心ってなんなん?
胸のあたりに感じるらしい心でありますが
しかし
そこには心臓をはじめ身体器官があるのみでして・・・
心理学の本を読んでも
みんなぜんぜん違うことを言っているし
つまりこれまでの思想を
別の言葉で
それもちょっと内省的な言葉で翻訳しているだけと思ってしまったら
もはやそのようにしか読めなくなってしまっているし・・・
だから心理学にも右から左まであるし
うーん。。。
ただ心というところで何かを感じ何かを思い何かを決める
という感覚なのだろうなあ
ということはよーくわかります
しかし
わたしはやっぱり思います
心ってのは
ある!と考えても
ない!と考えても
どちらでもいいものなのだろうなあと・・・
聖書からも心ってのはよくわかりません
精神性と捉えることもできるし
魂と捉えることもできるし
霊とも捉えることができるし
上記のみっつの解釈(翻訳)と違って
「心」と訳されているところはなにゆえに「心」となっているのかも
わたしはわかっておりません
たしかに昔から体と心の二元論は語られてきましたし
とりわけ個人主義をもてはやすこの数十年は
個人主義ゆえに
個人の体と心というテーマに惹かれるということがあると思うのですが
しかし
聖書がそれに引っ張られて解釈されてはならないので
そのあたりの解釈は丁寧にする必要があります
で
わたしが聖書が心というときに
それが何を意味するのかと考えるとき
昨今は
こころ=せかい・れきし
と捉えるようになっています
「こころ」という歌詞が入っている讃美歌(子ども讃美歌も)の
その「こころ」の部分を
「せかい」や「れきし」に取り替えて歌ってみてくださいませ
はまりまくります
これは当教会員のMさんから5年前くらいに教えてもらって
年々
まったくそのとおり!
と思っていることであります
たとえば
♪キリストの平和がわたしたちの心のすみずみにまでいきわたりますように
を
♪キリストの平和がわたしたちの世界のすみずみにまで・・・
♪キリストの平和がわたしたちの歴史のすみずみにまで・・・
と歌うと
急に讃美歌の世界が広がり
具体的なキリストの働きが見えるようになり
つまり讃美歌が実体を伴うと思いませんか
実はこれはありとあらゆる讃美歌で通用します
「こころ」を「せかい」「れきし」に変えて歌うと
ドキッとします
これだ!って思います
つまり
わたしたちが心と呼ぶものは
実にわたしたちに大きな影響を与えているからこそそう呼ぶわけだと思いますが
しかし
私たちが影響を受けているのは
実に外側の世界であり
つながっている歴史であるわけです
世界と歴史はわたしたちの目の前にしっかりとあるものです
しかし
目の前にがっつりあるというものは
それが真実であるほどに
重たすぎるので
わたしたちが
とりわけ個に分断されて
あるいは積極的に個となって
個人主義であるときは
重たすぎて絶対に担えないので
それを
心
という抽象的なものとしてぼやけさせているのだろうなあ
と最近は考えています
でもぼやかしてでも
目の前にあるものがないと生きていけないので
ぼやかして目の前のものと向き合うというひとつの工夫なのだなあと思います
そして
しかし
キリスト者というのは
とりわけ
パウロのいうところの成人としてのキリスト者というのは
ぼやかさずに
世界と歴史を担い
それを十字架として主と共に背負う者のことであるわけで
キリスト者は
心として認識することから解放されて
目の前にある世界と歴史をそのまま背負うことへと招かれているに違いないと思います
現在詩編を読んでいますが
神の前に心を注ぎだす
とか
目の前に罪が並ぶ
とか
実に心の中にあると人間が思ってしまっているものを
もう一度
世界、歴史として
神の前に
そして自分の前に
しっかりと存在させて
それを受ける
ことが
強烈に大事
と思わされます
そしてそれは
個人では絶対に!絶対に!できません
だから
わたしたちはキリストの体なる教会共同体なのであります
交わりなのであります
キリストの体となることが
(個人主義から解放されることが)
心としてぼやかしていたものを
世界と歴史として受けることができるための秘密です
こころ→せかい・れきし
なのでございます
胸のあたりに感じるらしい心でありますが
しかし
そこには心臓をはじめ身体器官があるのみでして・・・
心理学の本を読んでも
みんなぜんぜん違うことを言っているし
つまりこれまでの思想を
別の言葉で
それもちょっと内省的な言葉で翻訳しているだけと思ってしまったら
もはやそのようにしか読めなくなってしまっているし・・・
だから心理学にも右から左まであるし
うーん。。。
ただ心というところで何かを感じ何かを思い何かを決める
という感覚なのだろうなあ
ということはよーくわかります
しかし
わたしはやっぱり思います
心ってのは
ある!と考えても
ない!と考えても
どちらでもいいものなのだろうなあと・・・
聖書からも心ってのはよくわかりません
精神性と捉えることもできるし
魂と捉えることもできるし
霊とも捉えることができるし
上記のみっつの解釈(翻訳)と違って
「心」と訳されているところはなにゆえに「心」となっているのかも
わたしはわかっておりません
たしかに昔から体と心の二元論は語られてきましたし
とりわけ個人主義をもてはやすこの数十年は
個人主義ゆえに
個人の体と心というテーマに惹かれるということがあると思うのですが
しかし
聖書がそれに引っ張られて解釈されてはならないので
そのあたりの解釈は丁寧にする必要があります
で
わたしが聖書が心というときに
それが何を意味するのかと考えるとき
昨今は
こころ=せかい・れきし
と捉えるようになっています
「こころ」という歌詞が入っている讃美歌(子ども讃美歌も)の
その「こころ」の部分を
「せかい」や「れきし」に取り替えて歌ってみてくださいませ
はまりまくります
これは当教会員のMさんから5年前くらいに教えてもらって
年々
まったくそのとおり!
と思っていることであります
たとえば
♪キリストの平和がわたしたちの心のすみずみにまでいきわたりますように
を
♪キリストの平和がわたしたちの世界のすみずみにまで・・・
♪キリストの平和がわたしたちの歴史のすみずみにまで・・・
と歌うと
急に讃美歌の世界が広がり
具体的なキリストの働きが見えるようになり
つまり讃美歌が実体を伴うと思いませんか
実はこれはありとあらゆる讃美歌で通用します
「こころ」を「せかい」「れきし」に変えて歌うと
ドキッとします
これだ!って思います
つまり
わたしたちが心と呼ぶものは
実にわたしたちに大きな影響を与えているからこそそう呼ぶわけだと思いますが
しかし
私たちが影響を受けているのは
実に外側の世界であり
つながっている歴史であるわけです
世界と歴史はわたしたちの目の前にしっかりとあるものです
しかし
目の前にがっつりあるというものは
それが真実であるほどに
重たすぎるので
わたしたちが
とりわけ個に分断されて
あるいは積極的に個となって
個人主義であるときは
重たすぎて絶対に担えないので
それを
心
という抽象的なものとしてぼやけさせているのだろうなあ
と最近は考えています
でもぼやかしてでも
目の前にあるものがないと生きていけないので
ぼやかして目の前のものと向き合うというひとつの工夫なのだなあと思います
そして
しかし
キリスト者というのは
とりわけ
パウロのいうところの成人としてのキリスト者というのは
ぼやかさずに
世界と歴史を担い
それを十字架として主と共に背負う者のことであるわけで
キリスト者は
心として認識することから解放されて
目の前にある世界と歴史をそのまま背負うことへと招かれているに違いないと思います
現在詩編を読んでいますが
神の前に心を注ぎだす
とか
目の前に罪が並ぶ
とか
実に心の中にあると人間が思ってしまっているものを
もう一度
世界、歴史として
神の前に
そして自分の前に
しっかりと存在させて
それを受ける
ことが
強烈に大事
と思わされます
そしてそれは
個人では絶対に!絶対に!できません
だから
わたしたちはキリストの体なる教会共同体なのであります
交わりなのであります
キリストの体となることが
(個人主義から解放されることが)
心としてぼやかしていたものを
世界と歴史として受けることができるための秘密です
こころ→せかい・れきし
なのでございます