きぼう屋

生きているから生きている

覚えて祈ることのできる恵み

2011年05月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「覚えて祈ることのできる恵み」

東日本の地震と津波、原発事故から一ヵ月半が過ぎました。
津波の被災を受けた人たちは、誰もが心身の限界を迎えています。
すぐに休まねばならないくらい疲労しています。
原発事故は伝わる情報の信頼性すら確保できず、収束する見通しが立っていません。

そこで教会、キリスト者は何ができるのでしょう。

私は、亡くなられた方と、生き延びつつも苦難にある方とを覚えて祈ることだろうと思っています。
それもできたら名前を呼んで祈ることです。
もし亡くなった方や被災者に知り合いがいるならば、その方の名を挙げつつ祈りましょう。
また知り合いでなくても、新聞などで名前を知ったなら、その名前を挙げつつ祈りましょう。

私たちがそれをするのは、主イエスが、私たちに求めるだろうからです。
被災地で亡くなられた方と一緒に主イエスは十字架で死にました。
被災地で苦しむ方と共に主イエスは十字架で苦しんでいます。
その十字架に向かう直前に、
主イエスは、ゲッセマネで、血の涙を流しつつ祈られました。
同時に疲れのため眠っていた弟子たちに、祈るよう求めました。

私たちも、亡くなられた方、苦難にある方を覚えずに眠ってしまうかも知れません。
でも主イエスは、そんな私たちに見捨てるのではなく、
なお愛し信頼して、祈ろう!と言います。

だから祈ります。

そして十字架の主イエスのために祈るということは、
主と共に亡くなられ、また苦しまれている一人ひとりの名を挙げて祈ることに違いありません。

私が多少しつこいほどに
教会員名簿やそれぞれのアドレス帳を見ながら、
そこに記されている名前を呼んで顔を思い浮かべて祈ろう!
と呼びかけていることは、
私たちに与えられている大きな恵みを生かしきろう!
ということに他なりません。

そしてこの互いの祈りあいが起こるならば、
教会とキリスト者は間違いなく命を得ます。
地域と他者の命に役立つ教会、キリスト者になります。
開かれ、愛にあふれます。

さらにこの具体的に覚える祈りから、
具体的な死者の弔いと苦難者への寄り添いが起こります。

この祈りから教会の交わり、礼拝、祈祷会、教会学校、各会の交わりが本物となります。
 
私たち京都教会は祈ります。