きぼう屋

生きているから生きている

希望を生きる

2011年05月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

*******************

「希望を生きる」

「希望はわたしたちを欺くことがありません(ローマ5:5)」。
長男が生まれた時、私には、一気に将来が開けるという大きな変化が起こった。
長男が小学生の頃の家族や教会や世界、
中学生の頃、二十歳の頃、彼が結婚して孫が与えられた頃、その孫が小学生の頃…を、
相当リアルに、またうれしく想像できた。
それは私の中で、将来に色や音、動きが加わった瞬間。
その後にさらに四人の子どもが与えられた時も同じく。

教会家族にはたくさんの子どもが与えられている。
生まれて三週間の輝生くんや、おなかで育まれている命も与えられている。
この事実は、
彼(女)らが生きていく将来が、私たちの教会に希望として輝いていることを示す。
私たち教会は、
彼(女)らのために、将来にわたって、主イエス・キリストが伴われ働かれることを、
今、リアルに、
神からの希望として見させられている。 

私たちは希望を生きる。
希望は私たちの道しるべ。
そして目の前のいくつもの道から、希望に導かれる道を、私たちは、今、選ぶ。

原発事故により放射線量の多い地域に住む人たちは、
歩むべき道の選択において苦しむ。

原因の一つは、放射線の量や被害について何を信じるべきかわからないことがある。

しかし同時に、
放射線による苦しみが、今ではなく、将来に現われる事実も原因だ。
「花粉でマスクをする人に比べ、放射線でマスクをする人は少ない」。
福島に住むある母親が嘆く。
花粉はすぐに症状が出るからか、私たちはマスクをする。
でも放射線は症状が出ないからか、吸い続けたら将来苦しくなると知りつつも、マスクをはずす。
これが私たちの弱さのようだ。

そしてこの弱さは同時に希望の弱さではなかろうか。

子どものいる親からは将来の苦しみを避けるための声が叫ばれる。
それは子どもを通して希望を強く持つからに違いない。

ならば希望をキリストの必然として強く知る私たちは、
将来の苦しみを避けるために叫ぶその親たちに思いを合わせるに違いない。

ただ、どうも人は将来より、
今をストレスなく健やかに生きることを選び取る本性を持つ。

だから希望に生きることは自分の本性とのたたかいともなる。

このとき、
私たちは冒頭のみ言葉を思い起こしたい。
希望は欺くことがない!と神が約束される。
逆に言うと、
今をストレスなく生きることには、欺きが隠れている可能性もあるのだ。

放射線量の高い地域の人たちを覚えて祈る。
心から主の働きと癒しとを祈る。
さらに主が彼らに希望を贈り、そもそも主が希望であることを告知されることを祈る。
この世界のみんなが希望をいただくことを祈る。
ゆえに欺きから解放されることを祈る。
共なる歩みが与えられることを祈る。