きぼう屋

生きているから生きている

自由

2007年10月17日 | 教会のこと
ホームレスは好きでやってる・・・
自由をあえて選んでいる・・・

といわれる市民の方はいまでもたくさんおられまして・・・

アンケートなどで
それは違う!
ということを言えるので
そのように応えておりますが・・・

しかし
ずっと
「自由」って何?
ってな問いも脳みその隅にありまして・・・


ふとこんな風に思いました。

「自由」ってのは
生きる方向に向かってあるものであり
死ぬ方向に向かってあるものではない!


今の世界
いやもしかしたら人間の世界はいつでも
なぜか死に向かっています。

まあ当然
いつかは死ぬわけですから
そうりゃあそうだ!
とも言えそうですが

しかし
もうちょっと考えてみると
みんな死なないために
他者を蹴落とし踏みつぶし
時に殺すわけで

直接的に
それ以上に経済システムにおいて間接的に
時に殺すわけで

でも
世界の循環としては
もはや死なないための循環でなく
みんなが
死に向かっているという循環として
かっちりと世界システム化していると言っても過言ではなく
なんとも希望が見えない世界なわけです。

だから
自分で自分の命を落とす自由とか
自分で自分の身体を傷つける自由とか
時に語られるのかもしれません。

ホームレス当事者と出会うと誰でも知るのは
病気だけど、病院に行きたがらない仲間でありまして
そういうときによく聞く言葉は
「別に病気でもいい!おれの自由だ!」
というものです。

でも
「自由」ってのは
死に向かうものはないと思いました。
死に向かう自由は偽者だと思いました。

でも
死に向かう自由が多く語られそれが肯定されるのは
世界が死に向かっているからであり
それを今一度生きる方向へ向かわせる事柄については
世界がほとんど知らないからだと思いました。

復活、快復、和解、救いを知らないからだと思いました。

でもそういう世界では
死に向かう自由を肯定するしか
手がない!
ということは
起こりうるし起こるはずだと思いました。

でもそれは実は
死に向かう自由を手に入れたのではなく
生に向かう自由を手に入れることが不可能な世界になった
ということでしかないだろう
と思うわけです。

だから
やっぱり
「病院に行こう」「生きよう」
と語り続けたいと思います。

そして
生に向かう
生きる自由を
まさに本物の自由として
表現していきたいと思います。

赦しも救いも和解も快復も復活も
教会は表現することが出来るのだから。