きぼう屋

生きているから生きている

キリストの十字架で他者と出会う

2009年01月18日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「キリストの十字架で他者と出会う」

世界の貧困が広がる経済状況の只中で、
小泉元首相が構造改革を始めた約10年前から、
私は
「みんなホームレス予備軍となった」
と言ってきましたが、
それが予想通りになってしまいました。

私が占い師や偽宗教家や評論家だったならば、
将来を予想できた力を誇るところなのかもしれませんが
(テレビでコメンテーターが誇るように・・・)、

しかし
予想はそうならないための警鐘だったわけで、
実際にそうなったことは、私にとって大きな苦痛となっています。
悪い将来を予想できたなら、予想通りにならずして初めて喜べるわけで、
国をあげて貧困やホームレス状況を議論する今は、
最悪の状況です。

この間、
「格差」「貧困」「金融危機」「派遣切り」と、
徐々にホームレス問題が騒がれ始め、
今やブームとなりました。

かつてからの支援者は、この騒動に戸惑うばかりですが、
でもこうなったら、
関心の向けられている間にホームレス当事者の困窮ができるだけ減るようがんばりたくも願います。

そしてこのブームで支援者が急増しています。
昨日は弁護士会が初めて支援者懇談会を開催しました。
また力のある組合や市民運動体、病院がホームレス支援を決定しました。
個人のボランティアもどんどん誕生しています。
これはとても心強く感謝なことです。

しかしそんな中、
昨日の弁護士会主催懇談会終了後、
ある方が私にこう仰いました。
「新しい支援者を子育てと思って面倒みてくれませんか」。

いやいや最近子育てには慣れてきたけどそんなそんな・・・
と私ははぐらかしてみたのですが、
続けて
「このブームが去っても彼らが支援できるようになってほしいのです」
と仰られ、なるほど!と思いました。

ブームは利用されます。
金儲けのために(貧困ビジネス!)、
また無意識の中で自己実現のために、
ホームレス当事者が利用されます。
それがこの発言の意味なのでありましょう。

ならば.このような利用を突破した支援とは何でしょう?

それは
当事者個々人との出会いの物語が「共有のいのち」となる経験をすることだと思います。
この経験者が増えればホームレス問題は本質から改善されることでしょう。
逆にこの経験を持つ人材が増えずに支援事業を増やしても、自己実現を超えることは不可能です。

そしてそれをよく知るのは信仰者ではないでしょうか。
歴史を通して
神をビジネスや自己実現のため利用する事態に信仰者は幾度もおぼれています。
でも他者の困窮の中にキリストの十字架を発見することへと導かれ、
キリストと共に他者と出会うことで幾度も救われてきました。

そこで私たちは、
キリストと他者との「共有のいのち」を受けます。

だから私たちは、
神を利用していないのならば、
ブームと関係なく他者の困窮と出会います。
キリストが今も私たちみんなの救いのために十字架にかかるからです。

キリストよ!来たりませ!アーメン。