレンスキー大統領のビデオ演説を国会に招致すべきではないかということが議論になっているらしい。
 それはそれで、意義のあることだとは思うが。
 私は、とても疑問に思っていることがある。

 日本は、何をしたいんだろう。アメリカは何をしたいんだろう。NATOは何をしたいんだろう。それが、よくわからない。「ウクライナからロシア軍が撤退すること」を各国がもとめているのは、わかる。
 問題は、それをどうやって実現するか。
 ウクライナを軍事支援することで、ロシア軍を敗退させる、という方法は、もちろんそのひとつだろうけれど。

 私の書くことは「夢物語」なのかもしれないが。

 ロシアのウクライナ侵攻を私は肯定するつもりはない。軍事侵攻はぜったいにしてはいけない。そのことを確認した上で、私は、こう考えている。
 戦争が起きたとき(起きるとき)、そこには対立の原因がある。対立というのは、一方的に生まれるものではない。双方の主張に違いがあって、はじめて起きる。
 そうであるなら、一方の主張(意見)だけを聞くというのはおかしくないか。
 プーチンの主張も聞かないと、「妥協点」というものが見出せないだろう。
 「妥協点」を探さない。ただ、ロシア軍をウクライナから撤退させればいい、というのであれば、ゼレンスキーの主張を聞く必要もないだろう。
 NATO(アメリカ)がウクライナに侵攻するのではなく、ウクライナのもとめに応じて、ウクライナにNATOの基地を造る(米軍基地を造る)というのであれば、それは「軍事衝突」こそ起きない行動だろうけれど、そういうことで問題は解決するのか。
 それはロシアが今回の軍事行動を起こした「原因」と思われるものを、そのままロシアに認めさせるということではないのか。
 「民主主義」を主張するなら、最低限、ロシアの言い分も聞き、できれば質疑応答をし、そのあとで国会で、日本がどういう行動をとるべきか議論することが大切だろう。
 はじめから「結論」があって、その「結論」をはやく導くために、ゼレンスキーのビデオ演説を日本の国会でも実施するというのは、何かおかしい、と私は感じる。

 それにまた、私はこんなことも考える。
 日本には沖縄問題がある。沖縄は「中国、北朝鮮から侵略される恐れがある。アメリカ軍の基地がないと安全が守れない」と主張し、アメリカ軍の駐留をもとめているのか。違うだろう。アメリカの世界戦略を実現するために、沖縄に基地が必要だと判断し、沖縄に巨大な基地を造っているのだろう。
 沖縄をウクライナ、米軍基地をNATOと読み替えるとどうなるのか。
 米軍は、いま、沖縄に侵攻し、そこに基地を造ったわけではない。米軍が沖縄に侵攻したのは第二次大戦のときである。そのまま、米軍が居すわっている。
 あるいは、ロシアと北方四島の関係はどうなのか。ロシア(ソ連)は第二次大戦時に北方四島に侵攻し、そのまま居すわっている。
 日本は、それを「正しいこと」とは認めてはいない。しかし、その現状を変更するために、たとえば北方四島に軍隊(自衛隊)を派遣し、領土を回復すべきだ(奪い返すべきだ)という意見が大勢を占めているわけではない。
 なぜだろう。
 単に、アメリカが、ロシアとの間で「北方四島」をめぐって紛争を起こしたくない。戦争に巻き込まれたくない、ということではないのか。
 アメリカ(議会)は、たとえば北方四島問題について、日本の主張の意見を聞くために誰かを議会に招き、演説させたか。あるいは、ロシアの大統領をアメリカ議会に招き、北方四島問題について、意見を聞いたか。
 アメリカは北方四島をロシア(ソ連)に与えることで第二次大戦後の勢力構造を確定した。ソ連の世界戦略とアメリカの世界戦略を合致させた。日本は、アメリカの世界戦略にしたがって、北方四島のロシア占有を受け入れている。
 さらには。
 イラクを攻撃したとき、アメリカ議会は、イラクの大統領を米議会に招き、主張を聞いたか。

 国際紛争の解決には粘り強い交渉しかない。そして、その交渉というものが「ことば」によっておこなわれるものならば、どちらか一方の「ことば」だけを聞く、あるいはどちらか一方の「ことば」だけを広めるという形で、「ことば」を動かしてはいけない。
 実際の「軍事行動」もそうだが、それといっしょに動いている「ことば」が、いったいどこから出てきて、どこへ行こうとしているのか、そのことをみつめる必要がある。
 そして、それを見極めるためには、絶対に「反対意見」が必要なのだ。「反対意見」を封じたところで、一方の意見に加担するのは、とても危険だ。「民主主義」とは言えない。

 私の書いていることは「理想論(空論)」かもしれない。しかし、私は、権力者ではないので、自分が頼れるものは「理想(ことば)」しかない。だから「ことば」を動かす。「理想」を持ち続ける。
 私が現在できるのは、こういう「ことば」を書くことと、フェイスブックで「友達」になっているウクライナのひとの安全をメールで日々確認することである。それをつづける。

 


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