きぼう屋

生きているから生きている

権威とのたたかい

2007年10月09日 | 教会のこと
根源的な問いをこのブログで発することが多いのですが・・・
今回もそんなところでして・・・

私はバプテストですし
バプテストが好きですなあ・・・

しかし
そのバプテストとしての特徴が
イイワケとアリバイに使われるのが多いのは
世間のあらゆる思想信条と同じでして・・・

どうもロゴスにならない・・・

たとえば「権威」というテーマ

バプテストはすべての人の権威を認めません。
聖書の言葉のみが権威です。

しかしその聖書の言葉のみ!というのが
原理主義という枠組みでよく語られるように
自分に都合のいいことを聖書の言葉で語ることで
実は自分を権威にするという
そういう倒錯が見られるのが
おそらく今の世界のバプテストの最も大きな現象。

だから実はもはや聖書のみが権威という
この一連の文章は崩壊しているし
それを立ち直らせることは歴史的に意味がないだろうと思っています・・・

まあしかし
牧師や教会役員などに権威がない!
ということは実生活問題の中でよくわかるから
これはよくできている制度だと思います。

でも
例えばそういう中で
牧師、役員、信徒という区分のなかに
職務的な違いはあれ本質的な違いはないということで
いろいろと教会が考えるなら

そこではかならず次のテーマも同時に考えられねばならないでしょう。

それは
男性と女性という区分というテーマです。

牧師が信徒に権力を振りかざせるというところからの解放
信徒が牧師の権力に半ば脅かされるというところからの解放
を考えるなら

男性が女性に権力をふりかざせるというところからの解放
女性が男性の権力に脅かされるというところからの解放
を同じだけテーマにしていないならばおかしい・・・

それなしに
牧師の権威について語っている教会は
実はアリバイとイイワケ
つまり
牧師を守るためのアリバイとイイワケ
信徒を守るためのアリバイとイイワケ
教会組織を守るためのアリバイとイイワケ
を超えることは出来ていないということだろうと思います。

しかししかし
牧師と信徒
男性と女性
ということをテーマとする教会は
さらに同時に
大人と子ども
ということもテーマにすることでしょう。

とても簡単なことで
歴史的に
信徒に女性に子どもは
暴力を受けているわけです。

でもここにくると
なぜか明確に
大人と子どもの区分がなされる。

幼児洗礼の否定など
積極的にバプテストは区分をする。

教会学校において子どもの礼拝だけ区別されているとうこともある。

なぜだろう。。。
ここに矛盾を見るのは私だけなのか・・・

大人と子どもの区分は近代の歴史が重ねられる中で極めて重要な出来事であるはず。
知らねばならないことは
大人と子どもと
その間の思春期という区分などは

牧師と信徒という区分と力関係を人間が作ったように
男性と女性という力関係と人間が作ったように
やはり
決して自然の事実ではなくて
人間が近代に作り出した区分と力関係で
そこでは明らかに大人が子どもを支配しているわけです。

だから
例えば
学校制度と同じく
同じ年、年代に生まれた人をグループにする教会学校をしていたら
それは
牧師と信徒という「権威」に関するテーマを考えていたとしても
やはりロゴスにはならないという・・・

そういうことでありましょう。。。


健康な人と病気の人
とくに精神の病という範疇でそれが語られる場合のこともテーマとなっていないなら

やはり
牧師と信徒
男性と女性
大人と子ども
について考えていても
それはロゴスにはなっていないという証拠でありましょう。。。


歴史的に人間が作り出してきて整理整頓してしまった枠組みとそこにおける力関係を
徹底的に批判する中でしか
バプテストは成立しないわけですなあ。。。

つまり
端的にそこで弱くされている者に寄り添い
そこからの言葉が教会をかたちづくる
というところに賭けるというところがバプテストなわけでしょうなあ。。。

牧師社会の教会は
牧師の権威を語らない。。。

男性社会の教会は
牧師の権威を語り男性信徒の力を保証すれど
男性の権威は語らない。。。

大人社会の教会は
牧師の権威と男性の権威を語り
男性と女性の大人の力は保証すれど
大人の権威は語らない。。。

体力のある人間社会の教会は
牧師と男性と大人の権威を語り
子どもも含めた体力のある人間の力は保証すれど
体力(経済力・知力・健康を総合したものとして)の権威を語らない。。。



教会が人間が集まっている現場として
そのようなことを語るとき

イイワケとアリバイで語る場合は
その現場からなんらかの人間の偏った力があるかないかで語ることになるだろう・・・
だからある意味犯人さがしをする・・・・

しかし
ロゴスで語る場合は
その現場はどこかにかならず人間の偏った力があるということを知り
その偏った力が今の時点でどこにあるのか
牧師か男性か大人か体力ある人間か
いや最も細かく分析するなかで
それを見出し
その力のあるところを告白しあう中で
次の具体的対策を考えていくことになるだろう・・・

つまり罪人の集まりでしかない教会の
交わりを維持するための
悪しき妥協点なり結論点を
いつもよく見えるかたちで共有していく
という教会の姿を
ロゴスで語る教会は選択するだろう・・・

とまあ
こんなあたりを
なんとなく考えているところで
もっと深く掘り下げていきたいと思っているところです。。。



各個教会制度は
もっと悪く利用されていて
イイワケとアリバイでないところの論理を
私はなかなか聞いたことがありません。

誰か教えてくださいなあ。
先輩方。