きぼう屋

生きているから生きている

本性に抵抗するロゴスに従う

2011年05月23日 | 「生きる」こと
我が家のトイレに積み上げられているたくさんの本たちの中から
今朝はなんとなく1年前の雑誌を手に取る。
「atプラス」の03号。
読了していたつもりだったが、目次の前にある巻頭エッセイをどうも読んでいなかったよう。
これが面白い。
岡崎乾二郎さんによるもの。
その冒頭部分を紹介。

ただ岡崎さんはマルクスから学んで書かれておられるゆえ、
紹介の後、聖書から学ぶ私は、少し言い換えをすることをお許しいただきたい。

しかし、大切な構造を教えてくれるとても優れた文章と思う。

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普遍的に考えようとするならば人間は頼りにならない。
忘却と変節こそ人間の性は本質としているからである。
ゆえに人は理論を必要とする。
人の身体のご都合主義に侵されることなく、
自分の判断そして行動を律するために。
であるならば、
この理論は人間に依拠するわけにはいかない。
すなわち理論は人間がそのフニャフニャ、ひねもすのたりくたりするだけの頭から捻り出したようなものであってはならない。
人間に対して、理論とは抵抗すなわち物質である。
抵抗のために理論があるのではなく、
理論それ自体が人間によって消去も除去も、
当然否定することもできない抵抗物であるということだ。
ゆえに理論的に考える、とは人間が考えるのではなく、
抵抗(が要請する理論)それ自体が考えるというべきである。
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私はここで用いられている理論を、
ヨハネ福音書から特に知る「ロゴス」に言い換えたい
ロゴスは人間の本性に対する抵抗として啓示される。
そのロゴスで私たちはご都合主義から解放され、主に従う。
だから信仰者が繰り返し注意しているのは、
自分でひねり出すのではなく、み言葉から戒められるかたちで、
ロゴスをいただくということ。

ロゴスは私自身への神の抵抗であるということ。
十字架における抵抗であるということ。
さらに死に抵抗する復活であり、
絶望に抵抗する希望であるということ。

さらにさらに
破壊に抵抗する再創造である!

しかしそのときに
私たちは自分でひねり出すのではなく
み言葉に戒められつつ、与えられる。

そのときに起こされるのは、
ご都合主義での判断ではなく、
十字架を背負う抵抗なる行動。


戦争前夜に
しかし人は自らの本性に従った。
ロゴスが抵抗してくることを拒んだ。
前夜であることを認めなかった。
戦争がはじまった。

放射線による甚大な被害が出る前夜である今
人は何に従うのか。

津波による破壊と絶望の中
人は何に従うのか。

自らの本性か
本性に抵抗するロゴスか