きぼう屋

生きているから生きている

神の創造を生きる

2011年05月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「神の創造を生きる」

私たちは今、創世記から神の創造について学んでいます。
創造を学ぶとき、私たちはひとつの方向性を知るに至ります。
それは、神の創られた宇宙全体へと、私たちが解放され開かれていくという矢印です。

創造物語は、
イスラエルの人々が、バビロニアという国家から解放され、
神の創造された宇宙全体の一員であることを、
救いとして確認するために描かれたものでもあります。

神を信じるイスラエルの人々は、
バビロニアという帝国のために自分や世界が創造されたのではなく、
神の被造物全体のために創造されたことの意味を見出しています。

私は、現代社会でも、
大小さまざまなバビロニアがたくさんあると考えます。
私たちは様々なグループで生きていることと思います。
しかし、そのグループのみで完結しているならば、
つまりそのグループの中ですべてが賄えるとなるならば、
そのグループはバビロニアです。

私たちは、神の創られた宇宙全体の連帯(シャローム)の中でのみ
本当の救いと喜びに出会い、平和を得ます。

しかし、宇宙の中のどこか一部でまとまることにおいて満足し、
それですべてが整うと感じるなら、
それは私たちが宇宙に対抗して小宇宙を建設していることになると思います。
小宇宙とは、聖書の語るバベル(バビロニア)の塔です。

もし自分ひとりですべてできると思うとき、
それは小宇宙に生きており、神の創造を見失います。
家族が他の家族との交わりを持たないとき、その家族は小宇宙です。
仲良しグループ、会社のグループ(愛社精神)、学校のグループ(愛校心)、国(愛国心)、
そして教会も、
内側の愛のみ語られるならば、そこは小宇宙となり、創造を見失います。

原発事故とその後の隠蔽を含む対応は、
原発を推進するグループが小宇宙であり、
その世界の外側へ開かれることがないために起こったと言うこともできます。

私たちは、
それぞれのグループの外へ向かう愛を、
実は神の創造において頂きます。

それはいつでも新たな出会いが中心となります。
つまり神の創造とは、出会いなのです。